第6話 (第三章 その1)

第3章



 きらきらと翡翠色の若葉に朝露が揺らめく。

 小鳥たちは軽やかに楽しげに舞い歌う。

 木漏れ日が静かに揺れ、皇女は木に凭れ掛かったまま、朝の日差しの中で微睡んでいた。


 そんな皇女の眠りを破るように、忙しげな足音が近づいて来た。

 慌てているが、しかし、遠慮がちに静かに呼びかける声。

「内親王(ひめみこ)さま・・・内親王さま」

 その者は、そっと皇女の肩に触れ、静かに揺らす。皇女は重たげに瞼をゆっくりと開いた。

「郎女・・・?」

 坂田郎女が、なにやら難しそうな表情で皇女のそばで畏まっていた。

「何かあったの?」

「先ほど、お屋敷に怪しい風情の行者が尋ねて来ました。」

「行者・・・?」

 忘れていた。そういえば、あの小鬼の気配は昨夜からぱったりと消えたままだった。あの気配が消えた事と何か関わりがあるのか?皇女は思考を巡らせた。

「その者が言うには、内親王様に内密にお知らせしなければならぬ急を要する大事な用件があると申しました。」

「それで、どうしたの?」

「門番が止める間もなく、庭の中までズカズカと入り込んで、内親王さまのお部屋の前で居座っているのでございます。その者は内親王さまとも面識があるのだと言い張るものですから、そのまま追い出すべきか否か家人たちも皆困っているようなのです。」

「小鬼の主か・・・。なんて厚かましいんでしょう。」

「こおに?」

「いえ、先日、狗が屋敷に紛れ込んでいたものですから。いつのまにか姿を消したのですけれどね。」

と、微笑し、

「それで、その男は、まだ屋敷にいるのですか?」

「ええ、内親王さまに会うまではここを退かぬぞ!と威嚇しているものですから、それに面識があるなどと言われては無下にもできず、皆、困り果てていおります。どのようにいたしましょう?」

 皇女は困ったように笑みを作り、

「私の知り合い・・・ね。行者の知り合いなんて、覚えがないわ。でも・・・。」

と言いつつ、皇女は押し黙って、少し考えてから、顔を上げると、

「分かりました。」

 と、答えた。

「あのような怪しいものに、直々にお会いになるのですか?」

「ええ。とりあえず会って話を聞いてみましょう。もしかしたら、朔日の夜に出会った怪しい行者かもしれませぬ。いえ、おそらく、あの者でしょう。」

「内親王さまは、あの夜、その男に名乗られたのですか?」

「いいえ。何も。ですが、あの夜、跡をつけられていたのかもしれませぬ。相手が修行を積んだ行者なれば、私たちなどに気配を気付かせずに探りを入れるなんて容易い事なのかもしれません。」

 実際は、式を使って自分たちを追わせ、屋敷を探し当てたのかもしれない。数日間纏わり付いていた気配は、式を使って、ずっと私や屋敷の様子をうかがっていたに違いない。

 昨夜、あの式の気配が消えたことと、あの者が屋敷まで押し掛けて来た事、無関係ではないのではないか?

 そう思考を巡らせると、急(せ)く気持ちが強くなり、皇女は裳裾を少し持ち上げて、足早に屋敷へ戻った。




 対屋から見下ろせる庭には、あの夜の行者が横柄な態度でドカッと胡座をかいて座っていた。

 家人は行者を簀子にあげることもなく、そのまま控えさせていた。

 皇女は団扇で顔を隠して、廂に出ると、立ててあった記帳の裏に入り、静かに座った。

 傍若無人なそぶりを見せていた行者は、皇女が来ると、急に畏まったように面を伏せた。

「本日は、内親王(ひめみこ)様にはご壮健であらせられますることを言祝ぎ申し上げまする。」

「・・・・」

 空々しい行者の台詞に、皇女は冷たい視線で見下ろした。行者はそのような凍った空気も気にせず言葉を矢継ぎ早に続けた。

「内親王様にお目通りが叶いまして、この老いぼれ、嬉しゅうございます。」

 そして、不躾にも面を上げて、嫌らしい笑みをニヤリと浮かべて、記帳に写る皇女の影をジッと見つめた。

「名も名乗らず、不躾に凝視するなど、あまり気分の良いものではないが。」

 皇女は背筋に悪寒が走るような動揺した気持ちを抑え、不快感を匂わせるように凍った声で行者に呼びかけた。

「これは失礼つかまつりました。私は古麻呂と申す大峰山の行者でございます。いやぁ、几帳越しですら窺い知れる、内親王様の麗しさに名乗る事すらうっかり忘れてしまったのでございます。天香国色とは正に内親王様のためのお言葉でございましょう。」

