Zwischenspiel.1

 世界は美しく綺麗なものだと信じて疑わなかった。


 燦々と照る太陽に、きらきらと光る水面。庭に咲く色とりどりの花。濁りのない宝石。飴玉キャンディーの詰まった硝子の小瓶。

 厳しいけれども優しい乳母に、柔和な母上。時折、部屋を訪れては朗らかな笑顔を向けてくれる父上。


 世界は脆くて残酷で醜いものだと信じることのないまま、生命いのちを紡いできた。


 そして。


 信じていたものが儚く瓦解していくこそ、何にも代え難い苦痛だとは夢にも思っていなかった。


 ◆ ◇ ◆


 激しい動悸と共に彼女は目を覚ました。


 拍動が内側から身体を押し叩く。絞り出すように漏れる息。

 かっ、と見開いた双眸に飛び込む深淵。

 

 その中に怪しげな光を認めて彼女は声を上げーー叶わず、噎せた。ごほ、ごほと吐き出すように咳を繰り返す。


(逃げないと)


 それは本能だった。


(早く、逃げないと……!)


 焦燥感だけが募る。呼吸の仕方を忘れたように闇雲に息を吸い込めば鼻の奥がつん、と痛んだ。


(早くしないとーー)


 ーー『コロサレル』


 涙が滲んだ。咳はなおも止まらない。

 

 苦しい。

 苦しい苦しい苦しい。


 身体の奥底から沸き立つ熱が彼女を叱咤する。


(立ち上がりなさい。そして、逃げるの……!)


 胸が苦しい。鼻が痛い。

 それでも彼女は身体を起こす。

 口元から唾がとめどなく溢れるが気にしてるいとまはない。

 咳はやがて、荒い息に変わった。


 力を振り絞って上体を起こす。だらり、と眼前に垂れた髪がうっとおしい。


 闇に紛れて力無く立ち上がる彼女はさながら獣だった。頭をもたげる。その射殺すような双眸であの光の在り処を睨めつけた。


 しかし。その意に反して、当の光は消えていた。


(い、ったの……?)


 否。最初からなかったのかもしれない。もしかしたら、何処かになりを潜めただけかもしれない。

 それでも、彼女の張り詰めた神経を緩めるには充分であった。

 足元から力が抜けてばたり、と崩れ落ちる。呆然と天を仰いだ。

 危機は、去ったのだ。『あの人』は闇の彼方へと消えていったのだ。


 彼女は控えめに一息吐いて、次は貪るように全身で息をした。

 頬を何かが伝う。

 拭ってみればそれは一筋の涙だった。


 ふふ、と彼女の口のから笑みが漏れた。すると、堰き止めていた水が流れ出すように次々と笑いが込み上げては、こぼれ出ていく。


 生き延びた。

 

 その事実が酷く煩わしく、それでいて喜びであった。


 ◇ ◆ ◇


 彼女の母はそれはそれは美しい人だった。

 絶世の美女と誰もが称し、その美しさのお零れに預かろうと母の身辺を世話する者は後を絶たなかった。

 羨望することもままならない至上の美。


 そして、その美しさは、一片の翳りも交えぬままに娘にも受け継がれた。


 くりり、と見つめる瞳は黒檀。母譲りの豊かな髪は柔らかに巻かれ、太陽の恵みを余すことない金色こんじきは世の人の目を奪う。

 そして、何より特筆すべきは、そのきめ細かく若々しい肌。雪の精とも見まごうその姿に、人々はいつしか彼女をこう称した。


 雪のように白い肌の美しい姫ーー白雪姫、と。


 ◆ ◇ ◆


 感情の波に流されるまま、一笑し終えると、彼女は自分の置かれた状況を把握した。


 およそ物置と称するのが相当な小さな部屋。背後には申し訳程度に設けられた窓があり、その前にはぼろ切れのような窓掛カーテンがだらりと垂れる。隙間からは細い光の糸が差し込んでいた。


 彼女が見たあの光は、その斑の一つであり、そのどれでも無かった。


 あれは『あの人』の光。

 止むことを知らない警鐘はいつでも彼女の奥底にあった。

 これは『あの人』の罠。『あの人』の策。いつでも警戒を怠ってはいけない。そこに、安息はない。


 彼女は唇を噛み締め、きつく目を閉じた。迷いを断ち切るように大きく息を吸って、吐き出す。

 そうして、彼女はやおらに立ち上がった。


 ここが『あの人』の狩場なら、早々に立ち去らなければ。

 屋内こそが最も危ういばしょであることを彼女は知っていた。


 窓の外を見る。昏闇に沈んだ森があった。夜天には妖しく笑む月。鮮やかで不気味で、醜悪な微笑。それが彼女の脳裏に『あの人』の姿を過ぎらせ、知らず握る両手に力が籠った。それはすぐに緩んだが、柔肌にはくっきりと爪の跡が刻まれた。


 眼下の森までは高さがある。窓を叩き割って、と考えたが無理があると分かり、断念した。この高さから飛び降りて無傷でいられるとは到底思えない。むしろ、『あの人』はそれを歓迎するだろう。


(思い通りになんか、ならないわよ。絶対に)


 彼女は窓に背を向けると、僅かな明かりを頼りに部屋を見渡した。

 小さな部屋に収納できるものは限りがある。そしてその通り、物置には剥き出しの戸棚が二つあるのみ。その上には小物がぞんざいに積まれ、そこから崩れ落ちたのだろうか、床におざなりに転がっている物もある。


 彼女は目星をつけて戸棚の塊を漁る。

 闇雲に逃げ道を探しだすのは早計。『あの人』はどこまでも執拗で狡猾な人。何を仕掛けてくるか想像もつかない。ならば、身を守れる程度の武器は手にしておきたかった。


 そうして埃っぽい小部屋を引っかき回した末に選んだのは、抜き身の短剣。諸刃だが、いずれも酷く刃こぼれしていて到底、用を為し得ないだろう。


 だがーー。


 彼女は軽く短剣を振り回した。

 確かな重みが勢いに乗って、宙を薙ぐ。ぶん、と鈍い音がした。


 鈍器としては充分だ。その外観は牽制にだって使えるはず。


 彼女は満足げに頷くと、床に散乱したガラクタを跨いで、扉に張り付いた。空いた左手でそっと取っ手ドアノブを回す。


 周囲に誰もいないことを確認すると、彼女は闇にその身を投じるように、扉の外へと足を踏み出した。

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