KHM.9


 ◇ ◆ ◇


 白雪姫と呼ばれた少女は、一つ歳月を経るごとにその美しさに磨きをかけていった。それは周囲の入念な世話の賜物であり、彼女自身の素質であった。


 一つ、二つと生まれながらに纏っていた薄皮を自ら剥いでいくように、愛らしい子どもから可憐な少女、そして芯のある端麗な乙女へと姿を変えていく。

 しかし、得るものがあれば、失うものがある。それがこの世の理であり、何人も抗いがたい残酷な刻の制約である。


 すなわち。


 娘が一つ、二つと歳を重ね、あらゆる美を堪能するなかで、母もまた一つ、二つと老いを迎え、その掌からぽろり、ぽろり、と美を取りこぼしていった。

 やがて、母の手には何も残らず、唯一の救いであった夫の愛でさえも、娘に奪われてしまった。

 長閑な昼下がりの庭は冷たく閑散たる部屋に変わり、絢爛たる装飾品は質素を極め、溌剌とした生気は消え失せ毒々しさすら滲ませた。


 残された部屋で独り、女は痩せこけた顔を鏡に突き合わせる。


「鏡よ、鏡。この世で一番美しいのは誰?」

 鏡の向こうで醜い顔の女が笑う。


「それは貴女わらわ貴女わらわに決まっているじゃない」


「あ、あの娘ではないのね——?」


「そうよ、そうよ。あの娘ではないわ。美しいのは貴女わらわ。この世で美しい女は、貴女わらわだけ」

 きいっ、と女は鏡を引っ掻いた。耳障りな音がするが、気にはならない。


「そ、そうよね。美しいのは妾だけ。妾だけなのね」何度も何度も、女は反芻した。「それなら——」


 鏡の向こうの女が、引き裂くような笑みを浮かべる。


「あのおんなを殺してしまっても——構わないわよね?」


 ◆ ◇ ◆


 時が凍結する。


 シンデレラを過ぎって鋭利な軌跡を描いたそれは、鈍い音を立てて床に倒れた。ナイフだ。さして刃渡があるものではない、ありきたりな小柄なナイフ。


「なっ……」


 思わず、シンデレラが腰を抜かして力無く倒れ込む。誰も、動けなかった。死んだ魚のように虚ろに横たわるナイフに、眼だけが集まる。


 顔を俯けたシンデレラの肩が震えていた。垂れる髪から覗かせる横顔が歪む。そうして——抑えの効かない怒涛は、彼女を突き破って顕現した。


「なんなんですのっ!!」


 時の呪縛を解いて轟きが空間を支配する。それは悲嘆であり、憤怒であり、恐怖であった。感情が拳を伴って、その矛先を床へと叩きつける。


「あそこに人が!」


 妹を庇うように胸に抱いたヘンゼルがシンデレラの遥か頭上を指差し、叫ぶ。広間に突出したそこは欄干になっていた。


 咄嗟にアリスは駆け出していた。

 恐怖も驚愕も全てを振り切って階段を目指す。


「人、ですって……? そんなもの、もう懲り懲りですわ!! もう十分!! 巫山戯るのも大概にしてくださいまし!!」

 背後で名宛人のいない激憤が火の粉を撒き散らす。たじろぐように灯火が揺れた。


 支柱に手を絡ませ勢いを殺さず方向を転換すると、アリスは一足飛びに階段を駆け上がった。疾風のようなチェシャが一瞬も遅れることなく後を追う。


 躊躇いがなかったわけではない。ただ、正体を知らなければならないと、強い衝動がアリスの中で暴れ回っていた。


 ただひたすらに——助けるために。


(助ける、ため——?)


