七、体裁なんか捨てちまえ

 青年兵士ルロイは、客室の寝台の上で、五年ぶりに自身の母親に再会していた。

 彼女のたっぷりとした肉体による熱い抱擁は日々鍛えているルロイにもさすがに苦しかった。

「明日、の、死亡、報告、書は、頼んだ、ぜ、アル……かはっ」

「若君にそんな口利くのはどの口だい? ほれ、謝んなさい!」

 ぎゅっと圧迫された肺に十分な空気が入らず、ルロイは豊満な母の胸で意識を手放した。

「ハ、ハンナ……! 俺が良いって言ったんだ! ルロイを解放してやってくれ!」

「あら、そうなんですか? この子、伸びちゃってるわ。情けない息子ですみませんねえ」

「はは……」

 アルフレッドが止めなければ、酸欠が死因、殺害者は母親の不幸な兵士が葬られるところだった。そう思うと、彼は自身の乳母に対し、警戒の念を抱くのだった。

 再び寝台に横たえられたルロイを後目に、アルフレッドは本題を出した。ユスティリアーナの名前を出すと、ハンナのはつらつとした様子が嘘のように消えた。

「また寝室に奥方さまが……。五年経ちますが、悲しいことですね……」

「また、とは一体、どういうことだ? こんなことは初めてだぞ?」

 俺を兄貴と間違うだなんて、という言葉をアルフレッドは呑み込んだ。いつの間にか目覚めたルロイも体を起して興味津々といった視線を母親に送っている。

「坊ちゃんは常々困っていらしたじゃないですか。リチャードさまの失踪から、奥方さまがその御心を乱してしまって。坊ちゃんに会うたびリチャードさまのお名前で呼ばれると」

 アルフレッドとルロイが顔を見合わせる。

 アルフレッドの視線が、ルロイにハンナまでおかしいのかと問うと、息子は首を勢い良く横に振った。

「ユーシィはなぜ、俺を兄貴と呼ぶんだと思う、ハンナ?」

 アルフレッドが尋ねると、ハンナはまた一つ大きなため息をついて語りだした。

「坊ちゃんは覚えてらっしゃいますかね、十一年前のお兄さまの結婚式を。私は今でも覚えてますよ。幸せな結婚式でしたねえ、花は咲き、緑萌える素晴らしい夏至の日でした」

「ああ、それは俺も覚えているよ」

 自身にとっては不幸のどん底だった兄の結婚式だ。忘れるはずもないと彼は思った。

「ですがねえ、幸せってのはなかなか続かないものですよ。特に結婚ってのはねえ。あ、ルロイ、お父ちゃんに言うもんでないよ?」

「わあってるよ。ほら、さっさと話してくれよ、熊さん」

 母熊は小熊に向かって盛大な鼻息で答えると、続きを語り始めた。

「一年経ったある日ですね。それはそれは、リチャードさまによく似た流浪の画家がリチャードさまと懇切な仲になりまして……」

「誰だ、それは? 俺の知らない友人か? 名はなんと?」

 アルフレッドが横槍を入れると、ハンナは目を丸くした。

「坊ちゃん、転んで頭でも打ってきたんですか? 坊ちゃんもよくご存じの方ですよ。リヒャルトさんという画家です。腕がいいものだから、そのあとすぐに宮廷に召抱えられたんですよ。本当にリチャードさまと瓜二つで。彼の絵はその人柄が表れているようで優しい絵でしたよ。あんまり素敵だったから、家の倅が城下町に行く手土産にって、家族の小さな肖像画を二枚描いてもらったくらいで。ねえ、ルロイ?」

 ハンナがルロイに同意を求めると、ルロイはたじろいで頬を指で掻いた。

「あ、えーっと、なんだっけ……」

「馬鹿! 自分で手紙に書いてたじゃないか! 『枕元に立てたから寂しくない』って」

 どこかで見たような、と首を傾げるルロイに呆れたのか、ハンナは再び語りだした。

「リヒャルトさんが現れてから、リチャードさまは奥方さまに段々冷たくなってしまいました。私共もその様子を見て、たいそう肝を冷やしたものですよ。ねえ、坊ちゃん、段々思い出してきたでしょう?」

