七、リリカル・シンギング

 齢十六の女王陛下はくたびれていた。

 寝床から起きられるようになったと知られたとたん、元老院に召喚され、朝食の後から正午までずっと、二週間後に開かれる成人の儀と御披露目の手筈について聞かされたのだった。ついでにアルフレッド・ボーマンとの婚儀についても、長々とである。

 高齢者特有の何度も繰り返される同じ話題に、ロザリンデの堪忍袋の緒が何度も切れそうになった。しかし、君主という立場ゆえ、彼女はうかつに本音を漏らすことのできなかった。ぐっとこらえた少女のその顔に、頬笑みはなかった。

 そんな彼女にとって、慣れ親しんだジークフリートという元摂政は体のいい話し相手だった。だが、今日は一度も顔を見ていなかった。

「どうして話がある時にはいないのかしら、あいつ」

 昼食を終えた彼女は、悪態をつきながら自室をうろうろとした。その様子はまるで、捕えられた野生の動物が、檻の外に出られるチャンスを窺っているのと似ていた。

 その歩きまわる間に、小さな絵画が彼女の視界に入った。

 それは、無き父王リュディガーと今は修道院に居る王妃マノン、幼いロザリンデが描かれたものだった。

 五歳になるかならないかだったと、彼女は思い出す。

 大きな絵画は大広間に飾られており、小さいものは画家のリヒャルトがロザリンデの為にと贈ってくれたものだ。

 それを見れば、ロザリンデがいかに両親からその容貌を受け継いだかが良くわかった。

 黄金の髪がうねり、紺色の瞳が優しい父王に、赤みがかった髪色が愛らしい、金色のつぶらな瞳の王妃。穏やかな両親の表情とは裏腹に、中央に立たされたロザリンデには一切の表情が見受けられない、奇妙な絵画だった。

「……」

 彼女はその絵画の前に立ち止まってしばらく見つめると、ぷいとそっぽを向いて、廊下へ出ていった。

 渡りを歩くところで、髪の黒い女中とすれ違う。

 ロザリンデは、こんな女中がいただろうかと少し訝るが、全員の女中の顔を覚えているわけではないので深くは考えなかった。

 女中は深々とロザリンデに頭を下げた。宮廷式にしては、少々ぎこちないなとロザリンデは思った。

「ファイナのところに二人分、お茶とお茶菓子を持ってきてちょうだい。今すぐよ」

「かしこまりました。女王陛下」

 女王が黒髪の女中に言い渡すと、女中はもう一度頭を下げてその場を立ち去った。

 女王はそのまま歩みを進めて、ブリューテブルク宮の象徴である二つの塔の左の方へと足を踏み入れた。

 長い螺旋階段をぐるぐると上り、最上階へ着く。

 ロザリンデがその扉を叩くと、扉はひとりでに開いてみせた。

 その中には、カタカタと回る糸紡ぎを前に糸を紡ぐ婦人がいた。灰色の髪に白髪が混じり始めている女性は、ロザリンデを見るとその手を止めて、優しくほほ笑みかけた。

 女王は部屋に入って扉を閉めると、彼女に甘えるような声をかけた。

「ファイナ。おかあさん。ロゼのお話し、きいてくださる?」


 ロザリンデの物心がついたころには、既にファイナが彼女の乳母だった。

 実母のマノン王妃はロザリンデを生んだ時にはまだ成人していない十五歳で、彼女はいつも病弱なリュディガーにかかりきりだった。

 ヴィスタ王家の者はその魔力でもって国の豊穣を支えるという任があり、リュディガーにもそれが課せられていたが、彼の体はそれには耐えられなかったのだ。

 補佐として摂政として、賢人イグナートが長らく支えてきていたが、それでも肉体の消耗は抑えられなかった。

 元老院は健康で力のある世継を望んでいたが、生まれたロザリンデに対し、イグナートは魔力のかけらも見られないと診断した。そしてイグナートは彼女に乳母をつけ、後宮に移してしまった。実質上の軟禁である。

 ヴィスタ歴一一三九年、第五九代国王リュディガーは二四歳の時に若くして命を落としてしまった。そして、王妃マノンは悲しみにくれるあまり、幼いロザリンデを一人残し、修道院へ身をやつした。