 空々しい褒め言葉に嫌悪を感じたのか、皇女はそれには反応せずに、声音もそのままに質問を続けた。

「汝(なんじ)、何をしにここへ来たのですか?私と面識があると聞いたが、私にはあなたのような知人はおらぬ。何が狙いなのじゃ?」

「はっ!本日は内親王様に内密でのご相談があり、この老いぼれ、参上つかまつったのでございます。立ち聞きされては困りますので、もう少し、内親王様のお近くに寄ってもよろしいでしょうか?」

「・・・」

 皇女が答える間もなく、行者は廂のすぐ下までズズッと近寄って来た。

「内親王様のお腹の中に、妖しきものあり・・・」

 行者は、囁くようにそう漏らすと、媚びるように口元に弧を作り、上目遣いに作り笑顔で舐めるように見上げた。

「市井での噂に民衆が不安を感じているからと、私めに原因を突き止め、必要ならば物の怪を退治するようにとお役人様から依頼がありましてな。探っておったのです。結果・・・私の式は見たのでございます。美しき内親王様と物の怪の交わりを」

 皇女の顔に怒気が宿った。だが、極めて冷静な口調で窘めるように呟いた。

「何を申すか?事実もないのに・・・なんという」

「そうでしょうか?」

 行者は歯を剥き出してにやりと笑うと、語気強く皇女の言葉を潰した。そして、凄みを織り込むように声を一層低くして、話を続けた。

「内親王様の沽券に関わるお話でござります。よって、詳しい話は、内親王様のお隣でお話し申し上げたい。」

 そう言うが早いか、冷笑を浮かべて階(きざはし)を上がり、記帳の目前にドスンと座り込んだ。皇女はムッとしたように、声を低くして語気を荒げた。

「私は上がっても良いとは許してはおらぬぞ。」

 しかし、自分が優位に立っていると思っているのか、行者は半ば脅すように嘲笑を含んだ声で

「他のものに聞かれるのは、内親王様にとって不都合ではないのですか?」

 皇女は、ふてぶてしい行者に苛立ちを覚えながら、強く睨みつけて言った。

「何故、不都合と?吾は他のものに聞かれてはまずいようなことをした覚えはないぞ。」

「ふふん。そうでしょうかね。」

 と、ぐいっと記帳に顔を寄せて囁いて来た。

「わしには見える。内親王様にはかなり強い穢れを負った物の怪が取り憑いてますぞえ・・・」

 話が噛み合ない事に困惑を覚えて眉間にしわを寄せ、皇女は聞き返した。

「吾に物の怪が憑いていると?」

 行者は堂々として胸を張り、

「はい。市井にそのような噂が流れ、不安が広がっていたため、私めが調べたのでございますよ。」

「そのような噂と吾にどのような関わりがある?」

「朔日の夜、ご挨拶させて頂きました。あの夜の事をまさかお忘れではございますまい。日を改めて、お主らの屋敷に伺うとしようと、あの時、しかとお約束したではありませぬか。」

「一方的なものを約束とは言わぬぞ。」

「内親王様は、お気づきになられていたはずでございますよ。」

行者は、口元をゆがめて含み笑いをしてそう呟いた。

「はて?なんのことだ?」

「おとぼけにならないでください。あの後、式を使い調べていたのでございます。内親王様はお気づきでしたよね?」

「汝の式を送ったというのか?この屋敷に」

「ええ。貴女様のあとをつけさせました。そして、確かに私の式は内親王様とともにこの屋敷におりました。そして、夜中、内親王様が物の怪との逢瀬に出掛けられ、そこで後をつけていた私の式が四散したのでございます。」

 皇女は無言のまま、暗い瞳で行者をじっと見つめた。

「朔月の夜の事、このじじいの顔、よもやお忘れなどということはありませぬよな?」

「お前なぞ、知らぬ。」

 行者は几帳ににじり寄った。

「いいえ、私はよぉく覚えておりますよ。あの夜、皇女様は男のなりをして、年老いた家来を連れておりましたでしょう?」

「・・・」

「我が目は霊体を見る目だと、貴女に申しました。つまり、男か女か、そしてどのような身分の者なのか、見えるのでございます。そして、式も私の代わりの目となるモノ。」

 皇女は自嘲するように溜め息をついて暗く笑った。

「霊体を見る目か。ああ、そうだな。そう申しておったな。だが、あの夜、吾は星の鑑賞に散歩に出ていただけじゃ。星明かりは新月の夜の方が美しいからな。ただ、新月の夜は月明かりもなく物騒だから、あのなりをしていただけじゃ。」

