悪いひとたち
井上 竜
序章
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2015/9/某日
夕方前、家の裏手にある砂浜の岩陰で一人マリファナ
マークはツバサと同じくハーフなのだけれど、ツバサと同じように白人と日本人とのハーフではなく、黒人と白人とのハーフのようだ。いく分でっぱったおでこと歯が特徴的で、ぱっと見はハーフというよりもほとんど黒人のように見える。身長もそれほどには高くない。ミクよりも少し高いくらいだろうか。彼女と同じくらいに痩せていて、ジグザグに分けて蛇腹状に編み込んでいる意外にも縮れてはいない二つの黒髪の先端を、肩の辺りでそれぞれに赤いヘアゴムで結んでいる。その編み込みを見る度に、ぼくは蛇の腹というよりはむしろ虫のそれのようだと決まって思う。ちょうどグレゴール・ザムザがなってしまったような、あの堅い殻に覆われている巨大な甲虫の腹のようだと。
マークは三年ほど前から世界中の各地をバックパック一つで転々としながら暮らしているらしく、その中でも今住み着いているこの沖縄の土地が大のお気に入りらしいが、理由はわからない。それほど優雅そうじゃない旅だとは言え、一体なぜそんなことを幾年も続けられるだけの金を彼が持っているのかもわからないし、それまでの育ちと出身もイギリスだったかアメリカだったかもはっきりとはわからない。もしかしたらオーストラリアだったかもしれないが、だとしたらオーストラリアでは英語を話すのだろうか。いずれにしてもその中のどこかだったはずなのだけど、ぼくは聞いたことをあえて忘れるように務め、いくらかは成し遂げることができた。他人の情報をできるだけインプットしたくないからそうしたのだ。なぜならその人間について知っている情報が多くなればなるほどに情が移り、繋がりが生じてしまう。そうして繋がりが生じてしまえば、良くも悪くも孤独ではいられなくなる。『あの日』から既に五年が過ぎ去ったとは言え、なるべくならぼくはまだ孤独なままでいたかった。仕事におけるパートナーさえいればそれでいい。感傷的な理由からではなく、単に面倒くさいからと言った方が正確かもしれないが、それはそうとそのためには情報を制御するだけではなくて、その相手と感情をぶつけ合わせてもいけないということだ。情と憎悪とはエネルギーの向かう方向が異なるだけで、結局のところは同じ動機から発せられる、同じ質の行為に過ぎないからだ。いつかルシがそう教えてくれた。しかし今日だけは珍しく、と言うかおそらくは初めてぼくは他人であるマークと意見と感情とをぶつけ合わせることになった。
「またまたイヤーな事件が起きましたな」ビールを一口飲んでからマークが言った。
ぼくは吸っていたジョイントの穂先を砂に突き刺してから缶の蓋を開けて一口飲んだ。ビールは既に温くなっていたけれど、マリファナが効いているおかげでキンキンに冷えているものと同じかそれ以上においしく感じられた。「どんな事件?」
「五歳の男の子がイタズラをされて、ザンサツされましたよ」
マークは日本語がうまい。発音のニュアンスが微妙で間違えてしまうことが往々にしてあるのだけど、文法はとてもしっかりとしているし、語彙に関してはもしかしたら日本人であるぼく以上に豊富かもしれない。初めて会ったとき、マークが三島由紀夫の仮面の告白を持っていたことをふっとぼくは思い出した。
「それはひどいね」ぼくは言った。もう一口ビールを飲んだ。ビールではなく砂が喉を駆け抜けているという馬鹿げた妄想が一瞬頭をよぎったが、すぐに忘れた。
「最近の若いモンはほんと、どうかしとるワ」
マークは腹を立てたようにそう言った。何かにつけて少し腹を立てたようにしゃべるのがこの男の癖のようだ。それはさておき、ぼくよりも年下で確かまだ二十代だったはずのマークが真顔でそんなことを言うのがおかしかったけれど、ぼくは反応を示さなかった。
ジョイントをまずそうにまた一口吸ったあとにマークが続ける。「なあ、ソウは思いませんか? コオヘさん」
コオヘというのはコウヘイという意味だ。むろんぼくにとってはどちらでもかまわない。
「思うよ」ぼくは言った。「でも、そうせずにはいられなかった理由があったのかもしれない」
