ビフォア・ファントム⑰荷馬車が揺れる

 次の日の昼前、ひとりの男がクロウたちの長屋を訪れた。仮面をかぶっているようなのっぺりとした顔、頭髪は元から生えていなかったのかのように禿げていた。事実生えていなかったのだろう、彼の顔には眉毛も、よく見るとまつ毛もなかった。年齢はそのせいでいまいち把握しづらかった。恐らく、フェレロより少し上だというくらいだ。

 男は玄関の前に立つクロウを、つま先から顔まで入念に下調べをするように眺めてから言う。「君が、クロウか」

「……ええ」

「……雑種なんだって?」

「……そうだけど、それが?」

「なに、商品価値があるってことだ」

 商品価値? クロウは室内にいるフェレロを見た。

「用意は出来てるか?」

「ちょっと待って……。」

 クロウは室内に戻り、着替えや小物を詰めたナップサックを肩にかけた。外に出ようとすると、ふとクローゼットの前の刀が視界に入り、それを手にとった。特に意味もなかったが、味方のいないその時の彼女にとって、それがせめての身内のような感覚があった。


「それじゃあ、俺についてきてくれ……。」

 クロウは玄関を出てフェレロを待った。だが、フェレロは気乗りしないように椅子に座ったままだ。

「フェレロ、お前も来てくれ」

「……俺も?」

「そうだ」

「だが……。」

 フェレロは何かを言いたげだったが、その男は無表情にまっすぐフェレロを見る。フェレロは分かったよ、と立ち上がり部屋を出た。

 男は自分の前をフェレロが通りすぎる際に「分かってるだろう?」と呟き、そしてそのまま男は二人の前を歩き始めた。

 男にクロウが言う。「そういえば、貴方名前は?」


 男は振り返った。「だ」


 ガロに連れられ街の華やかな一画を過ぎると、大きな木造の橋が見えてきた。街と貧民街と繋ぐ橋だ。そしてその前には、以前にクロウが見た21区行きの馬車が停まっていた。

 まさか、クロウは焦った。はたまたま停まっているだけに違いない。ヒムは前と変わりない仕事だと言っていたし、何よりフェレロが一緒にいるのだ。

 だが、そんなクロウの思いとは裏腹に、一行はさらにボロ馬車に近づいていく。

 そして、ガロはその馬車の前で立ち止まった。


「この馬車に乗ってくれ」


 呆然とするクロウ。

「……冗談でしょ」

「冗談じゃない」と、馬車の陰からヒムも現れた。

「だって、だってこの馬車……。」

「この馬車が何だ? ただの荷馬車だ」

「……嫌よ」

 その一言で、男たちの雰囲気が変わった。

「クロウ……。」と無理に平静を装うようにフェレロが言う。

「馬鹿にしないで。知ってるわよ、この馬車が何かくらい」

「今さらそんなこと言われてもな。お前は書類にサインをしただろう」と、ヒムが言う。

「書類って、じゃあアレはなんだったの?」

 ヒムの口角が上がった。笑顔と苛立ちの区別のつかない顔だった。


「21区で娼婦をやるって書類だよ」


 クロウは下を向いたまま黙った。陰になった表情は男たちからは見えなかった。

 フェレロが後ろから近づきながら言う。「クロウ、違うんだ。その、騙すつもりとかはなくて……うぶぉっ!」

 フェレロは悶絶してうずくまった。クロウが、背中越しに刀の鞘をフェレロの鳩尾みぞおちに突き立てていたのだ。

「てめぇフェレロ騙しやがったな!」

 振り返ったクロウは、さらにうずくまるフェレロの顔面を蹴り上げた。

「おい、止めろ……。」と、二人の喧嘩に呆れたようにヒムが部下たちに命令する。

 部下たちはクロウの背後に周り、後ろから羽交い絞めで彼女を抑えた。

「離せよ! 離せったら!」

 大男たちに抑えられ、クロウは地面に膝をついた。

「……望み通り離してやれ」

 ヒムに言われ、男たちはクロウを開放する。

 そして膝まづいていたクロウが顔を上げた瞬間、クロウの頬をヒムのステッキが殴りつけた。ムチのように撓った音が響き、クロウが小さくだが鋭い悲鳴を上げた。

「おいおい、商品を傷つけるのはやめてくれよ」と、ガロが言う。

「構わん、躾だ。今のうちに慣れてもらわないとな……。」

 ヒムには明確なビジョンがあった。殴られた女が痛みで抵抗する力を失い自分の前に従順にひれ伏す、そんないつもの光景が彼の目の前にあるはずだった。


 だが次の瞬間、ヒムに見えていたのは、牙を剥き出しにし自分におどりかかって来る牝の獣だった。


 ぶっ殺す!!


