五、心の距離感

 囚われの小鳥は、その鳥籠から逃げる気力をすっかり無くしていた。

 連れてこられてからの三日間、全ての食事の時間をシュウと過ごしたが、彼女は、彼のビロードのような声や手つきに何の反応も示さず、ただぼうっと窓の外を見ていた。

 兄はそれに手を焼き、どうにかして興味を引き付けようとした。

 あれやこれやとリュリに贈り物をしたり、躍起になっていたが、贈り物もその行動もリュリの乾いた心には何の意味も持たなかった。

 夜にシュウがリュリの寝台に入ってこようとした際には、彼女は頑なに床で寝ることを主張したため、それ以降、彼は夜には来なくなった。

 リュリの心の中には、自身に関わったことで不幸になった人々のことが渦となって思い出されていた。

 孤児院の仲間たちが建物ごと炎に包まれる場面と、ルロイがシュウの手によって塔から投げ出される場面が脳裏にこびり付いて、寝ても覚めても彼女の考えを支配した。

 四日目の朝の食事が終わると、シュウはリュリの方をそっと抱き寄せ、その額にくちづけてリュリの部屋を後にした。彼女にとってそれは、何の感情も呼び覚ませるものではなかった。

 少女は彼のことを見送らず、やはり窓の向こうの青空を見ていた。

「でも……」

 もし、同じことをアルフレッドにされたなら、と、ふとリュリは考えてみた。

 無理に触れようとはしない、むしろ触れることに恐れを抱いているような彼のことが懐かしくなった。

 武骨で、そっけなくて、だけどもどこか優しさと少年らしさを秘めた彼の声をまた聴きたいとリュリは思った。

 彼のことを思うと、リュリの心臓は早鐘のように高なった。

 気持ちがふわりと浮き足立つ。

 しかし、次の瞬間にアルフレッドは貴婦人の手をとってリュリに背を向けるのだ。

「……」

 窓から入ってくる風が、彼女の白金の髪を大きくたなびかせる。

 薔薇の香りさえ感じさせる爽やかな風に、自身のフードが脱げていないか咄嗟に確認するも、彼女は今、誂えられた薄手のワンピース一枚しか着ていなかった為、その両手は虚空を掴んだ。

「どうしてだめなんだ?」

 リュリの耳に、彼の声が聴こえてきた気がした。

 彼女は立ち上がって、水をぐいと一飲みした。喉だけでなく、心の渇きまで潤される気持ちがした。

 アルくんに好きな人がいても、自分の気持ちを伝えたい。

 そう、決心がついた。

「だめじゃない!」

 リュリは自分自身に言い聞かせるように言うと、部屋の中を改めて見回した。

 彼女の大樹の部屋より、いささか狭い塔の部屋は、シュウの持ってきた贈り物の箱で居住区域がさらに狭められていた。

 リュリはその箱の山を掻き分け、ひとまず寝台の横にある窓から外を見渡してみた。

 目下には見たことのないような、大規模の市街が広がっていた。

 少女は、市街をくねくねと曲がって走る大通りを見て、まるで蛇のようだと思った。

 窓から身を乗り出してあたりを見回すも、リュリの居る塔は高い位置にあり、そこから抜け出す手段はたった一つに限られていると彼女はわかった。

 彼女は窓から離れると、シュウにしか開けられないという魔法の掛けられた扉の前に仁王立った。大きく深呼吸をする。

「ここからどうにか抜け出して、伝えなくちゃ。わたしの気持ち……!」

 彼女は瞳を閉じながら、扉が開くイメージを頭の中に描き念じ、扉に触れた。

 リュリは想像する。

 触れた取っ手が、かちりと軽やかな音を立てるのを。

 そして自身の右手によって容易く捻られ、いとも簡単に扉が開き、道が開かれるのを。

「お願い!」

 リュリは掛け声と共に気合を入れてドアノブを捻った。

「あれ? うそ? 開いた……あああああ!」

 すると、あっけなく扉は開き、リュリは自身の力の反動でそのまま転んでしまった。

 それだけでなく、階段はくだりだったので、彼女は体のあちこちを擦り剥きながら階段が無くなるところまで転げ落ちてしまった。

「痛いよう……」

「……曲者! 貴様、ここで何をしている!」

 埃まみれのリュリが打ってしまったところを撫でさすっていると、若い兵士の声が彼女のすぐ上で聴こえた。茜色の長い前髪を持つ青年が、リュリを見下ろしていた。

「……何もしてないよ。お兄さん、出口はどっちかなあ?」

「ん? ああ、ここを右に曲がって……って待ちなさいよ! みんな、曲者だぞ!」

 リュリは青年兵士が目を逸らした隙に駆けだした。

 とりあえず下り階段を見つけてどんどん降りて行けば、この建物から出られると思っていたのだが。しかし、その考えが浅はかだったことに彼女は遅まきながら気づくこととなった。