「内親王様はご存知ではなかったのでしょうが、あの地は、もともと民草の間では物の怪が出ると噂になっていた場所なのでございます。そして、最近になって、物の怪に取り憑かれた女が夜毎、山裾の草原を彷徨っているという話が囁かれるようになりました。」

 皇女は行者を睨みつけた。

「私は噂の物の怪に出会(でお)うたのか?とドキリとしましたよ。しかし、よくよく見れば、姿を偽る美しい女人ではありませぬか。しかも黄泉の穢れを背負うておる・・・」

「ふん。汝の操る小鬼の方がよほど強い穢れを抱えていたぞ。」

「そうでしょうか。」

 行者はねちっこい笑みを浮かべて続けた。

「あのような月もない夜更けに、あてもなさげに出歩かれていたのは何故でございましょう?高貴なお方の行動としてはいかがなものでしょうねぇ。疑われるのの無理はないかと存じますが。」

「疑いを持ってみるものの目には、どのような些細なものであっても、怪しく映るのであろう。」

 行者はクックックッと含みを持って嫌らしく笑い、

「夜な夜な、あのような物の怪と逢瀬をお楽しみになっておられるとは。さすが天香国色の内親王様。物の怪まで虜にしてしまわれるとは。」

「ならば、吾とお前の申す物の怪との間には何もない事だって知っておるだろう。お前の話が、偽りだという事も。」

 行者は素早く几帳の隙間に手を入れて、皇女の腕を握り、己のところへ力一杯引き寄せた。弾みで、転ぶように几帳から皇女が引き出されると、顔を皇女に近づけて睨みつけた。

「内親王様から、穢れを感じまする。」

 より一層、低い声色だった。行者の気味の悪い表情に皇女の背筋が総毛立つ。

 腕を捩り、掴んできた手を振り払おうとしながら、

「穢れだと?この吾に?お前の小鬼との間違いだろう。」

「内親王様の胎内に、物の怪の子が宿っております。」

「なんと申すか!」

 皇女の腕を掴む手を一層強めて握り、更に、もう片方の手で団扇を持つ方の手首を掴んで引き寄せて、行者は低く掠れた声で恫喝した。鍛えた男の力ゆえ、皇女がどう足掻いても振りほどく事はできなかった。悔しさで、眼が曇った。

「わしは朝廷から二上の物の怪を封じ込めるよう依頼されておるのじゃ。」

 行者の眼底の鋭い光が怪しく鋭く光った。

 行者の「物の怪を封じる」という言葉に、思いの底で僅かな動揺を覚える。血潮が沸くような激しい苛立ちと憎悪ーーー。例えようもない自身の強い憎悪の感情に怯えた皇女の震える腕から、団扇がひらりと簀子の上に落ちた。



********160716




 物の怪の子供・・・。

 その言葉に、緊迫した状態を見守っていた屋敷の者たちの顔が明らかに困惑した表情を浮かべ、硬直してた。皇女(ひめみこ)に無礼を働いている行者であるが、皆、その者の衝撃的な発言に戸惑い、どう動けば良いのか、判断もできずにおろおろするばかりだった。そのため、間を取り繕う者もなく、二人の膠着状態がしばらく続いていた。皇女は低い声で呻くように行者へ命じた。

「まずは、この手を離せ。無礼であろう。」

 行者は高らかに笑いながら、隅の方で控えているであろう者たちに聞こえるように、大きな声で言い切った。

「物の怪は二上山に縁があるものでございます。朝廷から依頼された物の怪封じの仕事を片付けねばなりますまい。しかし、その前に、内親王(ひめみこ)様のお腹の中の物の怪の子供をまずは払わねばならぬのでございます!」

