六、くちはなんとかのもと

 ボーマン家領地、エルレイの森。

 例の泉を南に行くと、リュリの住まう大樹はあった。

 今日はそこに、小さな来客があった。

 太陽の傾き具合からみて、それは午後のことだった。

 先頭を行くのは背格好が同じくらいの二人の少年。

 その後ろをくっついて歩く幼児を後ろから見守るようにして、最年長と思しき少女がしんがりを務める。

 夏の日差しにむき出しの肌が赤い子供たちは、多少の濃さは違えど、栗色の髪色をしていた。

 彼らは兄弟だ。

 身なりは少し埃っぽかったが、それは日頃の外遊びのせいだった。

 子供たちは大樹を囲うドーナツ状の畑を掻き分け、大樹の根元へと突き進む。

 その足取りはこなれたもので、決して作物を踏むことはない。

 自分たちの身長をゆうに超える畑をくぐりぬけると、開けたところに出た。

 体中に葉やら花弁やら花粉やら、敷いては小枝までつけた少年たちは、それを気に留めることも無く、大樹の肩に乗った小屋へと一目散に登りだした。

 しかし、彼らの姉である少女は、癖っ毛に引っかかったあらゆるものをとったり、服に刺さったとげを抜いたり、手荷物である籠の中身を確認したりと、一通りの体裁を整えてから弟たちの後に続いた。