 階段を見つけるたびに、そこから兵士がこちらにやってくるのが見え、それを避けざるを得なかったのだ。

 と、走るリュリの前方に、床に付きそうなほどの長い髪と、たっぷりとしたドレスの裾とを揺らして歩く小さな少女が見えた。どうやら、部屋の一つに入るところのようだ。

 リュリは彼女と共に部屋に入ってやり過ごそうと思いついた。

 だがしかし、勢いのついたリュリの足は止まる術を知らなかった。

「ひゃああ! どいて、どいてええ!」

「一体何事なの……へぶっ!」

 リュリが小さな少女にぶつかってしまったせいで、彼女は持っていた本を取り落としてしまった。リュリを受け止めた彼女は見た目にそぐわぬ大きな態度で詰め寄った。

「あなたねえ、一体何のつもりよ! いきなりぶつかってきて……あら、白い妖精? あなた、リューリカ?」

「ごめんなさい、ごめんなさい! とりあえず一緒にそこの部屋に入ろ!」

 リュリは少女の落とした本を急いで拾うと、彼女の背中を押して部屋に入り、扉を閉めた。

 その部屋は、大きな寝椅子がいくつかと、大きな机のあるシンプルな部屋だった。

 リュリは敷かれた絨毯の上にへたり込んだ。

 扉の向こうで鎧の擦れる音と兵士の大きな足音が聞こえ、リュリはびくついた。そのうちに足音が遠のくと彼女はほっと肩を撫で下ろした。

 道連れにした少女は、リュリの様子をつま先から頭のてっぺんまで横目でじろじろと観察し、不遜な態度で言った。

「あなた、その調子じゃあ、兵士に追われていたのね。……まあ仕方ないとは思うけど」

「えへへ……そういうこと」

 少女に対し、リュリは苦笑いを見せた。

 それを目の端で捉えた彼女は、鼻からため息をひとつ漏らすと、リュリに腕を突き出した。

 リュリは何のことか解からずに首を回すと、自身の持っている革で装丁された本に気付き、慌ててそれを少女に差し出した。

「あなたのことはジー……魔術師から聞いているわ。……リューリカ。白い妖精」

 うっすらと桃色の混じった長い金髪を翻し、少女はリュリに向きなおった。

 その瞳が品定めをするかのような鋭い光を宿しているのに、リュリは気付いた。

 彼女は、小さな少女とはいえ初対面の相手だからと考え、自身に出来る最高の挨拶をすることにした。

 すっくと立ち上がり、薄いワンピースの端を軽く摘むと、少女に対して勢いよく礼をした。元気良く上げられた彼女の顔は、汗に濡れつつも笑顔に満ちていた。

「妖精さんじゃないよ、私はリュリ。あなたは?」

「……ロザリンデ・ツェツィーリア・フォン・ヴィスタ」

 少女はリュリの宮廷式の礼に黄金色の瞳を丸くしたと思うと、すぐに俯きぼそぼそと呟いた。

 リュリも、彼女の名前のあまりの長さに目を見開いた。

「ロザ……あうう……短い言い方、無い?」

「……ロゼでいいわよ」

「ロゼちゃん! 良い名前だね!」

「べ! ……別に……」

 ロゼと名乗った少女は俯いたままだったが、頭の上のティアラがずり落ちてきたので慌てて頭の角度を元に戻した。その顔は紅に染まっていた。

 リュリは素直な気持ちで話しかけた。

「それ、綺麗だけど……何だか重たそうだね」

「別に。……慣れてるから……」

「そ、そっか……大変だね……」

 リュリの言葉はロゼの不愛想な返答によって会話の切っ掛けにはなり得なかった。

 明らかな敵意は存在しないはずなのに、対峙する二人の間に不穏な空気が流れていた。

 リュリは自身の視線があちらこちらに泳ぐのを止められなかった。

 その間に部屋の内部を観察すると、そこは生活に必要なものがない場所であるということがわかった。そして、ロゼの視線が彼女の手元の本に一点集中していることにも気付いた。

