シュレディンガーの猫たち

黎(レイ)

第一章

KHM.1


「——きて」


 しきりに身体をゆすられる。



「……ア……きて」

 誰かが呼んでいる。どこかで聞いたような懐かしい声。


「アリス」

 アリス——それは誰? 誰だろう。誰。誰……。



「アリス——起きて」

 あぁ、そうだ。

 アリスは私。私の、名前。


 認識した途端、感覚が明瞭になる。すっ、と呼び戻されるような浮遊感。深く息を吸えば、誰かが揺するのをやめた。ふうっ、と長く息を吐く。そうしてアリスは重い目蓋をゆるゆると開いた。

 薄闇。辛うじて物が認識できる程度の仄暗い闇。

 その中に溶け込むように何かがあった。


「アリス、起きた?」


 冴えない思考の中でぼんやりとしていると、そう問われた。まだ視界がぼやけている。二、三度、目蓋を開いたり閉じたりすれば、ようやくそれが人の顔だと分かった。

 薄闇の中でも分かる明瞭な顔立ち。じいっ、と食い入るようにアリスを見つめる二つの瞳。そして——その頭には細やかに動く耳があった。

 ぱちり、と目が合うと嬉しそうに「アリス」と名前を呼ばれ、頬を優しく撫でられる。顔の輪郭を辿る温もりに懐かしさを覚えた。


(私はこの手を……知っているの……?)


 でも、誰だろう。思い出せない——。


「貴方は……?」

 気が付けば声に漏れていた。掠れて微かな声だけど、耳に届いたらしい。その人は少し悲しそうな顔をして問いに答えてくれた。


「チェシャ。チェシャはチェシャだよ。アリス」


 チェシャ。

 まるで昔から知っていたかのように、その名はすんなりと私の中に溶けていった。

(……チェシャ)

 心の中で反芻する。心地良い響きだった。

 我知らず、チェシャへと手を伸ばす。意を組んだチェシャがそっと頭を下げてくれた。指先に触れる柔らかな髪。ゆっくりと指で梳かせば、するすると流れていって触り心地がいい。そして、その頭頂部にはやはり耳があった。触れれば仄かに温かい。飾りではないようだ。それでも何故だか、不思議には思わなかった。