「そう言われると、そんなような気も……」

 アルフレッドはハンナの話を聞きながら、自身の記憶を探っていた。すると、どうにも一致しない点がいくつもあった。彼はそれを頭の中に留めておいた。

「決定打は、リチャードさまの失踪と、坊ちゃんとの縁談、でしょうねえ。望まれていた子宝も授からなかったし、周りが急激に坊ちゃんとの仲を勧め出したから……」

「……ありがとうハンナ、もう大丈夫だ……」

「あら、良いんですか? じゃあ朝食の支度をしてきますね」

 アルフレッドとルロイは彼らよりも大きな背中を見送ると、再びその視線を交わした。

「アル、おかしいところ、一杯あったか?」

「ああ、一杯だな。胸やけしそうなくらいだ……。女傑ユスティリアーナの話なんか欠片もないし、俺と女王の婚約の話なんか、全くなかったことになっているぞ」

「残念?」

「いや、大変喜ばしい」

 すると、二人の耳に窓をコツコツと叩く音が飛び込んできた。

 アルフレッドがちらりと音のする方に眼をやると、音の主は白カラスということがすぐにわかった。

 彼が腰を浮かすのを見るや否や、ルロイが音も立てずに寝台から窓辺まで軽やかに動き窓を薄く開けた。彼の身のこなしの柔らかさと俊敏さに、アルフレッドは目を瞠った。

 ぴょこぴょこと細い足で跳びながら白カラスは客室の丸机のところまできた。

「お主ら、なぜ斯様に難しそうな顔をしておるのじゃ?」

 鳥独特の首をあちこちに傾げる仕草をしながら、白カラスは発問した。

 ルロイは裸足のまま窓辺からぺたぺたとカラスのところへやってきた。

「カラスさん、オレ、なんか気持ち悪いんだよ……。なんか、オレの中に過去が二つある感じがして……」

「ほう? 主も同様か、アルフレッド?」

 アルフレッドは寝台の傍の椅子に座ったまま頷いた。

「はい、イグナート殿。俺もルロイと同じ……。体験した過去と、体験してもいないのに知っている過去の二種類が、頭の中でせめぎ合っています」

 白カラスの表情は鳥ゆえに伺い知れないが、彼は瞬きをするとぽつりと呟いた。

「誰かが過去にとび、未来を変えた……としか」

「なんだそれ! 時間なんて移動できるのかよ? それもカラスさんの力?」

 ルロイが白カラスに顔を近づけて詰問すると白カラスは彼の鼻を軽くくちばしでつついて攻撃した。

「わしの力なぞ、神の前では無力に等しい。多分、誰かが一回しか使えない《時の竪琴》を使ったのじゃろう……。おそらく仮面の魔術師じゃと思うが……」

 イグナートが押し黙ると、アルフレッドが冷静に指摘する。

「一回しか使えない、ということは、過去に飛んだとしたら、帰ってこられないのでは? すると、今、魔術師は現代に居ないことに……」

「落ち着くのじゃ、奴の目的はわしにはわからん……。しかし奴はそこまでの危険を冒しはしないじゃろう。……ときにアルフレッド、お主の齟齬は一体何なのじゃ?」

 アルフレッドは、自身の体験してきたボーマン家での義姉との暮らしと、ハンナから聞いた通りの知識だけの過去とを白カラスに一通り説明した。するとある事実に気付く。

「伯爵夫人だけが、変わってしまった……そんなところです」

「本当にそれだけか? ……ルロイ、お主はどうじゃ?」

 ルロイはまだ痛みの残る鼻のてっぺんを指で撫でさすりながら考え、答えた。

「オレは、知らない画家に家族の肖像を描いてもらったことになってる……。でもオレがそれを見たのはついこの間、宿舎で見たのが初めてだったぜ!」

 アルフレッドはルロイの発言にハンナの気になる発言を思い出した。

「リヒャルト……流浪の画家……兄貴にそっくりの……。そんな、まさか、な?」

 アルフレッドが信じられないという風に乾いた笑いを洩らすと、白カラスが尋ねた。

「して、リチャードはいまどこじゃ? 彼に聞くのが早かろう」

 二人の男は、ぼんやりとした疑いがはっきりと確信になってゆくのを感じた。

「兄貴は、五年前の〈孤児院事件〉のすぐ後に行方知れずです、イグナート殿」


 二人と一羽は朝食を終えるとすぐに旅立つ支度にとりかかった。

 現在、この家の家長、伯爵という肩書を背負っていることになっているアルフレッドは、執事にリヒャルトに関する書類を探させた。キーワードは、リチャードの結婚式だ、と思うと、彼の表情は苦くなるものだったが、それよりも謎へ挑む好奇心のほうが強かった。

 一息ついた彼の脳裏には、暖かな陽だまりのように笑う、奪われた妖精の少女がちょこんと座っていた。ふわふわの白いくせ毛を撫でたい気持ちがこみ上げてくる。しかし今、彼女は魔術師の手の中にあった。失恋の思い出よりも、そちらのほうが腹立たしくて、アルフレッドは肩をいからせた。