 最上段に脚が着くなり、ぽつりと浮かんだ疑念は泡沫と消えた。


 影が戦ぐ。


 闇に紛れた獣はその隙間を縫って潜んでいた。

 身体を震わせ、怯えた瞳がアリスを窺う。

 闇の獣は哀しくも猛々しい色を帯びて口を開いた。


「——ないで」


 ぎろりと睨む血走った眼を持つ獣は、しかし、列記とした乙女の形をしていた。乱れた髪は黒檀。薄汚れた肌は、それでいて尚も白く透き通り、整った顔立ちはおよそ人の域を超越し、見る者の言葉を失わせる——けして見窄らしくはない筈なのに、彼女の纏う雰囲気が頑なに拒む。


 アリスが歩み寄ろうと挙動を起こせば、過剰なまでに縮こまり、闇の中から目を凝らす。手負いながらも必死に何かを守ろうとしている——そんな仕草にも見えた。


「貴女は——」


 思考の一端がアリスの口を吐いて溢れ出る。


「来ないで」

 唸りを上げ、大仰なまでに身体を強張らせる彼女を窺いながらも続ける。


「一体何を恐れているの……?」


「来ないで!!」


 刹那。ゆらり、と軸の定まらない身体を起こしては、冷え切った瞳が突き刺さった。彼女の双眸から怯えが消え失せ、その身に煮え滾る敵愾心が露わとなってアリスを圧倒する。思わずたじろげば、彼女が一歩躙り寄る。


「貴女も『あの人』の手先なんでしょ!!」


 発された声は深淵から谺するように、酷くおどろおどろしい。その声に身躯しんくが慄然とする感覚に襲われながらも、アリスは懸命に彼女との応答を試みた。


「あの人、って——?」

とぼけないで!!」


 彼女の感情を体現するように、蠟燭の灯火が大ぶりに揺らいだ。闇が彼女を囃し立てて笑い、彼女がぬめり、と這い出てくる。黒檀の髪から覗き見る双眸が射殺さんばかりにアリスを睨め付けた。


 遂にアリスは言葉を失った。彼女の怒りの奔流が床を這って、アリスの喉元をじわりじわりといたぶるように締め付ける——そんな感覚で総毛立つ。夥しい殺意という名の覇気に応じるようにチェシャが低く唸った。


 気圧されながらアリスが一歩後退すれば、じりじりと距離を詰めては躙り寄る。乱れの無い彼女の息づかいが——不意に止んだ。


 刹那。


 右足を踏み込んで、床を蹴り、一瞬で距離を詰めるーー飛びかかってきたのだ。跳躍の最中、伸ばされた両腕に、ハッと息を呑んだ。片足の踵が段鼻の存在を訴える——階下へ突き落とすつもりなのか。


 焦って硬直したアリスの眼前には両腕が迫る。落下の衝撃を覚悟してアリスは目を閉じた。そこへ——チェシャがしなやかに滑り込む。

 その身を盾にアリスを庇うと、流れるような動きで彼女の力をいなして、床へと流す。不意打ちに獣は勢い余って、為されるが儘に倒れ込んだ。


 階段から少し離れた場所——それがチェシャのせめてもの裁量だろうか。


 しかし、獣は諦めた様子もなく、きりりと鋭い眼差しを向ける。其の目に潜む闘志は消えることを知らない。


「……私に」

 ぼそりと彼女の口から言葉が漏れた。


 やおら低い姿勢で構えて、獲物を捉える。チェシャの存在すらその目に映さず、ただひたすらにアリスの姿を見据えていた。


「もう、私に構わないで——!」


 踏み込むなり、彼女は体当たりを試みる。

 自棄になった攻撃。チェシャの背に庇わながら、アリスも必死に回避する。

 間一髪で彼女の身体がチェシャの眼前を薙ぐ。


 そのとき——暗転。

 世界が闇に沈んだ。


「きゃっ」

「え」

「おいおい」

「な、なんでやんす!?」


 各所で声が上がる中。


 さながら一陣の風が吹き抜いたかの如く、音も無く、蠟燭の灯火は闇へと落ちたのだった。

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