イヴ・ヘルメス③

                ※


「全部ぼくの思い込みだったんだ。兄妹との友情も、努力すればいつかは報われるということも……。」

 膝の間に顔をうずめてロランが言う。


「思い出というのは気まぐれなもんだ。不幸の最中にいる人間には自分の誕生すら呪わしいし、良い時に振り返れば親の死だって心の支えになるもんさ。その兄弟だって、思わず口をついてしまったということもあるだろう」半端な慰めだったせいか、ロランの反応は乏しかった。「もちろん、そいつが正真正銘のクズだってこともありえるがね」


 外は少し明るくなってきていた。川面に反射した光が岩場に差し込んでくる。


「認めたくなかった。両親や兄弟たち、周りの皆がぼくを白い目で見なかったあの頃が嘘だったなんてことは……。」


                 ※


 翌朝、イヴは幼馴染の侍女を、内心焦りながら探していた。


「タバサっ」

 その幼馴染は水場で洗濯中だった。侍女とはいえ衣装の管理などの主な仕事は彼女の母が手がけ、本人は見習いとして使用人とともに雑用に従事していたのだ。

 子供の頃に比べると苦労が増え水仕事で手が荒れ、身なりは貴族とは違い華やかではないものの、イヴはかつての面影を残す童顔の侍女の顔に安らぎを求めた。


「イヴ様……どうなさいました?」

 しかしその口調は、関係が昔のものとは変わっていることを突きつける。

「やだなぁ、イヴで良いよ。君、今日暇かい?」

「あまり暇とはいえませんね。どなた様かがお部屋のシーツを台無しにしてしまいましたから」侍女が首を傾かせて笑うと、栗毛色のおさげ髪がふわりとなびいた。この髪は子供の頃と変わることはないものだった。イヴはその髪と笑顔を愛おしく思った。

「ごめん。実は……昨夜ロルフと喧嘩をしてしまってね」

「まぁ……」侍女は心配そうに洗濯物を干す手を休めた。

「ほら……最近、ロルフの奴、街の不良とつるんでるだろう? 注意するつもりだったんだけど……。」

 自身のことと婚姻のことは言い出し難かった。


「でも……ロルフ様は子供の頃からやんちゃでしたからね」

「そうだったかい?」イヴは野遊びに関しては自分のほうが無茶をしていたと記憶していた。

「そうですよ。それに男性ならば好奇心に身を任せ放蕩ほうとうすることだってありますよ。珍しいことじゃありませんわ。ロルフ様はまだお若いんだし」

「そう……かもね」

「しかもあの方、おもてになりますし。そんな王子様が街に繰り出せば、一躍ヒーローじゃありませんこと? きっと黄色い声を掛けられずにいられませんわ」侍女はうっとりと手を組んで空を見上げた。いつしか幼馴染は主従関係になり、そしてもう手に届かぬという事実は憧れに変わっていたのだろう。自分に向けられているものではなかったが、その羨望する横顔はイヴの隠された想いを強くする。


「う……ん」

 イヴは、もしかして君も……と幼馴染の胸の内を確認したくなったが、その勇気はなかった。おそらく、ただの女同士の幼馴染であればそうできたのだろうが。


「ああ、いつしかロルフ様もどこかのご令嬢と結婚なさるのでしょうね。昔はあんなに一緒に野を駆け回ったというのに。それに引き換え私は……。」

 そう言って落ち込みかけている侍女の手をイヴが取る。

「変わらないよ?」

「え?」

「ぼくは……昔と変わらない」

 侍女はイヴの服装を見た。やはりいつものように、男性用のズボンとシャツを着用している。

「そうですわね、イヴ様は……。」

「イヴ」

「ええ、イヴは……あなたは変わりませんね。相変わらず殿方顔負け」侍女は幼い頃に思いを馳せ、次はイブにうっとりとした顔を向けた。それはあか抜けない童顔ではあるが、純朴だからこその包容力にも溢れていた。この顔を向けられたならば、大多数の男が彼女に恋をせずにはいられないだろう。「もしあなたが男性だったなら、きっと私恋をしていましたわ」


 その言葉は、互いにまったく違う意味に捉えられた。片方の女にとっては戯れの冗談で、もう片方の女にとっては愛の告白だった。


「男だよ、ぼくは……。」そう言うと、イヴは侍女の顎を優しく指先でつかんで唇に顔を近づけた。

 侍女は何が起ころうとしているか分からず呆けていたが、イヴが何をしようとしているか分かった瞬間、ちょっと! と両手でイヴを突き放した。


「何を……?」

 奪われる寸前だった唇を侍女は両手で押さえた。


「何って……その」

 両者とも何が起こっているか分からなかった。


「冗談はやめて下さいっ」

「君、さっき言ったじゃないか。ぼくが男だったらって……」

「でも、あなたは男じゃない」

「男だよ。体は女かもしれないけれど、心は……。」

「何を仰ってるんです? 本気ですか? そりゃあ昔からあなた様は男勝りではありましたけど」

「違う、ぼくは……女じゃないんだ。そして君のことが昔から、子供の頃からずっと……」

「おやめくださいっ。聞かなかったことにしますっ。」

 幼馴染だからこそイヴは分かった。侍女のそれは純粋に、自分を拒絶する言い方だった。何の理解の余裕もない、異形を目にした時の、悲鳴にも近いものだ。


 混乱したイヴは強引に侍女を抱き寄せる、何かの間違いだと。抱擁が足りないのだ、そうすれば彼女は自分の心に触れ自分の本当の姿を彼女は分かってくれる。だが……、

「やめてよイヴ、気持ち悪い!」

 昔と同じ口調は、嫌悪によってもたらされた。


 先ほどよりも強い力で押しのけられたイヴの体は、体は辛うじて立つ力は残していたものの、心はほんの数刻の間死んでいた。彼女が気を取り直したとき、侍女の姿はもうそこにはなかった。

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