 今度は恐る恐る尋ねてみる。

「ロゼちゃんは、本が好き……なのかな?」

「まあ……」

「そっかあ」

 二人の間に、再び沈黙が訪れた。

 部屋中を支配する気まずさを破ったのはロゼだった。

 彼女は、蚊の鳴くような声でぽつりと呟いた。

「……み、見せてあげても、いいけど……」

 それを聞いたリュリは笑顔を咲かせてロゼに近づいた。ロゼはリュリの勢いにたじろぐ。

「本当に? どんなお話なの?」

「……恋のお話よ……。あなた、興味があるの?」

「うん!」

 子供のように好奇心に瞳を輝かせるリュリに、ロゼも幾分か警戒心が解けてきたようで、調子が戻ってきた。

「立ったまま読むなんてナンセンスだと思わない? あ、でもその前に……」

 そう言うとロゼはたっぷりとしたドレスに包まれたささやかな胸元からベルを取り出して、ちりんちりんと可愛らしい音を部屋に響かせた。

 すると、音が鳴り終わると同時に部屋の扉が叩かれて一人の若い女中が入ってきた。リュリは黒い髪を二つに束ねた彼女に見覚えがあった。リュリが驚いて口を開いた時には、すでにロゼが話しだしていた。

「あ!」

「お茶を二人分と、この娘にちょうどいい服を持ってきて頂戴」

「かしこまりました、女王陛下」

 黒髪の女中は命を受けるとすぐに引き下がってしまったので、リュリが声をかける機会は失われてしまった。だがリュリにはもう一つ、女中よりも気になることが出来ていた。

「女王へーか?」

 ロゼは再び黄金色の瞳を驚愕で見開くと、呆れたように腰に手を当ててリュリに説明した。

「あなた、本当に何も知らないのね。目の前のわらわが、そうよ」


 真昼の女王陛下の執務室では、お茶会とファッションショーが同時開催されていた。

 黒髪の女中が持ってきた衣装は多岐にわたっており、それを見たロザリンデ女王は目の色を変え、机に置かれた本のことなど忘れてリュリを着せ替え人形にして遊んでいた。

 彼女はえんじ色に染められたドレスを持ち、リュリが脱ぐのを待っていた。

「リュリ、次はこの赤いドレスなんてどうかしら?」

「ロゼちゃん、赤いのはお家に帰るのには目立ちすぎだよぅ……」

「帰っちゃダメ! ちゃんもつけちゃダメ!」

 何とか骨だらけのクリノリンから抜け出したリュリは、下着姿でぐったりと寝椅子に突っ伏した。締め付けは緩いものの、コルセットが彼女の呼吸を浅くしていた為、疲労感がどっとやってきた。