 彼女は太い枝で作られたはしごを登る最中に、上からの歓声を耳にした。

「どーしたのー?」

 スカートに足取りを邪魔されながらのろのろと登りきると、彼女はその声の意味がわかった。

 彼らが今まで見たことのない新しいものがあったのだ。

 それは小さな木製の扉にかかる、小さな看板で、小さな蔦のような愛らしい文字が書いてあった。

 それをよく似た二人の少年が口に出している。彼らは双子だった。

「おちゃあります……」

「まほうのように、よくききます、だって!」

 双子は顔を突き合わせて頬をほころばせた。

 それを見て、末っ子も我先と看板を見ようとする。

 しかし、彼はまだ文字が読めないので、看板が新しいものだと言うことだけで喜んでいるだけらしかった。

「まあ! あたしたちの為、かなあ? だったらいいな!」

 長女が頬を持ち上げる横で、弟たちは早々に扉を叩いていた。

 その音は嵐の日に、大きな雨粒が戸を叩くかのように激しく乱雑だ。

「妖精さん、妖精さん!」

「遊びに来たよ!」

「きたよー!」

「たくさん叩かないの! ノックは優しく三回まで! 妖精さんがびっくりするでしょ?」

 鋭い姉の叱咤に、弟たちはぴたりと動きを止めた。

 そしてぎこちなく首を回す。

 姉を見上げるその顔は気まずそうで、そろって口を一文字に引き締めていた。

 反省の表情を見て、姉は満足げに頷く。

 子供たちが挙動を止めると、鳥たちが会話する声が良く聞こえるようになった。

 暖かな日差しと少しの散歩で首筋に滲んだ汗をそよ風が乾かす。

 それは森全体をも一緒に撫でていて、葉ずれの音を奏で、耳にも涼しい。

「……あれ?」

「どうしたのさ、スー?」

「オレ達、なんにもしてないよ?」

「双子は黙ってて」

 スーとよばれた姉――本当はスクラータという愛らしい名前の持ち主だ――は、双子の弟たちのお喋りな口を制し、ドアに耳を当てて押し黙った。

「ねーちゃーん」

「ロビンも」

 末の弟の口は手でふさいで黙らせると、彼女はそっと扉に手をかけた。

 スーの後ろにいる双子が怪訝そうに顔を見合わせている間、ゆっくりと扉を押した。軽くきしむ音と共に、小さな扉は簡単に開いた。

 そっと室内に足を踏み入れ、頭をくぐらせる。

「……妖精さぁん、いますかー?」

 大樹の上にちょこんと座る妖精の家は、角の無い丸い部屋だ。

 さほど大きくないので、戸口から全て一望できるだけの広さしかない。

 そこには、作りかけと思しき子袋がいくつか机の上に散乱しているだけで、兄弟の探す妖精の姿は無かった。

「……いないね」

 抜き足差し足で妖精の小屋に入った子供たちは、それぞれに彼女を探そうと身を乗り出した。

 と、その足の裏に微かな振動を感じ、兄弟は身を固めた。

 その振動はどんどんと大きくなる。

 遂に耳に聞こえる音と振動とが一致した。

「はあ、はあ……」

「妖精さん!」

 兄弟たちが足音の止まったほうへ振り返ると、そこには肩で息をする真っ白な髪の少女がいた。

 彼女は扉の縁と膝にそれぞれの手をついて、額に銀色の前髪を貼りつかせていた。

「ごめ……、遅く、なっちゃった……えへへ……」

 肩を大きく上下させながら、家主が帰宅した。

 彼女は毛織のケープを壁にかけると、その勢いのまま寝台に腰を下ろすと、その振動で、大樹の太い枝が少し上下した。

「それ、冬のだよ、妖精さん」

「そりゃ暑いよ」

 ケープについて口を揃える双子に、妖精は頬笑みで応える。

 その彼女に、木製のマグカップが差し出される。スーだ。

「ありがとう、スーちゃん。遅れてごめんね」

 受け取った水をごくごく飲み干す妖精に、スーはにっこりした。

「どういたしまして。あたしたちは別にいいんだけど。どこかに行ってたの?」

 何気ない質問だったはずなのに、妖精は途端にうろたえ出した。

「そう、そうなの! ちょっとそこまで!」

 目に見えて慌てている様子があまりにも素直で、スーはくすりと笑った。

「そうなんだ。お茶の日におでかけって、初めてかも」

 ふと、訝るスーの足元で、末弟ロビンの顔が閃きで輝いた。

「わかったー! でえとだー!」

「こらロビン!」

 高らかに宣言する弟の口を、スーは慌てて塞ぐ。

 ついでに鼻も塞がれ、ロビンは苦しそうにもごもごとした。

 その後ろで双子がにやりとする。

 一方の妖精は、何の事だかさっぱりと言う風だった。

「でーと?」

 小首を傾げる彼女に、救いの手が伸びる。

「気になるあの子と、二人で出掛けることだよ」

「最近、誰かさんが、やってたような?」

「気になる人と。はぁ」

 双子が説明してやると、妖精は気の抜けるような声で相槌を打った。

 と、その双子に、スーは顔を赤らめて食ってかかった。

 彼女の両手は既にロビンを拘束していたため、使い物にならず、口を回すほかなかった。

「待て待て待て待て! ティモ! マルク! あんたたちねえ! それ以上言ったら絶対に許さないんだからね!」

「別にスーだとは言ってないし」

「あいつだよな、たしかヒュー……」

「だあめえ! 言わないでお願いー!」


 兄弟の微笑ましいやり取りが目の前に繰り広げられているのにも拘らず、少女の気持ちは過去へと飛んでいた。

 それは、先程までの逢瀬のとき――。

 ふと見せた柔らかい表情。

 偶然に触れた胸元。

 健やかに寝息を立てる彼の横顔。

 初めて聞いた、焦ったような、上ずった声。

 どの一瞬を切り取っても、心の隅っこがちりちりとこそばゆくなる。

 それは、決して不快なものではなかった。

 むしろ、癖になるような――。

 リュリは自身も気づかぬうちに笑顔を綻ばせていた。

「……えへへ」

 兄弟は妖精のうっとりとした様子に気付くと、言葉の応酬を止めた。

「……もしかして、大当たりだった?」

 四人の注目を一身に浴びて、リュリは途端に口元を引き締めた。

 しかし、目元は正直だった。

 頬を艶めかせたまま、リュリは言う。

「そんなあ! 気になる、誰かと、でーとなんて! うふふ!」


 誰が見てもあからさまな嘘だった。

 スーは彼女の様子に気付きながらも、弟たちの手前、調子を合せることにした。

「そうだよね! 妖精さん、子供にしか会っちゃ駄目だしね!」

 にっこりするスーを見て、リュリは胸を撫で下ろした。

「う、うん、そう! だから、でーととかじゃないよ」

 違うんだよ、という言葉に、双子のティモとマルクはがっかりしてみせ、ロビンは喜んで見せた。もっとも、彼の場合何もかもよくわかっていないのだが。

「そうなのかー!」

「そうだ、妖精さん、今日はね、ジャムを作ってきたんだ!」

 スーが、リュリのすぐ隣に腰掛け、持ってきた籠の中身を見せる。そこにはリュリの持っているものと同じ小瓶が所狭しと詰め込まれていた。しかし、その中身は茶葉ではなく、赤やオレンジ、紫に白など、色とりどりのジャムが詰めてあった。

「わあ! すごいよスーちゃん! ミルクジャムもある! お茶に入れたらおいしそう!」

 目の前の宝石のような瓶詰めに心を奪われたリュリは、輝く翠の瞳をスーに向ける。

 スーは魔法のような翠色を、鼻高々に受け止めた。

「もちろん、おいしかったよ!」

「もう試したんだ? いいなあ。今から、お茶淹れようかな!」

「おちゃ? のむー!」

 リュリが立ちあがり、座っていた寝台に兄弟たちを促す。

 小さなランプとポットでお湯を沸かす間に、彼女は手早く出来上がったハーブティーの小袋を新しい小瓶に詰め、コルクの栓をする。ジャムと同数の瓶を用意すると、ジャム瓶とそれらをそっくり入れ替えた。

 リュリの作るハーブティーと、世間のものを交換する。

 これは、週に一度のリュリと子供たちとの約束だった。


 少し遅めの午後のティーパーティーが終わると、子供たちは日暮れの前にリュリの大樹を去っていた。手を振りながら畑の中へ姿を消す兄弟を見送ると、リュリはそっとランタンを灯し、玄関につるした。

 屋内の蝋燭ももれなくつけて回ると、部屋の中までも夕暮れ色に染まった。

 冷たい風が窓から吹き込んでくるようになると、空は悩ましげな紫色に染まり、その反対側ではかぎつめのような月が太陽の代りに顔を見せていた。

 空の色がそうして移ろうのを、リュリは残ったお茶を片手にぼんやりと眺めていた。

 濃紺の空に、一番星が煌めく。ささやかな光の粒が、闇の中から次々と現れる。それはまるで、わくわくする気持ちがどんどんと膨らんでゆくのに似ていた。

 しかし、星空を木々の間から仰ぐリュリは、どこか物足りなさを感じていた。

「……」

 あの日、カラスに見つけられてから、今まで。

 こうして独りで暮らしてきて、満足だったはずなのに。

 ふぅ、と長い溜息が夜風に交じる。

 この、どこか満たされない気持ちはなんだろう?

 それに比べて、彼との優しい午後の逢瀬は、短い時間にもかかわらず、どうしてあんなに一瞬が濃密なのだろう?

 日差しに透ける金髪の青年のことを思うと、リュリは居ても立っても居られない気持ちになるようだった。マグを窓辺に残し、彼女はクッションを抱きしめて寝台に寝転ぶ。

 と、彼女の視界に彼のくすんだ帽子が入ってきた。

「あっ! また持って帰ってきちゃった……」

 リュリは自身の間抜けさを呪いながら、同時に理由が出来たことについて喜んだ。

 これを持って、また明日湖畔に行けば、彼に会える。

「あれが……でーと、なのかな……」

 頬が熱い。

 日焼けのせいだろうか。耳も熱い。 お茶のせいだろうか。

 リュリはそっと、クッションに顔をうずめた。

 ひんやりとした肌触りのクッション。その綿に混ぜられたラベンダーの香りが、リュリの鼻腔を満たす。

 深呼吸する彼女の耳に、いつもの梟の声が聞こえてくる。

 思わず、そのゆったりとした声に呼吸が一致させてしまう。

 と、その穏やかな音をかき乱すように、鳥の羽ばたく音が切りこんできた。

「……カラスさん?」

 リュリがぽつりと呟いた声は、白カラスの耳に届いたようだった。

「なんじゃ、起きとったか」

「寝てないよ」

「最近、よく出かけているじゃないか」

 白カラスは机の上で身づくろいをしながら喋り出した。

 リュリは、当たり障りのない答えを、抑揚をつけずに紡いだ。

「お天気が良いからね」

「人に、会っているのじゃあないだろうね?」

「……」

 リュリの沈黙が何を意味するのか、訝る時間さえとらず、白カラスは舌を回し続ける。

「たとえ森の中でも、子供以外には会うでないよ。子供は、夢と現実の境に居るから、おぬしを見たところで、自分の夢と区別がつかん。しかしの、大人は――」

「自分と違うからって、なんかされる。だよね?」

「ちょっと違うが……まあよい。自分の身は自分で守ると決めたんじゃろ? なら、人間と関わらないのが一番じゃ」

 身を守るために、身を隠し続ける。それが正しい防衛方法なのだろうか。

 白カラスの言葉に、リュリは初めて疑いを持ち始めた。

「……考え中だよ」

「結果は一緒じゃ。悩む時間があるなら、寝ることじゃな」

 そう言うと、白カラスはいつもの止まり木の上へと飛び乗り、その瞳を閉じた。

 リュリはクッションから顔を解放すると立ち上がり、その足で全ての明かりを消して回った。全ての蝋燭を鋭い息で吹き消す。玄関のランタンを屋内に持ち込み、その炎を吹き消そうとする。