 皇女は詰問するような強い口調のまま、問うた。

「貴様、何をする気だ?」

 そう問われてもなお、行者は悪怯れるどころか、気味の悪い含み笑いをして、

「何を、と?」

 とぼけるように問い返し、皇女の身体を舐め回すように見まわした。そして、舌舐めずりをするような下賎た笑いを浮かべた。

「わしの身体で清めてやるわ。お役目とはいえ、このような美しい女人を抱けるなどと、じじいも嬉しゅうございます。」

 薄く笑いながら、周りの者に気取られぬよう、耳元で囁く。行者の手に一層の力が加わった。年老いているとはいえ、鍛え抜いた男の力だった。たいした力もない皇女には抗いようがなかった。

「これから、内親王様のお腹の中に宿る物の怪封じを行うといたしましょう。ささ、お部屋の中へお入り下さいませ。」

 が、今は日中である。家人たちもすぐ側に控えているのだ。相手の一目も憚らぬ大胆な行動に一時驚き気圧され、困惑していたが、皇女はすぐに己を取り戻し、叫んだ。

「なんて事を!!無礼だぞ!誰か、この者を捕らえろ!」

 皇女は叫んだ。皇女の命が飛び、控えていた宅馬ほか家人たちが行者を捕らえに動き出した。あっという間に行者は数人の屈強な男たちに取り押さえられた。しかし行者は片腕を強引に振り解くと、懐から書状を抜き出した。

「己、朝廷の命に背くのか!わしは物の怪退治を依頼されたのじゃぞ。このとおり書状も所持しておる。この女は物の怪にとりつかれ、しかもその物の怪の子まで孕んでおるのだぞ!皆の者、目を覚ますのじゃ!これは、内親王様のためでもあるのじゃぞ!!」

 皇女の顔から怒りで血の気が引いた。己の純粋な思いすら真っ黒に塗り固められ穢されていくのが許せなかった。

青白くなった顔で皇女は叫んだ。

「物の怪の子なぞ、吾は孕んではおらぬ!」

 物の怪の子を孕んでいると山伏は云った。しかし、皇女は否定した。

 物の怪払いをしなければと、家人たちは慌てたが、否定している皇女の手前、何をどう信じたら良いのか判らず困惑した。行者は家人たちの困惑を見取り、更にとばかりに、おいおいと泣きながら叫んだ。

「全ては二上山の物の怪の仕業でございます。この老いぼれには内親王様が心配なのでございます。その物の怪はこの地に実体はなく、ただ、怨霊となり魂のみが縛り付けられているのでございます。前世で大きな罪を犯したそのモノの肉体は、現世で再び生まれて暴れる事のないよう、蘇れぬ呪をかけ、別の地に埋葬されておるのでございます。だが、その御霊は何かしらの力で呪を逃れ、魂を封じたこの地を怨霊として彷徨い続けているのでございます。」

 皇女は気色ばんだ。しかし、屋敷の者たちは蒼白となり、行者を捕らえる手を緩めた。なおも行者は必死に訴えた。

「このままではいづれ、その怨霊が迎えに来て、皇女の精力を全て吸い尽くしてしまうでしょう。内親王様のお体は、衰えて、何れ死を迎える事になります。そして、皇女様の魂を食らい尽くして、物の怪の子が誕生するでありましょう。」


 しかし、皇女は全て判っていた。

 物の怪の子なぞ、孕んではおらぬことを。


 黄泉の王と皇女が、お互いを認識しあった時に生じた繋がりの縁(いと)のことを、この卑しき行者は物の怪の子を孕んでいると錯誤しているだけだということを皇女は知っていた。

 そもそも、我らは見つめあった事しかないのだから・・・。

「内親王様は捕われておるのです!このじじいを信用下さいませ!二上山の魔物が、内親王様の美しさに目を付け、取り憑いているのでございます。この魔物は、通常の術者には押さえつけられないほどに強い御霊であるのです。私でしか祓う事ができぬのでございます!!」

 取り押さえられた行者は涙を流し、震えながら熱心に叫び続けた。しかし、その言葉の裏には、欲望が滾っていた。その感情の波は感覚の鋭い皇女に、皮膚感覚を通じて伝わってくる。卑しい行者の思惑に激しい嫌悪と悪寒を感じ、凄まじい吐き気を覚えた。

 そうなのだ。行者は、皇女の美しさに我がものにしたいと言う欲望を滾らせていた。その上、おそらく体裁を気にするであろう宮家の者たちに対しては、物の怪の子を宿した皇女・・・この話はきっと金になる。なんて美味い話だ!

 行者に触れられた事によって、皇女には透けるようにその行者の意図が見えてしまったのであった。

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