 逃げ出す予定が、違う檻に入ってしまったと今更ながら後悔していた。

 それでも、どこか楽しい気分なのは否めなかった。ロゼが本当に生き生きとしているのにつられたのだろうかとリュリは訝った。

 だけど……。

 リュリは彼女のなりに警戒を強めていた。

 目の前のロザリンデがこの国の女王だというのなら、彼女はアルフレッドの婚約者だ。

 アルくんと結婚する人――これからずっと暮らす人、なんだ……。

 ユスティリアーナの辛辣な物言いと一緒に、その事実がよみがえってきて、少女の心がチクチクと針のむしろになる。

 世間の害悪にさらされず森に守られてきたリュリには、耐えがたい苦痛だった。

 思い出した瞬間に、す、と頭が落ちるのも無理はないほどに。

「ちょっと、リュリ? 聴いていて?」

 リュリよりも頭一つ小さな女王が、軽い足取りで傍にやってきた。

「ねえ、フリルがたくさん着いているのが良い? それともリボンが良いかしら?」

「……何でもいいから、コルセットと骨がいらない服が良いなあ……」

「なにそれ、つまんないじゃない。それとも私への当てつけかしら?」

「当てつけ?」

 リュリは自身を見下ろすロザリンデの視線を追いかけた。彼女は、リュリの胸元を睨みつけているようだった。リュリも自分とロゼの胸元を見比べる。その違いは歴然だった。

「ロゼちゃんはまだ子供だから仕方ないよ。大人になったら何だって大きくなるから!」

 そう、少年はアルフレッドのように逞しい男性に、とリュリの脳裏に彼のことが一瞬過った。

 少し頬を染めたリュリに、女王は静かに憤った。

「わらわは成人しているわ。十六歳になったばかりよ」

「えっ! そうだったの? 同じくらいだったんだ……」

「……参考までに、いくつにみえたのかしら?」

「十歳」

 ロゼは持っていたドレスを、リュリの頭部を覆うように投げつけた。

 リュリは寝椅子から跳ね起きて顔面を覆っていたドレスを膝の上に落とした。

 しかし、次の瞬間には違う衣装が彼女の顔面にぶつかった。それを見て女王は無邪気に声を上げる。

「あはは! 素直すぎるのもまた罪よ! 今日からはその衣装でいたら?」

「いたいよロゼちゃん! ……あ、これは良いかも」

 ロゼの選んだのは紺色の女中の衣装だった。サイズもリュリにぴったりだった。


 ジークフリートは、一週間後に控えた女王の御披露目よりもリュリのことに執心していた。

 彼女が自分のことを思い出してくれたのはいいが、あれ以来ずっと笑顔を見せないのが気が

かりだったので、彼はさまざまな手土産をもって彼女の部屋に行った。

 だが、全ては開けられず、そのまま彼女の部屋を狭くしているだけだった。それを見て彼は心を痛めた。

 リュリとの朝食を終え、彼は自室に戻った。飾り気のない自室には、衣装箪笥と小さな鏡台があるだけだった。

 その上には、たった一本だけ絃の張られた不完全な状態の竪琴が置いてあった。

 彼はそれをそっと撫でると、自身の寝台に勢いよく倒れ込んだ。

「リュリ……。もうすぐ僕のものに……」

 ジークフリートはリュリのまろやかな体の感触をその手のひらに思い出した。

 鼻腔をくすぐる甘さを秘めた香りも思い起こされ、彼の心を締め付けた。

 寝台に横になったジークフリートを、新緑の青くささを孕んだそよ風が撫でる。風がカーテンをふんわりと膨らませるさまを見て、彼は忘れていたことを思い出した。

「……ドレスを作らないと……」

 彼は思い立ったが同時に跳ね起き、再び自室を後にした。

 廊下中に兵士がうろうろとしていて騒然としていたが、それを気にせずにリュリの部屋へと真っ直ぐに向かった。

 彼が異常に気付いたのは、昇る階段の上方から風が吹き込んできたからだった。

 高所特有の切れるような勢いのある風が、ジークフリートの真っ黒な髪をかき乱し、瞳に塵を注ぐ。ついでに何本ものリボンが空を切っていった。

「まさか……」

 彼の嫌な予想は的中していた。

 鳥籠はもぬけの殻だった。そこに積まれた彼の贈り物の箱が、強風によって無残にも散らかっていた。

 ジークフリートはリュリが部屋のどこにもいないことを確認すると、階段を滑るように駆け下りた。階下でうろついていた赤毛の青年の襟元を掴み、彼は問い詰めた。

「白い髪の少女を見なかったか? 妖精みたいな……」

「ジークフリート殿も曲者をお探しで? 我々も先程から……」

「知らないなら良い。さっさと探せ」

「はっ」

 彼は掴んでいた左手を放すと、兵士を労うことなく、苛立った足でその階を徘徊した。彼は考えていた。

「初めての城内だ。兵士につかまらなかったとすると、すっかり逃げ切ったか、もしくは……」

 そう、ジークフリートが思案を巡らせながら廊下を行ったり来たりしていると、どこからか少女同士が笑い合う声が聴こえてきた。彼はその声のする方に迷わず足を向けた。

 たどり着いたのは、女王の執務室だった。扉に耳をつけると、聞きなれた甲高い声と、花の揺れるような穏やかな声が聴こえた。

 ジークフリートが確信を持って執務室に入ろうとすると、彼のすぐ横に、黒髪の女中が待機していた。彼女は茶器を乗せた台車を片手で押しながら、大きな布袋を抱えていた。

「女王陛下にご用ですか、ジークフリートさま?」

 ずいぶんと生意気な口を利く女中だと、ジークフリートは少し腹が立った。それには彼女の持つイーシア出身者特有の黒い髪と瞳も一役買っていた。それは彼の嫌いな色だったからだ。