 しかし、彼女は吸い込んだ呼気をゆっくりと吐きだした。そしてランタンを机の上に置くと、彼女は寝台の中にその体を沈めた。ふと、思い立ったことをやってみようと、リュリは思ったのだった。

 ランタンの中で揺らめく炎に、意識を集中させる。イメージするのは、先程何回も繰り返し見た映像だった。

 描くのは、鋭い息で、吹き消される炎。

 集中力の高まりと共に、呼吸も深くなっていくのがわかる。

 そして、何度目かの呼吸を止める。

「……消えて……」

 刹那、風の無い穏やかな屋内が暗闇に包まれた。


 ふんわりとしたメレンゲが重なったような、ぼんやりと薄明るい昼。

 すっかりなじみの場所となった北の泉の湖畔で、アルフレッドは寝転んでいた。シロツメクサとその葉のベッドに包まれていながら、彼は穏やかな気持ちではなかった。

「遊び……か」

 彼女は、あの帽子にまつわる逸話を知らぬはずはなかった。それは彼女が王宮から修錬に来た、その次の日の出来事だったから。


 父親である先代のボーマン伯爵と、王女ユスティリアーナの目前で、うさぎのカウントは始められた。緊張した面持ちの彼と兄は、父の数える声に合わせ、各々の袋から一羽ずつ、耳を掴んで取り出した。

「一……二……三……四……」

 次々と取り出される息絶えているうさぎを目にし、王女は顔を背けた。

 しかし、ボーマン伯爵は震えるだけの彼女を諭した。

「殿下、非情に思われるでしょうが、これが現実なのです。我々は、誰かの犠牲でもって、日々を生かされているのです。その誰かとは……、みなまで言いますまい」

 厳しい言葉が、深い声の響きによってより一層その重さを増すのを聴き、王女はそっと頷いた。そして、兄弟のするさまを改めて見守った。

 アルフレッドはうさぎを見せる間に聞こえたその言葉を、幼心に父の言葉を留めた。

 生きるためには、食べなくてはならない。それがたとえ他の生物を殺めた結果だとしても。

 彼は、そのように解釈した。

 実際、それは間違いではなかった。むしろ正解だった。しかし、成人し貴族のなんたるかを知った今、彼は気付いたのだ。正解は二つあったことに。

「五……六……七……」

 アルフレッドは、王女の手前、緊張を露わにしていた。だが、隣の兄はいつものように虫も殺さぬような微笑を崩さぬまま、獲物を披露していた。

 狩り比べの結果は、兄が一羽足らず、アルフレッドの勝利で終わった。褒美にと乱暴に被せられたのが、父の帽子だ。それで視界が真っ暗になったのを、具合良く直してくれたのが彼女だった。

「ちいさいのにすごいのね、アルフレッド。貴方の〈ギフト〉は弓を使う腕かしら」

 未だ成長期を迎えていなかった彼の目線に合わせ、王女は屈んで顔を合わせてくれた。

 高い空のように透き通る青い瞳が、真っ直ぐにアルフレッドの灰色の瞳を捉えていた。

 まるでカメオから出てきたような人だ。

 当時十二歳だったアルフレッド少年は、たちまち恋に落ちてしまった。

滑らかな頬はほんのりと紅に染まり、その卵のような輪郭を縁どる金髪はおとぎ話のようにふわふわと煌めき、幻想的だった。その笑顔は、触れてしまえば穢してしまうのではないかという畏怖を、誰もが抱くような尊さを持っていた。

 十五歳のユスティリアーナ姫はアルフレッドの憧れの君になった。彼の兄に嫁ぐまでは……。


 在りし日のリチャード・ボーマン伯爵の隣で、ふんわりと花開いていた可憐さは、現在の彼女には見当たらなかった。

「変わったのは……あいつが、いなくなってから……」

 いつだってそうだった。彼は下唇を噛む。

 彼女に影響を与えるのは、アルフレッドではなかった。

 少年の熱っぽい眼差しなどに眼もくれず、彼の兄が差し出す手をとった。彼女の腕のしなやかな動きは、しっとりとして、恭しささえ感じさせるものだった。

 ボーマン家の夜会に招かれた貴族たちの、柱の陰で、はたまた扇の下で、お似合いの二人をそっと褒め称えていたのを、アルフレッドは苦々しく思い返す。

 そう言う時は決まって、自身を落ち着かせようと深呼吸をしたものだった。

「……はぁ……」

 神経質なため息が洩れる。また過去を思い返していたアルフレッドの、肩が上下する。首のあたりに、ぞわぞわとした違和感さえあった。ふと、瞳に強い疲労感を覚え、右手で眉間を覆う。

「……俺は……、いつまで根に持つつもりなんだ……」

 全ての呼吸が憂鬱な色に染まり始めたころ、その吐息の合間に草を踏む軽やかな音が混じりはじめたのにアルフレッドは気付いた。

 そのうきうきとした音は、慎重さのかけらもない、無邪気な足取りを想像させた。

 彼は、確信を持った。その足音を立てる生物が、アルフレッドのいる湖畔へ向かっていると。

 そっと瞳を閉じ、風の流れにリズムを刻むステップに耳をすませる。そうしていると、先程までの神経質な呼吸が解れてゆくようだった。近づいてくる気配に、アルフレッドは神経を尖らせはしなかった。ほんの少しだけ期待に心が浮き立つのを感じながら、彼は目前のブナの枝が何度もお辞儀するのを地面から見上げていた。そこへ、小鳥が忙しなく往来を繰り返すのを、彼は微笑ましく思った。草の根を掻き分ける音が、アルフレッドの耳元でぴたりと止まる。

 そうしてアルフレッドをのぞきこむ顔があった。リュリだ。そこには、見なれてきた翠の瞳があった。白い髪の彼女よりも先にアルフレッドが口を開いた。

「おはよう」

 アルフレッドは言った傍から、自身の柔らかな声の響きを意外に思った。

 リュリはというと、彼の顔を見てからというもの、笑顔を咲かせていた。

「おはようございます、アルくん」

 そしてそのまま、宮廷式の礼の構えをとった。しかし、それは傍目から見れば奇妙なものに見えたに違いなかった。寝転んでいる人に、深々と礼をする貴族などいないのだから。彼女はふわふわの前髪が踊るほどの勢いで頭を下げた。癖の強い白い長い髪の先が、アルフレッドの鼻先を擽る距離に近づく。すっと鼻を通り抜けるような爽やかさと、気持ちが凪ぐような鼻の香りがしたような気がした。