マークが本気で腹を立てているかもしれないということに思い当たったのは、もう一口ビールを飲んだあとだった。速すぎるネイティブな英語を使って独り言のように何かを言った。何を言っているのかはわからなかったけれど、信じられない、ふざけるな、という内容のことを言っているのがいくつかの知っている単語とイントネーションからなんとなく理解できた。
「犯ザイ者の言い分になんて耳を貸したらいけませんよ、コオヘさん。人殺し、動物ギャクタイ、少年少女男児ジョジ淫行レイプ無差別サツジン。そんなことしたやつらのことをカバウ必要などは断じてナイ。全員シケーでいいんですよ、ぜんぶゼンブ、ゼンブ!」
自分が取り乱していることに気付いたのだろうか、一転取り繕うようにマークは笑った。「もちろんマリファナ
ぼくは笑う代わりに大げさに眉を顰め、左右に小さく首を振った。また一口ビールを飲んだ。そのときジャングルで聞こえてきそうな甲高くて鋭い鳥の啼き声がどこからか聞こえたような気がしたけれど、それらしい鳥の姿はどこにも見えなかった。
「別にかばってるわけじゃないよ」ぼくは言った。「ただ彼らは犯罪を犯したくて犯してるわけじゃないのかもしれない。そういう風に考えた上で、事実をきちんと解明していく必要があるんじゃないのかな。そういう過ちを、二度と繰り返さないためにも」
自分が普段よりも感情的で饒舌になっているのを感じたけれど、何でもないような口調を意識するのだけが精一杯で、しゃべりたいという衝動を抑えることができなかった。さっきまで読んでいた原稿内のとある一場面を思い出してしまったせいかもしれない。ホワアイ? と口を挟んだマークを無視してぼくは続ける。
「それなのにそこをすっ飛ばして、一つのカテゴリに押し込めて報道している例が多すぎるよ、マスメディアは。悪人は元から悪人として存在なんかはしていないんだ。根っからの悪人なんて、この世には存在しないんだよ。彼らはある意味で病気なんだ。『被害者』なんだよ。彼らだけに罪を押し付けるのは絶対に間違ってる」
自分が取り乱していることに気が付いて一転取り繕うように笑うのは、今度はぼくの番だった。「まあ、みんな病気だって言ったらそうなんだけどさ」
ノオ、と両手で持っている何かやわらかいものを引き伸ばすような発音でマークは言った。「そんなことカイメイして、一体何がどうなるというのですか。そんなコトしても、死んだものは生き返ったりしないのですヨ? では殺されてしまった人間や人間の遺族は、ナキネイリですか?」
ぼくは何も答えなかった。答えたくなかったということもあるが、ある少女のことを思い出していて答えられなかったということもある。あの少女はあのあと、一体どうなってしまったのだろうか?
「我々はアニマルじゃありません」とまたジョイントをまずそうに一口吸ったあとで切々とマークは続ける。「我々は自分のイシを、コントゥロールすることができるのです。それなのにああいう人間ドモはそうしようとしない。それはタイマン以外の何モノでもないのです。それにコオヘさんの言うように彼らがビョーキなら、治すことができる。でも、彼らはそれをしない。そモそモ我々は、それほど変わりなどはいたしません。みんなダイタイオナジなのです。みんなそれぞれの、同じくらいデッカイカナシミを抱えているのです。そしていわゆるフツーの人たちにとっても、ガマンは大変なことです。少なくともカイラクではない。でもみんなミンナそれを頑張っている。でも悪人たちは頑張らない。頑張れるはずなのに。チガイマスカ?」
違わないよ、とぼくは言った。内心では違うと思っていたのだけど、あきらめて言ったのだ──ふと、ぼくはマークがヴィーガンだったことを思い出した。ヴィーガンというのは菜食主義者のことで、その中でも一切動物性の食べ物を口にしない人たちのことをそんな風に呼ぶらしい。一昨日マークがそう言っていた。ぼくが訊いたわけではない、この男が自分から話したのだ。