 アルフレッドは矢から鏃を全てとり、軽くなった矢の先にきつく紐を巻きつけ、矢筒のなかにどんどんと詰めた。

 ルロイは療養の為に控えていた鍛錬を軽く始めた。白カラスは二人の男の支度が整うまで、丸机の上ではちみつの小瓶をつついていた。

 昼食を摂ると、一行はすぐにボーマン邸を後にした。

 テラスから見送るユスティリアーナを見て見ぬふりをして。

 愛馬エヴァンジェリンには、野営の為の荷物と矢筒が幾つも取り付けられていたので、アルフレッドは彼女にまたがらずに歩いた。

 ルロイはのんびりと進むのに慣れていないのか、前方へ駆けだして行ってはアルフレッドを待つのを繰り返した。

 ほどなくして、空が朱に染まり始め、ぼんやりと夜の兆しが感じられる頃、彼らは野営地を決めた。

 アルフレッドはエヴァンジェリンの荷物を下ろしてやると、鏃のついたままの矢が入った矢筒を担ぎ、晩餐の材料を取りに行った。

 ルロイがすっかり火を起こした頃、アルフレッドは二頭のうさぎを仕留めて帰ってきた。

「もう暗いのに、よく仕留めたなあ……やっぱり〈ギフト〉のお陰、アル?」

「腕が良いんだよ、腕が。ルロイ、捌き方は知ってるか?」

 栗色の短髪を恥ずかしそうにかき、ルロイは言う。

「母ちゃんと妹にまかせっきりだったから、知らねえんだ」

「そうか、よく見てろよ」

 そう言うとアルフレッドは、ぐったりと息絶えた一羽の足を持ち、ナイフで背中を開くと一気に毛皮を剥き、うさぎを捌き始めた。手早い処理を見て、ルロイはアルフレッドの器用さに感心した。もう一羽も同様に骨と内臓をすっかり取り出してしまうと、アルフレッドは兎の肉に何本も細い木の枝を刺して炎に焙りだした。

「食べられるようになるには、ちょっと時間がかかるか……」

「すっげぇ! 手際良いな、アル! どこで覚えたんだ?」

 興奮気味にしているルロイに、アルフレッドは苦笑して答える。

「親父に教わったんだ。……兄貴は嫌がって覚えようともしなかったけど……」

「リチャードさまらしいや」

 満面の笑みで同意するルロイの言葉に、アルフレッドも付け足す。

「不器用なくらい、優しかったな……兄貴は……」

 薪の爆ぜる音が、星空の下に静かに響く。

 かがり火に照らされたアルフレッドの横顔が武骨ながらも優しそうで、ルロイはそこに彼の兄の面影を見た気がした。

 青年兵士は、誰にも言えずにいた真実をここで言おうと、決心した。

「……オレなんだ。〈孤児院事件〉で濡れ衣を着せられたのって……」

 いつものあっけらかんとした口調から一変したルロイに、アルフレッドはそっと目線をくれてやる。彼はまだ火にくべていなかった薪を両手で弄んでいた。

「〈ギフト〉で足が早いから、伝令をやってたんだ。孤児院から煙が上がるのを見て、すぐに国境警備隊を呼びに行って、独りでまた戻った……」

 ルロイが薪を炎の中に放り込んだ拍子に、火の粉が舞い踊った。

「魔法みたいだった……火が生きてるみたいだった。生き残ってる人なんか、いないと思った。でも、オレ、見えたんだよ、中で人が動くのを……だから……」

「お前っ! 火傷したらどうするんだ!」

 アルフレッドが制止するのにも構わず、ルロイは焙る肉の刺さる枝を素手で取り上げた。彼は熱さを堪えながら枝を器用に使って肉を割き、アルフレッドに渡した。

 アルフレッドが戸惑いながら受け取った肉の、その裂けたところから肉汁が滴っている。

「今みたいに、勇気出して孤児院に入った。一人だけ、生きてた。その子は、台所で煙を吸って倒れてた。でも、胸が動いていたんだ。でも、他の人たちはもう……」

 ルロイは香ばしい香りを立てる肉にかじりつき、顎で力任せに引きちぎった。彼の口内に焦げた風味と肉汁がいっぱいに広がる。

「その子を北の泉に連れて行って寝かせて、オレは消火しに、また孤児院に戻った。でも、戻ったら終わってた。先輩が俺を指さしたんだ。あいつが怪しいってさ。ぶかぶかだった鎖帷子に煤は着いてるし、作業にはいなかったし。入隊したばっかりだったから虐められたのかな?」