「あのね、これ、持ってきたの」

 リュリの、線の細い手の中にはアルフレッドの帽子があった。彼女は、チュニックをふくらませ、そっとアルフレッドのすぐ隣に座った。その勢いのまま、それを彼の顔に置いた。午睡の為に帽子で日よけをする、あの状態になった。

 わざわざかぶせてくれた思いやりにくすりとしながら、アルフレッドはその帽子を顔面から取り上げた。

「ありがとう。……やっぱり、また持って帰っていたのか」

 アルフレッドの言葉に、彼女は申し訳なさそうにはにかんだ。しかしその表情はどこか困ったようでいて、嬉しそうでもあって、けれども寂しそうな、そんな複雑で不思議なものだった。

「ごめんね、アルくん。だからね、今日はそのお詫びに、美味しい物を持ってきたんだよ」

 彼女はそう言うと腕に下げていたおなじみの籠に手を入れ、ハンカチの下から瓶を一つとりだした。

 アルフレッドはそれを見ようと、肘をついて体を起こす。中には粘度の高そうな赤黒い液体が入っていた。その少々グロテスクな印象にアルフレッドは一瞬、表情をこわばらせる。

「これは……?」

「ジャムだよ。ほら」

 リュリはコルクの蓋をあけ、瓶の中のジャムを人差指で一掬いし、ぺろりとその指を舐った。そして、その瓶をアルフレッドにも突き出す。どうぞ、ということらしかった。

 彼も彼女に倣って指を入れようとした。しかし、革の手袋をはめていることに気付き、それを脱いでから改めて指をそっと瓶に忍ばせた。どろりとした赤紫のジェルが、彼の人差し指に彩りを加える。

 妖精のようなお伽めいた少女が差し出す食べ物を食べてよいものか、一瞬ためらわれたが、恐る恐る一舐めしてみた。舌の上に木苺のさわやかな甘さが広がり、彼は眼を丸めた。酸味が強いが、それは木苺特有の物で、甘みもそれを邪魔しない程度に調節されているようだった。

「ほんとだ。上手に作ってある……。君が作ったのか?」

「ううん。貰い物なんだ。でもとってもおいしいでしょ?」

 一体誰に貰ったと言うのか。

 その疑問を引っ込め、アルフレッドも賛同する。リュリは嬉しそうにして瓶の蓋を閉じた。

「ああ。これは何に付けて食べるつもりだったんだ?」

「つける? お茶に入れるのに良いんだよ。葉っぱもあるの」

少々噛みあわない会話とその矛盾に、アルフレッドは片眉をピクリと動かした。

「ここでお茶会をするつもりなのか?」

「あ……」

 リュリはやっと気付いたようだった。食器も無ければ焚き火も無い湖畔だと言うことに。しかし飲用水はふんだんにあった。空いた口を元に戻さないまま、彼女は頬を赤らめた。白い髪に縁どられたそれは、まるで熟れた林檎のように艶めいていた。

「どうしよう……」

 失態と勘違いを恥じているらしいリュリの顔を、アルフレッドは覗き込む。刹那、森のような翠の瞳がまんまるに見開かれた。

「どうしてもお茶がいいのか?」

「だって、それしか知らないんだもん……」

 リュリは彼の灰色の瞳から目を離さず、上目づかいにゆるゆると首を振った。

「こんな物があるんだが……」

 アルフレッドは、体のばねを活かし立ち上がると、すっかり休憩しているエヴァンジェリンの横に置いてあった荷物から、包みを取り出し、その足でリュリの隣に戻ってきた。草むらの上に再び腰を下ろすと、その包みをリュリに手渡す。

「これはなあに?」

「開けば、わかる」

 なんだろう、と少女がハンカチを開いていくと中には焼き菓子がいくつも入っていた。少女の拳より一周り小さなスコーンが、バターとミルクの香りを漂わせる。

「これ……!」

 少女は嬉しそうにアルフレッドの方を見やる。そのあまりにも真っ直ぐな視線から、彼は反射的に顔を背ける。

「うちに余っていたんだ。昨日の礼だと思ってくれ」

 アルフレッドはいつもより口が滑ってしまわないかと心配になるほど、自身が早口だと気付いた。

 少女はというと、焼き菓子をまた包みなおし籠に入れていた。

 アルフレッドはてっきりこの場で食してくれるものと期待していたので、ほんの少しだけがっかりした。しかし、少女が笑顔を殺しきれていない様子に気づくと、堪らない気持ちになった。じんわりとした温かさが心に滲み、アルフレッドの口元も緩む。

「……あの、さ……」

 思わず、口を開いたアルフレッドに、リュリは慌てる。

「ん? あ、えっと、これはね、お家に帰って食べようと思って、その……」

 嬉しそうにしていたと思いきや、今度は取り繕っている。彼女の翠の瞳が、くるくると忙しなく動くのを見ながら、アルフレッドもその焦る気持ちを察していた。表面上は何一つ表情を崩さない彼だったが、いつもより瞬きが多かった。生唾を飲み込む。

「……ここで食べるのが嫌なら、俺のところに来ても……」

 ぼそぼそと呟く彼に、リュリはハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。

「いいの? それって森の外?」

 丸めた瞳を次第にほほ笑みで細める彼女に、アルフレッドはなぜか頬が熱くなるのを感じた。

「いや、この森の中に持っている小屋だ。ただし、期待するなよ。何もないところだからな」

「ポットがあればお茶が淹れられるね。それで十分だよ!」

 にっこりともう一つの瓶を見せるリュリ。その瓶づめの中には、何やら乾いた葉のようなものが入っており、さらりと中で動いた。それが茶葉だろうとアルフレッドは予想した。しかし、夏の間だけの仮住まいに、湯沸かしはあっても客人用の茶器などは用意していなかった。

「だ、だがな、自分のカップぐらいしか置いて――」

 無い、と彼が言い切る前に、彼女はすっくと立ち上がって宣言した。

「わかった! 私、とってくる!」

 今にも駆けだそうとする彼女に、これまでのデジャヴを見たアルフレッドは、思う前に彼女を止めていた。このまま彼女を行かせてしまえば、これまでと同じ――ただ彼女を待つだけになってしまう。