 ヒムは空気を飲むように悲鳴を上げ、足が悪いせいでバランスを崩し尻餅を付いた。

 そんなヒムにクロウは馬乗りになり、ヒムの顔面を両手で鷲掴みにする。

 引っ掻く、という生易しいものではなかった。獣は顔面の皮を剥がすように爪どころか指を顔の柔肌にめり込ませ、そして引き裂きにかかっていた。

 驚愕して自分の眼前の逆光の女を見るヒム。そこには白く光る犬歯と黄金に光る猫目があった。

「お前らっ、助けろ!」

 男たちがヒムの上にまたがるクロウを抱きかかえてどかそうとする。

 クロウが引っ張られるが、めり込ませた指のせいでヒムの顔面も一緒に皮膚を伸ばしながら持ち上がった。顔面が剥ぎ取られそうな痛みと恐怖で、ヒムは部下たちが聞いたことのないような悲鳴を上げた。

 やりように困った部下たちがクロウを引っぺがす力を緩めると、さらにヒムは絶叫した。クロウがヒムの長耳に噛み付いていたのだ。

 部下たちは慌てて上司からこの女を何とか離そうと、棍棒で何度もクロウの背面を殴った。

 彼らの喧騒を見ながら、かったるそうにガロが言う。「顔はもちろんだが、向こうにやる前に殺さないでくれよ。もう金払ってんだからな」


 数発の殴打、そして後頭部に一撃をくらいとうとうクロウは力尽きた。

「やれやれ、とんでもねぇ牝猫だな」

 ガロは動かなくなったクロウに木製の手枷をはめると、クロウを抱えて持ち上げ格子つきの荷台に詰め込んだ。

 落ちていた刀に気づきガロが拾い上げる。「……この棒は何だ?」

「その、アイツの親の形見らしい」と、フェレロが言う。

 ガロはふぅん、と言うとそれを御者に手渡した。

「まぁせめて形見ぐらいは持っててもいいだろう」

 血の流れる耳をハンカチで抑えながらヒムが訊く。「使えそうか?」

「気性に難ありだが、なぁに、向こうもそういう女は何人も手懐けてきたさ。それに、何てったって雑種だ。使ガキはできない。回数はこなせるはずだ。いい商品だよ」

 ガロがそう言うと、ヒムが強がるように笑った。

「あ……。」と、ハンカチを取ったヒムの耳を見てガロが戸惑う。

「……何だ?」

 ヒムの耳の先が、僅かだが喰いちぎられていた。

「……いや、何でもない」

 下手に耳のことに気づいたら、この男は怒りに任せクロウを殺すかもしれない。ガロはそそくさと馬車に乗り、御者に命じて馬車を走らせた。


 一方のフェレロは、21区へと向かうその馬車を複雑な面持ちで見ていた。そんなフェレロの肩にヒムが手を置く。

「どうだ? 自分を愛した女を苦界に沈める気持ちは?」

 フェレロは振り返って笑った。罪悪感にまみれているものの、ある種開放感のある、小悪党らしい笑顔だった。

「いい顔になったじゃないかフェレロ? これからも期待してるぞ」

 ヒムはフェレロの肩を数回叩き、部下たちの方へ歩いていった。

「……社長」

「何だ?」

「アイツのいた店から金を盗んだのって……社長ですよね?」

 ヒムは嗤った。

「あの女には稼がせてもらったよ。いや、搾り取らせてもらったという方がいいかな」

「……いつから、俺たちを利用しようと?」

「人聞きの悪ことを言うな。お前らの作った損失を埋めたまでだ」ヒムはまたフェレロの方へ歩き囁く。「……お前だって債務者を利用してあの女を襲わせたろう? そして自分が正義の味方みたく助けてな。たいした役者だよお前は。だが、私の方が一枚上手だった。計画を立てるのも、あのベルっていう踊り子を利用するのもな」

「……ベルも?」

「知らないとでも思ったか? アイツの借金返済を条件に、お前が良いように手を回してることに。だがな。ベルはよくやってくれたよ。自分のやったことを上手くお前の女になすりつけたりとな」

 そしてヒムは、この間の失敗はこれで全部チャラにしてやる、と言って部下と一緒に事務所の方へ去っていった。


 残されたフェレロは小さくなっていく馬車を見続けた。

 許せよ、クロウ。お前のことを灯だって言ったのは嘘じゃないぜ。……だが、灯はいつか消える。その前に、新しい灯を見つけておかなきゃあいけないんだ。そしてこの街じゃあ、金が絶対に消えない確かな灯なんだよ……。

 フェレロは罪悪感を誤魔化すために、何度もそう自分に言い聞かせた。

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