第6話 五之章
「じっとりじとじとして、やだなぁ」
紫道の足下から、藍璃のふてくされた声が聞こえてくる。
「仕方ないだろ。止まってると頭踏んづけるぞ」
「むぅ」
紫道達四人は、音もない真っ暗な世界を、地道に降りている真っ最中。先頭は本人たっての希望で千歳。月白、藍璃と続いて、殿が紫道である。
古井戸の底をチラリと見れば、ぼんやりとした黄色の点が見える。降りる前に落下させた松明が、古井戸の底を照らしているのだ。
ハシゴを伝い、何事もなく古井戸の底へ降りると、最後に降りた紫道が左手で松明を取り上げ、全員の姿を確認する。
水が張っているかと思い、薬剤を染み込ませた耐水松明を用いたが、底は湿っている程度……なのだが。
松明の炎が揺れている。
「普通の井戸には横道なんてないわな」
紫道が、揺れる松明の先端を壁際へ向けて照らしたのは、土の壁ではなく先の見えない、長方形の横穴。横幅はそこそこあるが、天井は体の小さな藍璃でも、頭が着きそうなほどのものでしかない。
「頭をぶつけるようにしなければ、何とかなるだろ……大丈夫か?」
顔を向けて、紫道が促した相手は月白。背の高い美丈夫な彼では正直きつそうな横穴だ。
「屈むことは苦にしません、大丈夫でしょう……だた、これは外した方がよさそうですが」
そう言いつつ、月白は丁寧な仕草で烏帽子を取る。確かに烏帽子は邪魔だろう。
「さて、今度は降りた順番とは逆で、松明を持った俺が先に進むとするが、異存はあるかい?」
今度は三人を見渡して促す紫道だが、問われて三人は首を軽く横へ振る。紫道は首を軽く縦に振ると、松明を斜め下気味にかざしながら、横穴へと入ってゆく。
「……水がぼたぼた垂れてくるんだけど」
藍璃が上げた声は、不機嫌もたけなわといったところ。
いざ横穴を進んでしばらくすると、上からは冷たい水滴がポツリポツリと降ってくる。紫道は少し右手で横の土壁を触ってみたが、薄い泥の膜が覆っているような感触。足下はやや湿った足音を立てている。
「井戸の底を満たすほどではないのでしょうが、まだ水脈がわずかに生きているのでしょう。風剣雅天幻も、きっとここを通ったのですね」
落ち着いた声は千歳のもの。紫道以外は、水滴によって着物がだいぶ濡れてきている。ひとりだけ、兵から追捕使用の甲冑を借りて装着してきた紫道も、甲冑部品の保護がない腿や腕の部分はやはり濡れ始めていた。
幾つか横に曲がりつつ半刻ほど進むと、一本道となりぼんやりと橙色の光が見えてきた。誰かの、喉が鳴る音が後ろで聞こえたと思ったが、それが自身のものであることにさえ紫道は気づかない。
かがり火という偽りの太陽に照らされた部屋は、特大の寺院の中かと思わせるほどに、天井が高く、そして広かった。
『紅飛鳥……』
同時に声を上げたのは千歳と月白。
部屋の中央にぼんやりと浮かび上がっているのは、人の背の五倍近くはあろうかという、巨大な紅き鳳凰の像。
紫道も同じ姿の図柄は見たことがあった。そして、その図柄の鳳凰こそが、都を天に浮かせる力を持つ式神・紅飛鳥であることも、藤香に教えてもらったことがある。
その紅飛鳥が今、目の前にある。
紅飛鳥の前には、空五倍子色の狩衣をまとい、左手に黒い鬼面、右手に四尺ほどの長さの杖を持った、ひとりの人間。
「見つけたよ……!」
藍璃の敵意むき出しの声に、空五倍子色の狩衣姿はゆっくりと振り返る。
長く艶やかな髪、観音像のような美貌。男装ともいうべき狩衣姿には、奇妙な違和感を感じるほど美しい女性がそこにいた。
「蘇芳山美音……なのか?」
信じがたいような声で問いかける紫道。
「百年以上の前の人物が、このような姿のはずがない……そう言いたいのだな?」
美しくも透き通った声には、何の感情もこもっていないように聞こえた。
「左様。美音様は既に鬼籍に入られ、眠っておられる。
私は、美音様の姿形と記憶を植え付けられた式神に過ぎない。
しかし、姿も記憶も生き写しなら、美音様の名を騙るのも許されよう。現に、私に名を与えたもう前に、美音様は息絶えてしまわれた」