「待ってくれ!」

「なあに?」

 くるりと肩越しに振りかえるリュリの、きょとんとした表情を受け、彼はもごもごと口を動かしながら立ち上がった。その視線は相変わらず、翠の瞳から逃げるようにしていた。

「……嫌じゃなければ……一緒に行く。……付き合う」

 アルフレッドの突然の提案に、少女がまごつく。それを見て彼も同様になってしまう。

「え、えっと。それは、とっても、嬉しい……けど」

「いや、やっぱり、今のは聞かなかったことに――」

「……いいよ」

「え?」

 俯くリュリの表情は、彼女の綿菓子のような前髪に遮られて見えない。

「今、なんて……?」

 アルフレッドの胸に、小さな期待が芽生える。

 二人の間の気まずさを、そっと小鳥の歌声が埋めていた。

 風が煽り、彼女の白い髪をたなびかせ、桃色の唇が動いたのが見えた。

「……一緒に、行こ……。わたしのうちまで」


「家の前に出るまで、もうちょっとだけ……このまま……」

「ああ……」

 リュリの、先程よりいくぶんトーンの落ちた声。

 アルフレッドは申し訳なさそうにする彼女に、大丈夫だと伝えたかった。しかし大丈夫だと言ったところで、今の状況は変わらないことも判っていた。

 リュリの家についていく条件。それは、道がわからぬ様に目隠しをして行くということだった。彼は快諾したが、その後、こうして足を運ぶ間に様々な可能性について想像するうちに、にわかに不安が募ってきていた。

 アルフレッドがいざなわれたその森の奥。彼は、目隠しされた手前、リュリに手をひかれながら足を進めていた。視覚が奪われたことで聴覚が過敏になり、小さなもの音でさえ過剰に反応しながら歩んでいた。

「あのね、本当は大人を家につれていっちゃだめなんだ」

 少女の口ぶりから、まるで誰かからいいつけられているのでは、とアルフレッドは引っかかった。

 リュリはそんなこともお構いなしに、彼女より一回り大きな手をとりながら、さくさくと草根を掻き分けていった。その足音は彼が湖畔で聞いた物と同じで、わくわくとした足取りだった。しかし彼女に導かれるアルフレッドのそれは、至極慎重だった。

「でも、道がわからなければ一人で来られないもんね。もう少しで着くからね」

 子供を安心させるかのような温かみのあるリュリの声音に、アルフレッドは短い返事を返した。だが、植物を踏む音の方が大きかったらしく、彼女にはその返事は聞き取れなかったようだった。その証拠に、リュリは握る手をきゅっと強めた。

 未だ誰も全てを明らかにしていない、森の奥から突如現れた妖精のような白い髪の少女。

 今、そっと握りあう手のひらは、小さく繊細な作りだったが人並みの温かみがあった。その話しぶり、動きは人間のそれと全く相違なかった。それらが、彼女が妖精ではないと言いきる材料たりえるかは不確かだった。彼女の人間らしいところを列挙すれば切りがなく、その反対、妖精めいたところを上げても同様だったからだ。

 長く感じられた目隠しの時間も、彼のポニーテールを乱暴に梳く風によって、その終わりが近いことがわかった。

 つむじ風が起こる場所。

 それは木々がせめぎ合う隙間ない林ではなく、開けた空間を意味していた。その空間には、風の渦巻く音と、それにかき乱される枝葉の和音が満ちていた。

 ふと、甘さを孕んだ青い匂いがアルフレッドの鼻を刺激した。彼が記憶を頼りにする限りでは、それは花の香りであることには間違いなかった。

 刹那、リュリが彼の手を離した。

「あ……」

 彼は行き場のなくなった左手を持て余す。それと同時に、言い知れぬ不安がよぎったのも確かだった。

 このまま彼女が消え去ってしまえば――それこそ本物の妖精のように――、アルフレッドは踏み入れたことの無い森の中で、帰りみちも判らぬまま独り取り残されてしまうのだ。その不安が、彼の手を、雲をつかむかのようにゆるゆると動かした。

「ふふっ……」

 彼の耳に届く笑い声は、左右からなのか、はたまた後ろからか、全く判別がつかない。

「……リュリ……?」

「なあにー?」

 アルフレッドの周りを彩る悪戯めいた彼女のステップが、彼を惑わす。離れてゆくのか、近づいてくるのか想像もつかない。妖精のような彼女のことだ。もしかしたら、その足を一つ大地に打ちつけただけでその姿を消せるやもしれなかった。

 アルフレッドは思いきって腕を伸ばした。すると彼の指先に柔らかい物が触れた。手触りは、ごわついている。何かの布のようだった。

「ひゃっ!」

 恐る恐る指を動かし、手のひら全体で、それをそっと包み込むと、やんわりと反発する滑らかな曲線が彼女の右肩のようだとわかった。

「……行くなよ……」

「えっ? えっ? ど、どういうこと?」

 戸惑いを見せる彼女の左肩も、右手でそっと触れる。

 視界を遮られたアルフレッドは、彼の世界の中で孤独だった。リュリはここに、目の前にいるのだと、少しでも感じていたかった。

「何も言わずに消えるのは無しだと、約束してくれ」

「アルくん、こわいの?」

 そっと気遣う声が彼の耳に、その吐息が彼の首元に届く。それだけで、少し安心できた。

「情けないが……」

「大丈夫だよ。何処にも行かない」

 彼女はアルフレッドを安心させるかのように、きっぱりと言い切った。

 アルフレッドの手のひらの中、彼女の両肩が動く気配があった。そして、彼の視界を遮っていた布切れに触れられる感覚があった。

「これ、とろっか?」

「ついたのか?」

「うんっ」

 リュリは背伸びをして目隠しを解きはじめた。だが、そう簡単には行かないようだった。彼女は素っ頓狂な声を上げる。

「やっと届いた。あれ? 蝶々結びのほう、じゃない?」

「ん? ああ、それはループになっているほうだな。きつく結びきってあるほうが目隠しだ」

「見えないよぉ」

 まるでアルフレッドに抱きつくように少し背伸びをして、手探りで目隠しの結び目を探し当てたリュリだったが、苦しげな声を漏らした。

 だが悲鳴を上げたいのはアルフレッドのほうだった。彼は先ほどから無防備な少女に体を押し付けられているのだから。紳士的な対応をすべしと、気を張り続けるのは大変なものだった。

