第一章 妖精と呼ばれし娘

一、愛を探す少女

 古い讃美歌が黴臭い空気に溶け込み、光の帯がうっすらと差し込む地下墓地の中、葬儀はしめやかに執り行われていた。喪服に身を包む参列者たちは、ある者は黙り、ある者はそそと泣き、それぞれに故人をしのんでいた。その中心には、たった一人、年端も行かぬ少女がいた。国の貴人が眠る地下のドームには、彼女の幼い泣き声がこだましていた。

 葬送が終わると、少女は定位置である宮殿の玉座の上で、茫然と涙を流れるままにしていた。桃のような頬の上を、透明な真珠がいくつもいくつも転がり落ちてゆく。玉座の間には暗欝たる空気が流れ、城の従事者たちも俯くばかりだった。

「ううぅ……じいや……じいや……」

 数えで十になろうかというほどの少女は、その体格に見合わない大きな玉座に鎮座し、乳母や侍女になだめすかされながら泣くことで、彼女なりに深い悲しみを表していた。大きな襟と広がる袖口にたっぷりとレースをあしらった、只の子ども服とは格の違なる、黒くとも豪奢なドレスは、彼女の心を和ませはしなかった。そして彼女は、いかにも少女らしく、たっぷりとした金色の髪を高い位置で二つにまとめていた。そしてその小さな頭にはおあつらえ向きではない王冠が、そのてっぺんからずり落ちるほどに首を縦横無尽に嫌々と振り、その度に涙の滴を辺りへとまき散らした。

「どうして、じいやはわらわをおいていったのじゃ!」

 突然、思い出したかのように叫びながら、少女は立ち上がった。ぐらついた王冠を見て大臣がまなこを見開いた。

「じいやがいないと、わらわも、この国もおしまいなのに!」

「ロザリンデさま! 女王さまがそんなことを言ってはなりませんよ!」

「だって、わらわじゃダメじゃから!」

 黒いヴェールを振り乱しながら、わんわんと一層泣き喚く少女を、同じく黒ずくめの装いに身を包んだ乳母がなだめて座らせた。小さな安堵のため息が玉座の間のあちこちから立った。乳母はしみ一つない真っ白なハンカチーフで、幼き女王ロザリンデの涙を押さえてやっている。

「女王さま、どうか静まられてくださいませ。女王さまがそんな風じゃあ、摂政殿は安心してお空の国へ旅立てのうございます」

「でも、でも……! わらわにはまだ、じいやが必要だったのじゃ。変わりなぞ居らぬのじゃ!」

 女王は再び、すっくと勢いよく立ちあがった。小さな頭からずり落ちてしまった権力の証を、大きな頭の大臣があわてて受け止める。今度は大きなため息の嵐が巻き起こった。心を寄せられているとも知らぬロザリンデは、真っ赤に充血した瞳で家臣たちをキッと睨みつけた。

「わらわは女王をやめるぞよ!」

 城内が幼い女王によってざわめきだした。錯乱状態の女王が力の限り駆けだしたのだ。彼女は、先程落とした王冠――自信を王座に縛り付ける権力の証から遠ざかるように、城の中央の玉座の間から、東の女王の部屋、西の図書館、離れの灯台まで縦横無尽に駆け巡った。彼女を守り、包み込んでいた全てから逃げ出すように。侍女たちは女王のお気に入りを部屋へ取りに走り、兵士たちは走り回る女王を捕まえるのに躍起になった。その、警備の薄くなった扉を、黒い影がするりと抜けたのに気付いた者は誰も居なかった。この国を保護する役目を負っていた魔術師が亡き今、物理的な警備は何の意味もなさなかったし、あらゆる災難に対する処置は全く施されようがなかったのだ。

 自身の持つ大きな責任から逃げるように、女王はとにかく一人になろうと走った。

「じいやより強い魔術師なぞおらぬのじゃ! ……国を守れぬ女王なんて、誰も……!」

 息を急き切らせながら、ようやく女王は立ち止った。そこは女王のプライベートが約束された後宮であった。緑と花に囲まれた後宮はブリューテブルク城と同じ塀で囲まれた湖の畔にあり、王族が幼少期を過ごす所であった。

 この世に一つしかない鍵を使って、女王は中に入った。そして誰も入ってこられぬよう、中から錠をかけた。玄関口から広間を見渡すと、家具にはもれなく灰色のシーツが掛けられていた。そっと触れてみると、小さな白いもみじがシーツの上にあらわれた。シーツを曇らせていたのは埃なのだ。

 女王はぱたぱたと後宮のあちこちを冒険した。幼くして即位した彼女にとって、誰もいない環境は久しいものだった。少しの探検を続けてわかったのは、どこもかしこも埃だらけということだ。女王の漆黒の喪服はたちまち濁ってくすみ、床にも女王の小さな足跡が点々と続いた。その後ろには、彼女のそれよりも一周りも二周りも大きな足跡が静かに付いてまわった。

 ついに、女王は両親が存命中に使っていた子供部屋へ入った。ロザリンデもかつてここに住まっていた。ドアノブは低い位置に付けてあって開けにくかったし、家具も全て子供用にあつらえられた小さなものだった。曇った窓も低い位置にある。

 少女は、こんなにも全てが小さかったかしらと、小首を傾げた。揺れた金髪が、日差しを浴びて飴色に透き通る。そして思い出を噛み締めながら、ソファに掛けられていたシーツを勢いよく剥がしていった。大量の埃が舞い、彼女はけほけほと小さく咳き込んだ。先に窓を開ければ良かったと思い、剥がしたシーツを床の上へとぽいと投げ出して窓の方へと振り向いた。振り向いたと同時に、先程傍を通った小さなその窓は、ぎしぎしと軽やかとは言えない音を立て、ひとりでに開いた。埃っぽい濁った空気の中に、新鮮な緑の香りと日差しが入り込む。