 一人娘は、父と別れる葬送の時にも、母と別れる際にも、ただそこに居るだけだったと書記は記している。泣きも叫びもしなかった。

 したがってロザリンデは、六歳で王位を継ぐまでファイナと共に後宮に暮らしていた。それから住まいを王宮に移しても、彼女が母親代わりでいた。

 彼女が実の娘のように愛情を注ぐことでロザリンデにも少しずつ感情が芽生えた。

 ロザリンデがファイナに甘えるとき、彼女は、いつもどこか遠くを見つめている時があった。女王はそのことが幼心に引っかかったが、抱きしめ返してくれる温かさにすべてを投げ出した。


「いらっしゃい、女王さま。今日は何のお話をしましょうか?」

 ファイナは目の前の糸紡ぎを部屋の隅へどかすと、ぐるりと回して首をほぐし、肩を上下させた。女王を迎えた時には少々丸まっていた背筋が、にわかに伸びる。

 ロザリンデは丸机の傍の椅子を引いて、その上へ腰を下ろした。柔らかなドレスに包まれた細い両足がぷらぷらと宙で遊ぶ。彼女が座るには少し高かったのだ。

「あのね、違うの。今日はお母さんのお話じゃなくて……」

 女王が話し始めようとすると、扉が三回叩かれた。

「お入りなさいな」

 迎えられたのは黒髪の女中だった。彼女は小さなティーパーティセットを二人分、トレイに乗せて運んできた。螺旋階段の頂上へは机代わりにもなるカートが全く機能しないため、女中は塔のてっぺんとホールとを何度も往復した。

 机の上に次々と展開される午後の茶会の様子に乳母はほほ笑んだ。開け放たれた窓から入ってくる陽光に目を細めただけかもしれなかったが。

 一方の女王は、女中がお茶を入れ終わるのを待たずに、お茶菓子に手を伸ばし既にほおばっていた。彼女の手にしたジンジャーブレッドマンの首がすっかり無い様子に、乳母はくすりと笑う。

 女中が職務を終えて出ていったのを見計らい、女王は話を切り出した。

「ねえねえ。わらわ、この一週間忙しかったのよ」

「ええ、そうでしょうね」

 乳母は穏やかな頬笑みを浮かべて、その顎を組んだ両手の上に置いた。陽だまりの様なえくぼに、ロザリンデの心が先程までの苛立ちが嘘のように、次第に凪ぎはじめる。

「だって女王さまがおいでにならない一週間なんて、これまでありませんでしたもの」

 銀鼠色の瞳が一瞬きらりと翠色に光ったのを見て、少女は小さな既視感を覚えた。

 この、エメラルドみたいな輝き、どこかで見たことがあるわ。

 その持ち主が誰だか小首をかしげるロザリンデだったが、深くは思索しなかった。

 彼女は紅茶と興が冷めてしまうようなことはしない主義だった。

「そうかしら? でも、おかあさんが言うのだから、そうなのね。ここのところ、毎日忙しかった気がするの。初めて舞踏会に行ったでしょう。それで踊るのは危ないってわかったし、なにより、食べ物の罠があるのよ!」

「食べ物の罠?」

 面白そうに、おや、と眉を上げると、乳母は顔にまつわりつく髪を耳にかけなおした。

「そうよ! 甘くておいしい葡萄ジュースだと思って飲んでいたら、そのうちに世界がぐるぐる回り出したのよ。絶対、なにか悪いものが混ぜられていたに違いないわ!」

「葡萄……! それは、そうですよ、小さな女王さま。それはワインですもの。ワインを召し上がって、酔っぱらってしまったのですね。体が熱くなって、ふわふわしませんでしたか?」