「後ろに回ったほうが見えるかな」

 アルフレッドの両腕からそっと逃げようとするリュリを、彼は手のひらに少し力を込めることで引き止めた。

「待て」

「えぇ。消えたりしないよう?」

「このまま、どうにか出来ないか?」

「うーん……」

 顔は未だに見えないが、アルフレッドにはリュリが眉を傾けて悩んでいる表情が容易く想像できていた。しばらくすると、あっ、という明るい声が上がった。

「そうだ。じゃあ、頭、下げてくださいっ」

「え?」

 突拍子もない提案に、アルフレッドは顎を下げてしまった。

「大丈夫、おでこで受け止めるから!」

「いや、そう言う話なのか……?」

 自分は今、体の正面で少女の両肩を抱き、そして彼女の顔がこちらを向いている。

 この状況のまま頭を下げた場合、お互いの顔と顔が、ひいては唇が触れてしまうという結果は、明らかだった。

 アルフレッドの脳裏に、桜色をした小ぶりな唇がよぎる。

「ぶつかったら痛いから、ゆっくり下ろしてね?」

 対するリュリは、そんなことを想定しても居ないのか、あるいはどうでもよいことなのか、やけに積極的だった。

 アルフレッドの喉元が、縦に一つ動いた。

「……いくぞ……?」

「ゆっくりだよー?」

 緊張感のない返事を受け、アルフレッドは言われたとおりにゆっくりと頭を垂れ始めた。

 少しずつ、まるではじめて首を下げるかのようにぎこちなく。

 

 だが、彼の危惧した――あるいは期待した――、予期せぬ接触は起こらなかった。首に腕を回され、目隠しが外された。と、同時に彼女の香りも離れていった。彼は少し残念に、少し戸惑いながら瞼を開いた。

「……これは……」

 それよりも、視界に広がった景色が信じられず、ぽかんとしてしまった。帽子をかぶり直すことも忘れるほどに。そこには長老の風格をたたえたとてつもなく太い幹を持った大樹がそびえたっていたからだ。

「お家だけど。変かな……」

 アルフレッドが首を回すと、大樹の太い枝の上に小さな小屋が乗っていて、それに行くための長い梯子も掛けられていた。

「変……ではないが……。まあ、見たことはないな」

 森の奥に、木々を何十本も束ねたような太い幹をもつ大樹があれば、誰かが見つけそうなものだった。しかし、そんな噂は誰からも聞いたことが無かった。

「私も! こんなお家、一体誰が作ったんだろうね? あっ、ポット取りに行くんだった!」

 リュリは嬉々として梯子を上っていく。体重の軽そうな彼女が登っていくのに、梯子はギシギシと音を立てている。彼女よりも重たい者は登れそうもなかった。

 アルフレッドは帽子を被りなおすと、ものの弾みでやってきてしまった妖精の住処を観察してみた。力自慢の男が肩に荷物を乗せたように、リュリの小屋は大樹の肩の上にちょこんと乗っていた。

 次に、先程通り抜けてきた茂みの方を振り返る。どの植物も、自身の実りによって体を少し重たそうにしていた。先日、彼が手渡された野菜もいくつかある。この茂みは畑なのだ、と彼は感嘆に息をついた。

 大樹の周りをぐるりと歩いてみると、開けた土地いっぱいの畑は大樹を取り囲んでいた。少女一人ではとても面倒が見きれない面積。きっとリュリの家族が耕したのだろう。

「アルくぅん?」

 ふいに空から声が聞こえ、アルフレッドは顎を上げた。リュリが窓から上半身を乗り出していた。落ちやしないかと肝を冷やしながら、彼は声を張った。

「今日は、家に一人なんだな?」

「え。あ、うん。そうなの! あ! アルくんが小さく見えるよ」

 そう言うと。リュリは片目をつむり、両手で四角形をつくった。

 アルフレッドには、彼女の行動の意図が読めた。四角いフレームに景色を納めるのは、彼の兄の癖だった。アルフレッドはそこから三歩下がり、リュリのフレームから逃げた。

「もう。アルくんこそ、どこかに行っちゃいそうだよ」

「ここからどうやって帰るのかわからないのに、独りで出て行きはしない」

「それもそっかぁ」

 大樹の肩の上は、よっぽど丈夫らしかった。彼女が窓から顔を引っ込め、ぱたぱたと足音を鳴らしても、大樹は軋まなかった。

 日照りが強くなって来たのか、アルフレッドの肌に汗が滲み始めた。自身の額を軽く手の甲で拭う。そして、泉の畔に待たせている愛馬が気になった。森の木陰とはいえ、普段屋根のある厩に居る彼女にとって過ごしやすいとは言えない。

 ティーパーティをするには大きめの荷物を持ったリュリが大樹から降りてくると、アルフレッドはその旨を伝えた。

 リュリは二つ返事で、泉に戻る事に了承してくれた。

「でも、目隠しはするよ?」


 大樹から遠ざかる事、十数分。歩き続けたのにも拘らず、アルフレッドの汗はすっかり引いていた。急に日差しが陰ったわけでもなかった。少しだけ不思議に思いながら北の泉に着いた。

 エヴァンジェリンは、主人の足音を瞬時に理解したようで、その尻尾を軽快に動かしていた。彼女に馬鞍を装着させる。

 そして、遠慮するリュリから若干重さのある荷物を取り上げ、左右のバランスを計算しながら馬鞍に荷物を下げた。

 申し訳なさそうにするリュリを伴い、アルフレッドは森の出口にほど近い小屋に向かった。二人の歩みは愛馬があぜ道に足をくじかぬよう、のんびりとしたものだった。

 後ろから聞こえてくる鼻歌には、まるで緊張感が無かった。歌詞はというと、エヴァンジェリンの尻尾がふさふさ、というものに終始していた。

 エヴァンジェリンは人見知りをしがちな馬だったが、リュリに対しては平気で抱きつかれたり話しかけられたりしていた。

 しばらく同じ景色が続いていた道中、突然リュリが声を上げた。

「あっ! 水の香りがする」

 そう言うと彼女は小さなせせらぎに駆け寄った。両手でひとすくいし口に含む。そしてよほどおいしかったらしく、笑顔で振り向いた。

 アルフレッドは口元をほころばせまいと、首を背けた。

「行くぞ。ここから小屋までは近いんだ」

 足を止めないアルフレッドに、リュリは駆け足で追いついた。

 彼の言った通り、小川のすぐ近くに東屋がひっそりと佇んでいた。

 その東屋をみとめると、それまで順調だった少女の足並みが止まった。

「あ……」

 アルフレッドは小さな厩にエヴァンジェリンを入れてやると、リュリが近くにいないことに気付いた。振り向くと、小川の近くで立ちつくしている。

「どうかしたのか?」

 先程まで朗らかだったリュリの表情が一変し、強張っていた。

 まあ、無理もないか、とアルフレッドは息を一つ逃がした。世間知らずの少女が、ほとんど見ず知らずの男の家に来たのだ。今の今まであからさまに警戒されなかったとは言え、年頃の少女なのだから危機感を持ってしかるべきなのだ。