 小さな女王は驚かなかった。

 それじゃあシーツを畳もうと思い、振り向くと、シーツは独りでに自分を畳み始めていた。

 やっぱり女王は驚かなかった。むしろ喜んだ。

 いまや棺桶の住民となった魔術師の摂政が、生前に女王に仕掛けていた悪戯そのものだった。

「じいや! じいやは死んでいなかったのじゃな!」

 女王が叫ぶと、一陣の風がどこからともなくやってきて子ども部屋に渦巻いた。轟々という風の中、女王は目も口もしっかりと閉じて、か細い両腕で顔を守り、その場で風が止むのを待った。風は全てを拭うように厳しく逆巻き続けた。しばらくしてそれがおさまると、女王は腕の防御を解き、風の中心だった所を見据えた。するとそこには、異国の衣装を纏って、目元を覆う仮面を着けた黒髪の青年がいた。

 短いブルネットの彼は仮面の奥で翠の瞳を閃かせ、恭しくお辞儀をした。

「ご期待に添えず申し訳ありません、ロザリンデ女王陛下。私は魔術師、名をジークフリートと申します」

 青臭さの残る声は、張り詰めたチェロの弦を彷彿とさせた。

「陛下は今、この国を守れるような魔術師をお探しですね? 若輩者ですが、私めを召し抱えてはいただけませぬか。私の類い稀なる〈魔法のギフト〉をぜひ、あなたさまの右腕に……」


 今はヴィスタ歴一一五〇年。どこからともなくやってきた異国の青年魔術師が、新しく女王の摂政という地位に就いて六年が経った。成人を迎えていない女王に代わり、このヴィスタ王国を保護する眼に見えぬ防護壁を〈魔法のギフト〉で作り、保持し続けている。途切れることのない魔法の防壁に、彼の底しれぬ才能が垣間見たようで、議会の面々は不本意ながらも彼を王宮に置かざるを得なかった。

 彼は公の場には必ず仮面を着けて現れた。出自も素顔も知れぬこの若い男に、臣下の者は不信感をあらわにしていた。なぜあのような素姓の明らかではない者を城に入れたかと、女王に直談判する者もいた。しかし彼女はにっこりとほほ笑んでこう言うだけだった。

「今にわかる時が来る」

 この年、齢は十六になろうとしており、女王は成人の儀を控えていた。ヴィスタの国政をまとめる議長として、これからは摂政を立てず一人で決断を下さねばならない。それは同時に国家の守護者――すなわち国を覆う魔力の防壁の担い手となることでもあった。

「陛下……」

 女王の寝室を月明かりが照らす中、魔術師は陰から音もなく現れた。魔法の力の証である翠の瞳は月光を受け止め、さながらエメラルドのように妖しく煌めいていた。しかし、女王にはそれを知る術がなかった。窓際の寝椅子に腰かけていた女王は彼の来訪にさして驚かず、背で呼びかけを受け止めた。

「あら、来たの、ジークフリート?」

 少女の声はまだあどけなさを残しており、リンゴを思わせるような堅さと甘ずっぱい音色を持っていた。つんとした言い方ではあったが、公務における支配者らしい響きは微塵も含まれてはいない。ロザリンデは公私で口調を整えられるだけの分別がつくようになっていた。

「ええ。成人の儀からは、晴れて一介の魔術師ですからね。陛下のお傍にいられるのもいつ最後になるか――」

 成人した女性の寝室に入ることは、摂政であろうとも許されなくなる。今後、女王の寝室に入ってよい男性は、彼女の婿となる者だけなのだ。

「そうよ、無断でわらわの寝室に入ることは許されないもの。残念でしょうけれど」

「随分と手厳しいですね。いじけておいでですか、陛下」

「陛下と呼び続けるからだわ」

 ゆっくりと女王の傍へ歩み寄った魔術師は、トーンを落とし柔らかい声で彼女の耳元で囁いた。女王の髪を束ねた二つの房は夜風にほんの少し揺らめいた。

「私なら、どんな錠前も容易く開けてしんぜますよ、ロゼ」

「それはいったいどんな鍵を使って開けるの?」

「それは……」

 ジークフリートはシルクの寝巻に包まれた、年齢に反してまだ女性になりきれていない、子供とも呼べるようなほっそりとした肢体の線をねぶるように見やった。

「残念ながら、ロゼにはまだお教えできません」

「思わせぶりね。本当は早く教えたくて仕方がないくせに」

 魔術師は、はは、と乾いた笑い声を立て、彼女の隣へ腰かけた。頑なに魔術師を見ようとしない少女の肩を、彼はなるだけ驚かさないようにそっと抱きよせた。体を強張らせている彼女の顎を引き寄せると、瞳をぎゅっと閉じている彼女の、普段はティアラの飾られる丸い額に口づけた。

「最後のおやすみのご挨拶ですよ。私が居なくても、よい夢を見てください」

 彼女は、面喰ったような、期待外れのような、照れているような顔をして上目づかいに彼を見つめた。熱っぽい瞳で少女があどけなくほほ笑むのをみて、魔術師は意地悪そうに口元を引いてみせた。それから二人は寝椅子に並んで座り、肩を寄せ二つの月を眺めた。月の光が少女の、そして魔術師の素顔を照らしていた。甘い風の吹く、優しい永遠のような沈黙を破ったのは女王だった。

「そなたに頼みたいことがある。返事は一つだけしか聞かぬ。女王の勅命じゃ。やってくれるな?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る