「チェシャ」

 名を呼べば、チェシャは嬉しそうに鼻を鳴らして為すがままにされていた。

 一頻り満足して、腕を下ろす。そうすれば、再びチェシャと目が合った。未だ虚ろな思考で、その肩越しに薄闇へと視線をやる。


 そういえば——ここは何処だろう。


「チェシャ……」

「アリス? どうしたの?」

「ここは——」

 そこで言葉が途切れた。


「一体ここはどこですの!?」

 否。アリスのか細い声は、何処かから発された声に掻き消されてしまった。


 驚いて身体がこわばる。チェシャが険しい顔をして声の方を向いた。アリスもつられて視界をやるが、昏くて見えない。何より仰向けのままでは限界があった。

 一息吸って、お腹に力を入れる。それだけじゃ足りなくて咄嗟に肘をついて身体を支えた。

 起き上がろうとするアリスに気付いたチェシャが、すかさず背中に手を回す。もう一方の腕で、抱き竦めるように引っ張りあげてくれる。


「……ありがとう」

 何故だか身体が重い。

 再度チェシャの肩を借りて、やっとの思いで立ち上がった。


「なぜわたくしがこんな目に合わなければならないのです!」

 先程の声の主は、未だに声を張り上げている。とても高い声——若い娘の声だ。どうやら自分とチェシャ以外にもこの空間には人がいたようだ。

 立ち上がったことと、薄闇に慣れてきたことが重なって周りが少しずつ見えてくる。よくよく見渡せば広間のような場所にアリスたちはいた。

 声は少し離れたあたりから聞こえていた。


「どうなっていますのよ!」

「シンデレラ、落ち着いて!」

「大丈夫! すぐ帰れるよ!」


 シンデレラと呼ばれた娘の他にも、二人の男女の声がする。

 娘は酷く興奮しているようで、尚も声を張り上げている。どうしたらいいのか分かりかねて、ふとチェシャへと視線を向ければ、警戒したように其方を睨んでいた。

 打って変わって刺々しい雰囲気を纏うチェシャに、アリスは怯んでその背へと身を隠した。あまり関わらない方がいいのかもしれない。


 しかし。その僅かな気配に感づいたのか、鋭い声が飛んでくる。

「そこにいるのは誰ですの!?」

 向こうに認めた影がクルッと此方を向いた。その咎めるような声音に、思わず恐縮して声が出なかった。


「聞いていますの?」

 いつまで経っても返事をしないアリスにしびれを切らしたのか、怒気を孕んだ声でズンズンと近づいてくる。

「シンデレラ、ちょっと待って……!」

 カツカツ、と靴音が響く。慌てたように後を追う二つの靴音。


 三つの影が近づいてくる。


 次第に明瞭になる輪郭。先頭を行くのは豪奢なドレスに身を纏った女の子。豊かな髪は左右に結われ、くるりとカールして、彼女の顔立ちを際立たせていた。


「貴女は——」

 咄嗟に出たのは誰何すいかの言葉。

 シンデレラと思しき娘はあからさまに眉を吊り上げた。


「人の名を聞く前に名乗るのが礼儀でしてよ? まったく……わたくしの質問に返事をしないで名を問うなんて不躾すぎますわ!」

 大仰に彼女は溜息をついた。刺々しい語気。どうやら気の強い性格らしい。

「私は、アリス」

「……」

 無言のチェシャに彼女が視線をやる。彼にも名乗れと催促しているようだ。それでもチェシャは無言を貫いた。彼女の眉尻が曲がる様がありありと浮かんで、慌てて助太刀する。


「えっと……、こっちはチェシャ」

「ふんっ。……アリスとチェシャね」

 彼女が反芻する。アリスは首肯を一つ返した。

 不機嫌なことに変わりはないが名乗ったことで少しは緩和されたようだ。


わたくしはシンデレラ。そしてこっちの二人が——」

 シンデレラは背後を向いた。そういえば彼女の他に二人ほど声がしていたのを失念していた。彼女の言葉に合わせて、ひょこっと男女二人が進み出てくる。アリスやシンデレラよりもう一回り幼い印象だ。


「私、グレーテル!」

 まず向かって左の少女が名乗る。アリスを見て、にっこりと笑顔を向けた。

 そして、反対側の少年が続く。

「僕がヘンゼル」

 顔立ちがどことなく似ていると思ったら、シンデレラから「双子ですわ」と告げられた。言われてみれば、顔立ちだけでなく纏った装束からもそうと伺えた。グレーテルが妹で、ヘンゼルが兄といったところだろう。


 それぞれ名乗り終わると、満足したのか、シンデレラが「ところで」と話を切り出す。


「ここが何処かご存知でして?」


 また怒られては仕方が無いので私は頭を横にふるふると振って否定した。


「さっき目を覚ましたばかりで……」

「……そう」

 シンデレラがぐるり、と辺りを見回す。


「何処かの屋敷かと思ったけど。違うのかしら……」


 ぽつり、とこぼされた呟き。その言葉でようやく納得した。

 屋敷——それも大貴族の屋敷と言われれば、確かにそう思える。

 アリスたちがいるのはちょど広間の中央。斜め上を見上げれば突き出した中二階メザニンが目に入る。


 でも——。


 どうやってここへ来たのだろう。この景色に見覚えはない。ましてや、チェシャやシンデレラ、双子にも心当たりはない。

 必死に記憶を探っても、目覚める前の記憶はない。思い出せそうになっても、霧を掴むように散ってしまう。


「チェシャは何か覚えている?」

 すぐに首を振られた。

「チェシャが分かるの、アリスのことだけ。アリス、寝てた。だから起こした。それだけ」

 要するに手詰まりだ。


 シンデレラも「全くどうなっていますの」と口走りながら、行ったり来たりを繰り返す。それをヘンゼルが宥めているという様子だった。

 八方塞がりな思考に思わず天を仰げば、そこにシャンデリアと思しきものが吊り下がっているのが見えた。暗闇の中でなお仰々しく鎮座し、存在感を放っている。


 矯めつ眇めつ、その全貌をとらえようと試みていれば、


「え——?」



 そのうちの一つに、何の前触れもなしに火が灯った。

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