「まるで、私が入ってはいけないというような口ぶりだね」

「ええ。今、ここは執務室ではなくて、乙女の花園ですから。男子禁制です」

「なおさら気になるね。……では」

 彼がそのまま扉を引き入っていくと、そこにはたくさんの女性用の衣装の山があった。

 パーティションから出てきたロザリンデと目が合う。彼女は生き生きと顔を輝かせていた。

「ジークフリート! 見て! リュリのドレスを着せ替えていたのよ!」

「ロゼちゃん、誰か……?」

 女王の出てきた後ろから、髪をまとめたリュリが顔を覗かせた。少女の翠の瞳がジークフリートを捉えると、途端に瞳が曇った。

「リュリったら、ドレスが好きじゃなくて、結局この服に落ち着いたんだから」

「コルセットが嫌いですからね、リュリは……」

「あら、そうなの、早く言いなさいよね」

 ロザリンデが嬉々としてリュリに話しかけるも、彼女は青い顔をするだけだった。

「女王さま、かわいいお人形さんを借りていきますよ」

 ジークフリートは女王に一言残すと、リュリの手を取ると執務室を出た。

 リュリはずんずんと歩いてゆく彼の腕を解こうと必死にもがいた。

「離して! わたしは帰りたいの!」

「その割には、楽しそうな声が聴こえたけどね?」

「うう……」

 図星だったのか、リュリは押し黙ってしまった。

 彼は静かになったのをいいことにその歩みの速さを変えず、自室にリュリを連れ込んだ。

「まずは、籠から出たことについて聞きたいな……。どうやって出たんだい?」

 ジークフリートはリュリを室内に入れ後ろ手に扉を閉めると、彼女ににじり寄った。リュリはそのまま後退りながら答える。

「……開いてくれたらなー、って思っただけだもん……」

「ふむ、やっぱりアラムの子だね……。才能がある……」

 ジークフリートはリュリの頭からつま先までをじっくり見て、甘いため息を吐いた。

「その姿もかわいいよ、リュリ。……これから脱がすのがもったいないくらい……」

「へ?」

 彼は表からリュリにそっと腕を回した。腕に抱かれ軽く抵抗するリュリの耳元にささやく。

「怖い思いはさせないよ……ちょっとサイズを測るだけだから……」

「知ってるよ。また、嘘でしょ」

「君に関しては全て本気だ、僕のかわいい妖精」

 彼はリュリに甘く巻き付けたその腕でリボンを解き、リュリの方を優しく撫でそこに引っかかっていた白いエプロンを床に落とした。そして器用に背中のボタンを外し始めた。

「お兄ちゃん……。わたし、これ、やだ……」

「大丈夫だから……僕に任せて……」

 ジークフリートはリュリの着ていた紺色の女中のワンピースを上半身だけ脱がすと、下着の上から目盛りのついたリボンを彼女の体にあてがった。彼の指先によって、リュリの肩幅、背丈、一番細い腰から足元までの全身は余すところなく測られた。

「リュリ、腕を上げて……。そうそう、軽くでいいから」

「……なに、してるの?」

「測ってるだけだよ」

 そう言うと彼は、リュリの上体にリボンを巻き付けた。

「ひゃ……」

 乳房の上部、下部をそれぞれ測ると、彼はゆっくりと乳房の頂点を測りだした。リュリは多少のむず痒さに体をよじった。その拍子にリボンの目盛りがずれたので、ジークフリートはくちびるを尖らせる。それは嬉しそうに。

「だめじゃないか、動いたら……。ちゃんと測れない」

「だって……くすぐったいもん……」

「ふふ……。本当にかわいい……」

 ジークフリートは満足そうに目を細めると、もう一度同じところを測り、腰の一番細いところと、そこから脇の下までを丁寧に測った。

「全部終わり? わたし、ロゼちゃんのところに戻りたい」

「いいや、まだ一つ二つ残ってるんだ……それには……」

「それには?」

 ジークフリートは尋ねてくるリュリを抱きかかえると、そのまま自身の寝台に寝かせた。リュリの背筋にある種の悪感が走る。ジークフリートは興奮のせいか息を荒げていた。

「この下着が邪魔……。だから、取っても良いよね、リュリ?」

「だめ、いや」

 首を振るリュリに構わず、彼は紺色の女中の服を彼女の腰から抜き取った。

 彼女の白い下着が露わになる。

 ジークフリートは彼女の上にまたがると、女性と見まごうすらりとした指で、下着に覆われたリュリの乳房に触れた。羽根のような軽やかさで這わせる。身じろぐリュリの耳をはみ、彼は吐息交じりにささやいた。欲情した声が低く、リュリの鼓膜を震わせる。