「まあ! どうして最後まで聞かなくてもわかるの?」

「わかりますよ。大人ですから」

「む。わらわだってもう、すぐに大人になるのよ! あと何日かを数えるだけよ!」

 偉ぶってみたり驚いてみたり、背伸びをしてみたり。めまぐるしく表情を変えるロザリンデは、傍目から見ても素直で愛らしい少女だった。

 天真爛漫を体現した様子を見れば、誰もが、いとおしさに頬を緩ませるだろう。それは近くで成長を見守ってきたファイナにとっても変わらなかった。

 温かい気持ちが乳母の口の端を無意識に持ちあげさせる。

「では、少しずつたしなまれてください」

「結構よ。ホットチョコレートにしておくわ」

 唇を尖らせ、ぶすっとそっぽを向いたロザリンデだったが、そのうちに噴き出してしまった。

 ファイナもそれにつられて腹を震わせた。

 塔の部屋、その天井まで鈴を転がすような笑い声が響く。かすかに開いている窓、その縁で羽を休めていた数羽の鳩が、彼女らと一緒に胸と尻尾を震わせている。

 ひとしきり目を緩ませていたロザリンデは、目じりにうっすらと滲んだ涙を人差指でちょいちょいとなじませると、肩ごと息を吐きだした。

 そして神経質そうに呼吸を数回繰り返すと、少女は自分の豊かな長髪を抱きしめるようにして体の中心へ寄せ集めた。

 乳母はそれが何の兆しかわかると、少し佇まいを直した。

 すべての音が床に転がり落ちたかのように、あたりはしんと静まりかえる。

 そのまっさらな空間に、少女の呟きがこぼれた。

「……おかあさん……」

「なあに」

 かすかな呼びかけだったが、ファイナは身を乗り出した。

「あのね、本当にお話ししたかったことはね……」

「……」

 ロザリンデがもじもじするのを、乳母が穏やかな頬笑みを湛えて見守る。それはなんでも受け止めるという、彼女なりの意思表示であった。

「わらわに、王家の職務が全うできないこと、について……」

 ファイナは目の前で湯気を立てる紅茶に手をつけず、ロザリンデの空いている方の手を包み込むようにして握った。手のひらだけの暖かさだったが、女王に勇気を与えるのに十分だった。

「ジークフリートが言ったことをね、今、実行しているの。強力な魔力――〈魔法のギフト〉を持つ娘を傍に控えさせて、わらわの影にするということ。でも……」

 乳母はゆったりと頷く。そしてまごつく女王の黄金の瞳を、灰色に戻った目で覗き込んだ。そのまなざしは母が子にする温かいものだった。

「恐ろしいの。わらわがそうしようと言うのがわかっていたかのように、とんとんと物事を進めるあの人が。だって、ヴィスタの〈守護〉の力を持っている稀有な娘なんて、そう簡単には見つからないはずでしょう。それなのにあの人には当てがあって、しかも本当に見つけてしまったのよ!」

 ロザリンデの語気が、彼女の声音とともに次第に高まる。

「その上、その上ひどいったらないのよ! 成人すると同時に結婚ですって! それも知らないうちに、わらわ以外のみんなを丸めこんで! 顔も見たことのない男――しかも貰い損ねの馬の骨――とこれから一生、一緒に生きなくてはいけないだなんて!」

 興奮が彼女の顔を赤く染め、瞳に涙を誘う。ファイナに握られた手指にもぎゅっと力がこもる。それだけに飽き足らず、ロザリンデは椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、乳母に駆け寄って抱きついた。

「おかあさん! わらわ、結婚なんていや! 絶対に! おかあさんはわらわの味方よね?」

「……」

 そうよね、と顔を覗き込んできたロザリンデに、乳母は変わらない穏やかな視線を送る。そして少女が感極まってこぼした涙を親指の腹でそっと拭った。

「女王さま。私のお話をしてもいいかしら」

 少女は小さな口をきゅっと引き結び、頷いた。

「わたしにもね、ロゼ。好きな人がいましたよ。その人をこの世で一番素敵な人だと思ったから、結婚できて本当に幸せでした。だって、ずっと一緒にいられるっていう約束ができたのですから」

「わらわはそうじゃな――!」

 反論に尖ったロザリンデの唇が、人差指でふたをされる。

「そうですね。あなたさまとは違います。でも、今は同じ、かしら」

「同じじゃないわ。わらわも、ちゃあんと素敵な恋をして、それから結婚がしたいの! それなのに、あの男ときたら! わからずやにも程があると思わなくって?」

 乳母が口をつぐんだので女王は続ける。

「そう、何かにつけてリュリ、リューリカと――あ、これは〈魔法のギフト〉を持っている娘の名よ――本当は五年前に私のところに連れてきてくれるはずだったのよ。あの人が言うのには、友達が欲しくありませんか、だって……。私は二つ返事で頼んだのよ、でも彼女は来なかったわ。〈孤児院事件〉に巻き込まれたとやらで。でも、最近見つけられたって。……ファイナ?」

 ロザリンデは、自身の手を握る乳母の手に力が入るのを感じた。

 五年前のジークフリートとの約束のことを話していなかったことに腹を立てたのかしらとロザリンデは思った。

「……そう、でしたか。女王さま、私に言えるのはこれだけ……。五年前にすべてが、いえ、もっと前から始まっていたのかもしれません。気になるなら調べてごらんなさい」

 女王は、彼女の手の甲に一滴こぼれ落ちたのを見逃さなかった。

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