第89話

 道々、時太郎は信太屋敷の場所を尋ね歩き、ようやく屋敷跡に辿り着いたのは、夕方近くになってからだった。

「これが、そうか……」

 それきり、言葉を失った。

 まさに屋敷は廃墟そのものだった。

 正門の屋根には苔が生え、雑草が生い茂っている。屋敷を取り囲む塀にはあちこち崩れが見え、門の扉は外れて内側に倒れこんでいる。

 屋敷の中に入り込むと、荒れようはさらに酷い。

 胸まで達するほどの雑草が生い茂り、庭園の木々は鬱蒼として日差しを遮っている。

 時太郎は、屋敷の縁側に腰を下ろした。隣にお花と翔一も座る。

 時太郎は黙り込んでいる。

 お花は焦れて声を掛けた。

「ねえ、これからどうする?」

「判らない」

 時太郎は首を振った。

 ともかく母の住んでいたという屋敷に辿り着いたはいいが、これからどうするなど、考えたこともなかった。

 ふと思いつき、懐から父親の三郎太から渡された櫛を取り出す。

 漆塗りに螺鈿が施された、いかにも女物らしい櫛である。

「それ、あんたのお母さんの櫛ね」

「うん」

 頷いた時太郎は櫛を弄び、その中の一本を何の気になし指先で弾いた。


 ぽおーん……


「わっ!」

 驚いた時太郎は思わず櫛を取り落としていた。

「どうしたの?」

 お花が時太郎の取り落とした櫛を拾って話しかける。時太郎は呆然とお花の手にした櫛を見つめていた。

「いま、音がした……」

「うん。ぴん、と弾いた音がしたね。それがどうしたの?」

「そんなんじゃない! もっと大きくて、深い音がしたんだ」

 お花は首を傾げる。手にとった櫛の歯を触り、弾いた。


 ぴいいいいんっ!


「わあっ!」

 時太郎は耳を押さえた。

 今度の音は、さらに大きく、高い音だった。

 お花と翔一は目を丸くしている。それを見て時太郎は思い当たった。

 二人には聞こえないんだ。これは、おれにしか聞こえない音なんだ!

「ちょっと拝見……」

 なぜか翔一が興味津々にお花の手にしている櫛を覗き込む。眼鏡をずり上げ、まじまじと表面の螺鈿に目をやった。

「ははあ……」

 一人うんうんと納得顔で頷いた。

「なにが〝ははあ〟なんだい?」

 時太郎の問いかけに、翔一は櫛を受け取ると模様を日に翳した。

「この模様、我々のいる太陽系を表しております。ほれ、苦楽魔くらまの天儀台でご覧になったあの太陽儀で御座いますよ」

「へえ……?」

 説明されても、時太郎にはピンとこない。翔一は説明を続けた。

「この大きな丸は。太陽。で、その周りを取り囲んでいるのが、惑星で御座います。距離と大きさから、そう判断できるのです。古い理論に、星は固有の音を発しているという説が御座いました。この並びと、櫛の音が対応しているのなら、これは楽譜で御座いましょう。この音階の通りに櫛の歯を弾けば、さて、どうなるか……」

 ごくりと時太郎は唾を飲み込んだ。何か、大きな謎が解かれる、そんな予感に胸が苦しくなる。

「やって見てくれよ」

 時太郎は翔一を見た。翔一は大きく頷いた。

「では、演じまする……」

 芝居がかった調子で宣言すると、櫛の歯を慎重に弾いていく。


 ぽん──

 ぴん!

 ぱあぁ──ん……!


 暫く三人は顔を寄せ、固まっていた。

「なにも起きないわ」

 ふうっ、と息を吐いてお花が詰まらなそうに口を開いた。時太郎も肩の力を抜いた。

 翔一は首を捻った。

 その時──

「お呼びで御座いますか?」

 囁き声に時太郎は「えっ」と顔を上げる。

 お花と翔一は、ぽかんとしてる。

「何か言った?」

 お花が時太郎に訊ねた。

「さっき、誰かが……」

「わたくしで御座いますよ! お呼びになられたので、参上いたしました」

 声の方向を振り向くと、そこに一匹の狐が姿を見せていた。

 が、その狐は普通と違っている。耳の形が変だ。ピンと立った狐の耳ではなく、妙に人間そっくりな耳をしている。

 ぴくぴくと髭を動かし、狐は口を動かした。

「わたくし管狐くだきつねで御座います。その櫛がわたくしを呼び出す音階を鳴らしたので、参上いたしました!」

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