 アルフレッドは愛馬から降ろしていた荷物を草の上へ置いた。

「まだ日も高い。家まで送っていこうか?」

 言葉に角が立たないよう、アルフレッドは努力した。しかし、返事はない。それどころか、彼女は茫然としたまま、その場にへたり込んでしまった。

「……大丈夫か?」

 アルフレッドが駆け寄り、屈んで顔を覗き込むと、少女は弱々しく彼を見上げた。

「気分が悪いのか? もしかして、さっきの水で――」

「……めて……」

「どうした?」

 リュリの翠の瞳が、虚ろに見開かれていた。少女は、苦しそうに声を絞り出しながらアルフレッドにすがりついた。

「……やめて……。燃やしちゃ……。みんな、しんじゃう……」

 アルフレッドが問いただそうとする、その前に、大粒の涙が少女の頬を伝い、彼女は意識を手放した。

 彼に向って倒れてきたリュリを抱きとめるのに、アルフレッドはためらわなかった。少女をそっと抱きあげ、小屋に運ぶ。介抱するのはこれで二度目だなと思いながらも、彼は少女の体の細さと柔らかさに再び感動していた。愛馬が少し心配そうに息を鳴らすのを聴きとめたが、扉を閉めた。

 彼女をベッドへ横たえ、様子を見る。

 純白ともいえる銀色のくせ毛が縁どる顔が、まるで悪夢を見ているかのようにほんの少しだけ苦しそうに歪んでいた。心配そうにのぞきこむ彼の視界で、す、とひとしずくの涙が目じりから零れた。アルフレッドが拭おうか拭うまいか判断できずに戸惑っていると、いつの間にかそれは髪の合間に姿を消していた。それから、初夏には暑そうな羊毛のケープの下で、少女らしいふくらみがささやかながら上下しているのを認めて、アルフレッドは安堵の息をついた。

 しかしこれでは、とアルフレッドは手持無沙汰に小屋の中をうろうろしはじめた。彼女が持ってきてくれた自慢のジャムとお茶でのお茶会は、これでかなわなくなったのだ。

 荷物を運ぶのも、薪を小屋の中へ入れるのもすぐに終わってしまった。狩りに出ようにも、倒れた少女を置いて行くのはどうにも気が引けた。アルフレッドは眠る少女とともに小屋に居ざるを得なかった。彼はいつもベッドを椅子代わりにしていたので、椅子らしい椅子は他になかった。

「しかたないか……」

 アルフレッドは火の気のない暖炉に背を預け、腰を降ろした。彼がうとうとするのに、そう時間はかからなかった。


 それからどれくらいの時間が経っただろう。アルフレッドは、彼女が身じろぎした音で気がついた。瞼に世界は暗く、ランプの明かりが欲しくなるころだった。立ち上がろうとするが、暫く同じ姿勢でいたからか、体がすぐに反応してくれなかった。組んだ足も、痺れていた。

「ここ……? アルくん、どこ……?」

 リュリが、掠れた声で呼ぶ声がする。不安そうな声に次いで、床がみしりと軋む音。視界がはっきりしないというのに、彼女は立とうとしているらしかった。

「待て。……危ないから」

 じんわりと感覚が戻ってきた両足で、アルフレッドは立ちあがった。

「だって暗いから、明りを――」

「俺がつけるから、動くな」

「う、うん」

 アルフレッドの鋭い制止に、リュリも動きを止めた。彼が手慣れた動きでランプに火を灯すと、温かな光が小屋に満ちた。照らし出された少女は、ベッドの上で申し訳なさそうにほほ笑んでいた。

「えへ……。ありがとう」

 アルフレッドは、リュリからなるべく離れたベッドの端にそっと腰かけた。彼は視線を合わせずに口を開いた。

「倒れたことは、覚えているか?」

「……あんまり」

 リュリはうつむいて前髪をいじる。

「ごめんね。その……お茶会、できなくなっちゃって」

「それは構わない。むしろ、俺がさそって二人きりになったりするから――」

「ちが……! あのね、あの、思い出したの。アルくんのおうちを見て、昔のこと、少しだけ……」

 透明なソプラノがしぼんでゆくのに、アルフレッドが重ねる。

「嫌なことが、あったのか? その、男の……」

 男の家で、何か。

 そう尋ねそうになったが、アルフレッドはすんでのところで続く言葉を飲み込んだ。

 リュリは、彼女が言うに青年を見たことがないのだから、男から乱暴されたこともないはずだと気付いたのだ。彼女の言うことが本当ならば。

「男の人?」

「いや、なんでもない。嫌なことなら思い出さなくていい」

「ううん、でも、大事なことなの。悲しくて辛いけど、わたしの大事な思い出」

「そんなもの、忘れていていいものだろう」

 宵闇に馴染んでいたバリトンが、急に尖った。大事な思い出、という言葉がひっかかり、アルフレッドはつい口を挟んでしまった。辛く悲しみに濁った記憶ならば、捨ててしまいたいと思うのが普通だろう。過去の思いに囚われたままのアルフレッドだからこそ、そう強く思った。

「……うん。そうだよね。でも、思い出はなくしたくないから」

 少女がそっと膝を抱えた。小さな動作だったが、木のベッドが軋んで唸った。

「まるで、君は記憶がほんの少ししかないみたいに言うんだな」

「だって、そうなんだよ」

 アルフレッドは、はっとして彼女を見据えてしまった。

 少女の翠の瞳に映る小さな灯火までも、しっかりと。

「わたしが憶えているのはね、アルくん、ほんの少しなんだよ」

 少女はケープをきつく体に巻きつけた。

「あのね、わたし、前は同じくらいの子たちと、何人ものママと一緒に暮らしてたんだ。グレンツェン孤児院っていうところ……」

 アルフレッドは、リュリの口から知っている名詞が聞こえたので、体を固くした。

 グレンツェン孤児院といえば、五年前、リチャード・ボーマンが姿を消す前に焼失した、あの〈孤児院事件〉の現場だった。アルフレッドは、ボーマン家が管理する国境警備隊の少年たちによって消火活動がされたものの、生存者はなく、全員が火の海にのまれたという報告書を見たことがあった。確か、このエルレイの森の近くだったはずだ、と彼は思い出す。