「リュリのここ……見せて……」

 ビロードのような声がリュリの脳内にこだまし、正常な感覚を失わせていく。

 いつの間にか両腕を違うリボンによって寝台に固定されていたリュリは、足をじたばたして抵抗した。彼は細身ながらも重たく、リュリの抵抗は軽く受け流されてしまった。

 彼はくちびるでリュリの首筋から鎖骨までたどると、下着の上からふんわりと盛り上がる柔らかな丘に一つくちづけた。彼女がおそるおそる、丘の頂点へと近づくようにくちづけを重ねる彼の様子を窺うと、兄の劣情に燃える碧い瞳とかち合った。

 リュリは、与えられるぞくぞくするような感覚を、極めて無視しようと努めた。

 そして首を回し、何か音の鳴る物が無いかと見渡す。異常な物音がすれば誰かに駆けつけてもらえると思いついたのだ。

 すると、寝台のすぐ横にあった鏡台の上に、何か楽器らしきものがあるのに気づいた。だが、拘束された両腕ではそこまでは届かない。

 彼女はジークフリートの気を逸らす為に、何とか話題をつくった。

「お、お兄ちゃん、あれ、なに?」

「ん……? ああ、あれは《時の竪琴》……アラムの、君の父の物だ」

「お父さんの?」

 必死に質問を重ねたのが良かったのか、ジークフリートは話題に食いついた。リュリの体を弄る手つきが幾分か弱まった。

「そう……。あれには強い《ギフト》を持つ女性の髪を張らないと、時間の旅には出られないんだ。……そう、君の髪みたいな……」

 彼はリュリの白金の髪を解きひと房とると、慈しむようにくちづけた。

「二人で、不幸せな過去を変えに行こう。幸せな記憶を手に入れて、一緒に暮らそう」

「時間の旅? 記憶? わかんないよう……」

「僕たち家族はね、リュリ。たった一人の男のせいでバラバラにされてしまった。アラムとファイナを僕たちから奪ったんだ」

 シュウはとつとつと語る。

「今の僕ならば、イグナートに勝てる。この力で、あいつをもっと早くに処分するんだ。そうすれば、家族はバラバラにならないですむ。一緒の記憶が取り戻せる。君に家族で過ごした思い出を君にあげられる!」

 青年の瞳孔がだんだんと開く。それは夜闇のように底のない色をしているのに、不穏にぎらついている。

「その瞬間へ戻る、たった一つの方法が、あの《時の竪琴》なんだよ!」

「お兄ちゃんは、わたしに思い出をくれようとして……? でも、そうしたら――」

 そうしたら、どうなるの?

 リュリの思考が一瞬、停止する。

 森へ逃がしてくれたシュウのあたたかな抱擁や、孤児院での賑やかな暮らし。寂しいけれども穏やかだった白カラスとの生活。それらはいったいどうなるのだろうかと、彼女の中で疑問が渦巻く。確かに、楽しい思い出ばかりではない。けれども、素直に頷けはしないのだ。

 アルくんと会ったことも、なかったことになるの?

 くしゃりと、不器用に笑うアルフレッドを思い出して、リュリはせつなくなった。

 知ってしまった暖かい気持ちを捨てるだなんて、身を切るような気がしてならなかった。

 兄は不安げにまばたく妹の頬をなぞる。

「安心して、リュリ。あいつは、イグナートはもういないから。あいつのいない世界で、人生をやり直そう。でも、人をやめてまで君のそばにいたなんて……。忌々しい……一体何が目的なのか……。変なことはされなかったかい?」

「……わたしの、そばに……?」

 リュリが震える声で尋ねた。

 ずっと彼女と一緒に暮らしてきた存在と言えば、たったひとつしか心当たりがなかった。

「……カラスさんが、そうなの……?」

 最近は煙たがっていたものの、白カラスはこの数年、確かに彼女の保護者だった。

 彼の口癖は、なんだったろうか。

「で、でも! カラスさんはグレンツェンを襲った敵がいるって! だから誰も信用しちゃだめだって言ってた! カラスさんは、わたしを守ってくれてた!」

「リュリ……。かわいそうに、君は、騙されていたんだよ……」

「そう言うお兄ちゃんだって、嘘つきだよ」

「もう、まだ怒っているのかい……?」

 シュウは気の毒そうに眉を傾けた。

 ついでに、黒い豊かな睫毛が伏せられる。

 いや。

 リュリは本能的に首をそらす。

 嬉しくない。

 くちびるとくちびるとが触れあう、その寸前。

「ひゃっ」

「……!」

 二人の耳にまた、つんざくような高い笛の音が聴こえた。

 彼は一つ舌打ちすると、リュリの頬にくちづけを残して、部屋を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る