 へへ、と少しだけ悔しそうにするルロイの顔にくっきりと浮かんだ影が、普段少年のように振舞う彼を年相応に見せた。炎が彼の栗色の髪を紅く輝かせていた。すっかり肉を平らげたルロイは指についた汁を舐めとると、両足を放りだした。

「そしたら、伯爵さまがいなくなって、オレ達は城下町に行くことになって……。なんか責任感じちゃったぜ」

 ルロイの話を興味深そうに聞いていた白カラスは、自身も腹を空かせたのかアルフレッドに歩み寄り、くちばしで彼の筋肉質な太腿をつついた。

「……それは、ルロイのせいじゃないさ……」

 アルフレッドは白カラスの要求に応じ、はちみつの瓶を開けながら呟いた。

 もう一つの肉を火口の合間を縫って取りだしたルロイは、またそれを半分にとり分けてアルフレッドに手渡した。

「リュリちゃん……、あの子にそっくりなんだ。だからオレ、放っておけなくて!」

 にっと口を引いて笑顔を見せるルロイに、アルフレッドははっとさせられた。

 天使の羽を思わせる白い髪と翠の目。その容貌が彼女を特別にしているかと思っていた。

 だが、それが間違いだと気付いた。

 いつの間にか、彼女と言う存在が、彼の中で大きく、そして特別になっていた。

「……わかるよ、その気持ちが……」

「え? なになに?」

 ルロイがアルフレッドの横に腰をずらす。ルロイは自身のしこりを吐き出して幾分かすっきりとした表情を見せていた。

「……俺の気持ちの整理に、付き合ってくれないか?」


 七歳のアルフレッドが、王女ユスティリアーナに淡い恋心を抱いたこと。それに自覚した時には彼女と兄の結婚が決まっていたこと。幸せを体現した夫婦を見るのが苦痛でボーマン家に居ずらさを覚え、貴族よりも狩人になりたかったこと。

 ここまでを話すと、ルロイが口を挟んできた。

「……なあ、リチャードさまは、結婚してもアルに普通に接してたのか?」

「そうだな……。それがかえって、俺には気まずかった」

「気まずいなあ……。俺ならそんなこと、出来ない」

 アルフレッドは不満そうな声を上げるルロイに驚き、彼の方へ顔を向けた。

 ルロイは小さな革袋から木の実を一つずつ取り出し口に放り込むと、かりこりと乾いた音を立てながら言った。

「オレ、年下の兄弟がたくさんいるんだけどさ、そいつらが好きなものは言われなくても判るつもりだぜ。特に、優しいリチャードさまだったら、絶対に気付いてたはずだ……と思う」

 アルフレッドが険しい表情で考え込むと、ルロイは革袋を彼に差し出した。

 彼は礼を言い二つ三つ木の実を掌に乗せ、一つを口に入れる。噛もうとすると、なかなかに固かった。

「仮に弟が、オレと同じ人を好きになっちまったら……黙って結婚はしねえな。プロポーズする宣言をまず、弟にする!」

「それ、弟へのプロポーズに聞こえるぞ?」

「ぶふっ」

 ややこしい言い回しをするルロイにアルフレッドが吹き出しながら指摘する。

「ご、誤解だ! 好きな人にプロポーズしに行く前に、弟に、オレがプロポーズしに行くことを言いに行くんだよ! って、ああ! オレ、なんでこんな恥ずかしいことをっ!」

 焚火の炎と羞恥でルロイの顔が赤くなるのを見て、アルフレッドは腹の底から笑った。

 ルロイは悔しそうにくちびるを突き出す。

「オレ、ちょっと頭冷やしてくる!」

 ルロイは持ち前の速足で即座に焚火から離れて行こうとしたが、煌々と燃える炎に目が慣れていた彼は、しばらくその場で暗闇を睨んだ。アルフレッドが〈ギフト〉の力を発揮する。

「……川なら、俺の後ろの方を真っ直ぐ走っていけばあるぞ」

「わかった! 行ってみる!」

 一心不乱に直線を貫いたルロイを、アルフレッドはすこし見守った。頭を川の水ですっかりずぶ濡れにして帰ってきたルロイは、手拭いでいい加減に滴を拭った。

「……嬉しくなかったんだ、びっくりするくらい」

「へ? 何が?」

 炎に手拭いを乾かすルロイに、炎を見つめるアルフレッドがこぼす。

「……ユーシィに迫られたこと。俺、やっぱり……」

 ルロイは、アルフレッドの灰色の瞳が炎以外の光を宿したことに気付いた。

 それは意志の光だった。

 その光は、彼のりりしい表情に精気を与えていた。

「大切だ、リュリのこと……。絶対に、取り戻して見せる!」

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