 それにしても、どうやって逃げて、ここまで生き延びることができたのか。

 アルフレッドは芽生えた疑問をすぐに尋ねようとは思えなかった。

 真偽はともかく、リュリが帰る家と、家族同然だった養母や子供たちを一度に亡くしたことに代わりはなかった、その古傷を蒸し返すなど、彼の主義に反していたのだ。

「誰がお家に火をつけたか、あんまり覚えてないの。すごく、すごく怖かったから。でもね、優しい男の子が助けてくれて、わたしを北の泉にまで連れて行ってくれて。でも、その男の子とはそれっきりで……。えっと、それからずっと、この森に住んでるの」

 彼女がとつとつと語るそばで、アルフレッドは押し黙っていた。その頬を、リュリがそっと見上げる。

「アルくん……?」

 泣きもせず、淡々と自身の思い出を教えてくれた少女に対し、感謝よりも憐みの情が強くて、アルフレッドは言葉が出なかった。かろうじて、絞り出しはしたが。

「……それは、辛かった、だろうに……」

 青年がそっとかたわらの少女を窺うと、彼女ははっとした顔でアルフレッドのことを見つめていた。

「今まで独りで、寂しかったんじゃないのか?」

「独り、だけど、そのぉ……。カラスさんとか、ちびちゃんとか、お友達はいるんだよ。だから……」

 もごもごと言葉を濁すのは、なんだかリュリらしくない、とアルフレッドは直感的に感じた。

「だからって、ずっと森にいるのは――」

「アルくん、言ってたよ。ずっと森にいられたらって。わたし、この森が好きなの。だから……」

「妖精のふりをしてまで、ずっとここに居続けたいのか? 森の外に出たいとは思わないのか?」

「うぐ……。アルくん、なんか、こわい……」

 アルフレッドは気付けば真剣に彼女を説得しようとしていた。どうしてそんな気持ちになるのかは、今は考えていなかった。

 けれども、自分が彼女を――妖精と呼ばれる娘を、彼女をこれまで守ってきた聖域であるこのエルレイの森から連れ出してよいのだろうか。

 気付けば二人は、じっと真剣に視線を戦わせていた。どちらともなくその事実に気付くと、慌てて顔をそむけ合った。

 アルフレッドが首を回した先には、暗闇が満ちていた。今が夜だと理解すると、勝手に腹の虫が声を上げた。それは、隣にいる少女も同じようだった。

「夜だもんね。ご飯の時間だね、アルくん」

「ああ」

 二人はくすくすと笑いあって、恥ずかしさを誤魔化しあった。

「お茶でいいかなあ。でも、アルくんの大きい体じゃ、足りないかなあ」

「大丈夫だろう。スコーンがあるからな」

「それって、さっきの? うふふ、お茶会が晩ご飯になるんだね。おもしろぉい」

 先程までの小さな諍いが嘘のように、青年と少女の会話が弾んだ。

 アルフレッドは、彼女のこういうラフであたたかな人格に心をほぐされるのだと、うっすら理解し始めていた。そして、この居心地の良さを手放したくないとも。そう思ったことをそのまま言葉にしてしまうとは本人も思ってもいなかったのだったが。

「嫌じゃなければ、なんだが……」

「?」

 日の落ちた森の中、少女を放り出すのは非人道的な行為だからだ。

 そう、彼は自分自身に言い聞かせた。

 一言、たった一言を言うはずなのに、アルフレッドの唇が細かく震える。

「今日のところは、……泊っていくと良い」

 リュリの翠の瞳がランプの灯火で照らされ、不思議な光彩が輝いた。

「本当に、いいの?」

 彼女はおずおずと言葉を紡ぐ。

「……嫌じゃなければ、だ」

「ありがとう! わたし、誰かのお家に泊るの、初めてかも!」

 アルフレッドの返答を受け、リュリは跳びあがらんばかりに喜んだ。実際に、弾んだ体がベッドを軋ませた。リュリが首を回す。何かに気付いたようだった。それは、アルフレッドの危惧と同じものだった。

「でも、ベッド、一つだね」

「……そうだな」

 沈黙が訪れる。ランプの爆ぜる音が聞こえるほどの。

 リュリが、小首を傾げ、アルフレッドを見上げた。

「二人、一緒?」

「それは――!」

 ありえない。

 未婚の男女が寝床を共にすることは、非常識極まりない事態だった。少なくとも、アルフレッドにとっては。座学は好まなかったものの、望ましい貞操観念くらいは理解していた。

 しかし、リュリはそうではないようだった。

「いや?」

「嫌……とかではなくだな……」

 共に眠ることが、如何に良くないことだか、リュリに説明しようとアルフレッドは頭脳を回転させていた。だが、一体何処から説明をすればよいのか見当もつかない。彼女という存在は、人間社会からあまりにもかけ離れていた。自分で泊っていけと促しておいて情けない、とアルフレッドは冷や汗をかく。

「夜は、寒いよ?」

「……そうだな」

 間違ってはいない。しかし、論点はそこではない、とアルフレッドはやきもきした。

「寒いと、病気になっちゃう……」

「俺は大丈夫だ。だから――」

「駄目っ!」

 リュリは立ちあがると、アルフレッドの腕を引き、ベッドへといざなった。アルフレッドに緊張が走る。

 強張っているアルフレッドの腕に触れたリュリは、口を尖らせた。

「ほら、アルくん、こんなに冷えてる」

 アルフレッドがどぎまぎし、言葉を選んでいる間に、リュリは勝手に決定を下していた。

「一緒に、寝よ?」


 リュリの自慢のハーブティーと、アルフレッドの好物であるスコーンによる夕餉は、終始和やかだった。

 おなかが膨れると安心したのか、リュリはすぐにベッドに寝転がった。アルフレッドがいそいそとベッドの下のほうに行こうとすると、少女は腕をぐいっと引いて、隣に寝そべらせた。

 青年が緊張感を張り詰めている中、二人は同じ寝床に横たわっていた。

「……」

 アルフレッドは、極力リュリに触れぬよう、彼女に背を向けて横になっていた。しかし、彼が逃げれば逃げるほど、リュリの方からぴたりとひっついてくる。

「えへへ……」

 いつしか、穏やかな呼吸音が聞こえてきた。

 おそるおそる様子を窺うと、リュリは口元をほころばせながら眠りについていた。

 アルフレッドは、彼女のことを少しだけ呪いながら、なかなかおさまらない動悸を沈めようと努力していた。しかし、その努力は全く実らないまま、空は白んでいった。

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