もう充分に効きが回ったのだろう、マークはジョイントの穂先をそっと砂に突き刺して火を消すと、律儀にもぼくに断ってから大事そうにその吸いさしを煙草の袋の中に入れ、入れ違いに取り出したエコーを咥えてライターで火をつけた。そこでぼくはだしぬけに、おいマーク・ライトリー、貴様はヴィーガンのくせに死刑は認めるんだな、とからかってやりたくなったけれど、そんな子供じみた真似をすることはよしておいた。そのあともマークは同じ話題について比較的熱心に話を続けたが、ぼくはもう反論をしなかった。感情的になった己を恥ずかしく思ってしまったことと、マークの相手をするのが面倒になってしまったということもあったのだけど、何よりも驚いたことに、彼の言っていることで間違ったことが、一つもなかったからだ。だからぼくは彼の言うことにただ同意して、頷くことしかできなかった。ぼくがビールを飲み終えると、マークは袋から新たにもう一本取り出して渡してくれた。袋の中には破線通り丁寧に破られている、紙パックに覆われたオリオンがあと三本入っていた。その話題が終わったあとも適当な話をしたりしなかったりしながら、ぼくたちは各々三本ずつビールを飲んで、三本ずつ煙草を吸って、一度ずつ小便をするために立ち上がった。
ビールを全て飲み尽くしてしまったあと、砂に両膝をついたマークが目前に散らばっている空き缶等のゴミをレジ袋へと詰めて片付け始めた。二人で出したものにとどまらず、誰が捨てたのかわからない古いゴミまでをもさりげなく袋に詰める。途端にひどく申し訳ないような気持ちになってしまったぼくは、節約して吸えばまだあと一、二回は飛ぶことのできるだろうさっき砂に突き刺したジョイントの吸いさしを、吸いかけで悪いけどこれも持っていきなよ、と言ってマークに向けて差し出した。マークは珍しく子供のように素直で嬉しそうな顔で両手を合わせると、前ではなくなぜか横に向かって顔を動かしながら、ありがとうごゼーます、ソれでは、遠慮なク、と言って受け取った。それからエコーの袋の中にそれを入れて立ち上がり、大事そうにシャツの胸ポケットに入れたあと、ジャ、『我々』はこれでオイトマするね、グバーイコオヘさん、と飄々と言って片手を上げながらこの場を去っていった。
ぼくも同じように片手を上げながらグバーイとは言ったものの、遠のいていくマークの背を見届けたりはしなかった。代わりに岩に寄りかかり、ぼんやりと海を眺める。ビールとマリファナが効いているせいだろうか、何もかもが馬鹿馬鹿しく気怠く、そして陽気に感じらた。のみならず、ひどく優しい気持ちにさえなっていた。どことなく敗北に似てはいるけれど、この上なく穏やかで優しい気持ちに。目の前に広がるとてつもなく巨大な爬虫類の皮膚のような海面下で泳いでいるはずの魚たちを半ば本気で愛し始めている自分に気が付いて、思わずへっと声に出して笑ってしまった。昨夜、アオブダイの刺身を食べたことを思い出したからだ──ふいに、ぼくはたった今まで隣りに座っていたマークのことを想った。顔つきがどことなくブダイっぽいからかもしれない。けれどマークは魚さえも口にしないヴィーガンだ。にもかかわらず、死刑制度を支持しているマーク。他人の出したゴミをも持ち帰るマーク。経験と行動こそが、何よりも大事なのだと信じ切っているように見えるマーク。常識的に、何一つ間違ったことを言わないマーク。ビールの紙パックを破線通り丁寧に破るマーク。やたらと格好を付けたがるマーク。でも時折太一ばりの無垢なる笑顔を見せるマーク。彼は自分の考えを疑ったことがあるのだろうか? 自分の考えて導き出したはずのオリジナルの答えが、本当は仕組まれたフェイクではないのかと疑ってみたことが? 例えばそう、
その後三束の原稿の中から最も分厚いそれを手に取って片膝の上に置くと、鉛筆を持ち、粉々に砕けた珊瑚の死骸で構成されている白い砂粒たちを手の甲で払いのけ、改めて冒頭から読み始めた。己の認識にミスがないかどうかを今一度確かめるためだ。でもふっと我に返ってみると、まるでタワーの屋上から景色を眺めてでもいるかのように、上空からただただぼんやりと自身を見下ろしているだけの自分に気付く。そのときまたどこからか鳥の啼き声が聞こえてきたけれど、もしかしたらそれは、遠い記憶の出来事なのかもしれなかった。
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