蘇芳山美音を名乗る式神は、一歩前に踏み出して言葉を続ける。それだけでも、紫道は無言の圧力を感じる。同じ蘇芳山家の高位式神なのであろうが、天幻とはケタが違う。強い。
「理由を聞こう。紅飛鳥を生み出した蘇芳山美音様が、紅飛鳥を滅ぼさんとする理由を」
月白は、少し身構えながら誰何する。
「理由……? そう、そうね。都に住まうこいつらの祖先は、そんなことはお構いなしのはずよね」
紅飛鳥の前にある八足祭壇に並べられた、四つの長頸瓶に一瞥をくれながら発せられる冷酷な声には、憎悪と怒りがにじみ出ていた。
「見なさい! この……」
何かが堪えきれなくなったのか、蘇芳山美音を名乗る式神は一瞬押し默り俯くと、キッと顔を上げて叫ぶ。
「この、蘇芳山飛鳥の、私が此の世で命も運命も捧げた夫の、哀れな姿を!」
蘇芳山美音を名乗る式神の瞳には、大粒の涙が溢れていた。
「……朱華の水が、次々と大地を飲み込んでいたある日のこと、都に五人の式神使いが呼ばれたわ」
何かを抑えているような表情は、爆発しそうな感情であろうか。
「楊梅院、紫苑寺、桔梗林、璃寛原、そして蘇芳山……他の四家は都に元々住み、帝に仕える者だったけど、私達はもとから都に住んでいたわけではなかった。
私達が住んでいた天鳥寺は、とっくに朱華の水の中へと没し、私達夫婦は姉の夫婦とともに、都へ逃れてきたに過ぎなかった」
四人は押し默って聞いている。恐らく、その姉夫婦とやらが今の蘇芳山家の源流なのだろう。千歳は蘇芳山家が都の外から来たことに、少し驚いた表情を見せる。知らなかったらしい。
「少し不自由だったし、子宝にも恵まれなかったけど、幸せだったわ。
しかし、私達が朱華の水から逃れた方法、つまり空を飛べる式神を創生する技……つまり、火の凶将である朱雀の化身を、人型ではなく鳳凰型として、飛翔に全ての力を注ぐ式神を生み出す技を、帝は欲したのよ。
しかし、火を司るべき楊梅院の式神使いにはそれができなかった。だから私達も呼ばれてしまった」
蘇芳山美音を名乗る式神から、ふつふつと殺気が沸きつつあるのは気のせいだろうか。紫道の肌にチリチリとした感覚が走る。
「いかに飛翔の力を持つとはいえ、人を乗せて飛翔するのがせいぜいよ。いかなる玉や石をもってしても、都とその周囲を丸々浮かせるなんて、そんな式神を生み出せるはずはないのに」
「禁忌の法……硬玉でもなく石でもないものから、式神を……まさか」
ある知識に思い至ったのか、月白の顔は、名前通り満月のように白く血の気が引いている。
「……ええ、そうよ。霊力を帯びた玉や石よりも強力な式神を生み出すには、無機質な石よりもはるかに強い、霊力を帯びた有機質でもって式神を生み出す。そしてその有機質は、動かなくても構わない。石のごとき状態でいい」
ここまで言われて、紫道も意味を理解し始め、身も毛もよだつ感覚になり始めた。千歳に至っては、ウッと呻いて屈み込みんでいる。
紫道は上を見上げ、朱雀の化身こと紅飛鳥を見る。そういえば、知らなかったような気がする。なぜこの式神が紅飛鳥という名前なのかを。
「式神使い達はよってたかって、私の夫を家畜のように殺し、その骨をもって式神を生む核とし、私は、散々な辱めを受けた挙げ句にこの古井戸へ閉じこめられた」
蘇芳山美音を名乗る式神は、再び下を俯いた。声は、既に泣いている。
「何で……! こんな……!」
ひとしきり泣いたかと思うと、ゆっくりと顔を上げ、右手の杖を構え、左手に持つ黒い鬼面を顔につけ始める。
「式神使いの連中も、都の連中も、帝も、己のみ助からんとする欲望のために……飛鳥様と美音様の無念、今晴らしてくれよう!
美音様が死の間際に生み出した、この十二天将の主将、天乙貴人の化身・蘇芳山美音が、このような薄汚い都、さっさと朱華の水の中へ叩き落としてくれる!」
殺気が膨れあがり、部屋を満たしてゆく。蘇芳山美音を名乗る式神、否、蘇芳山美音から黒い何かが立ち上っているのが、全員の目に見えていた。
「蘇芳山夫妻のことには同情するがな」
紫道は、太刀を抜いて青眼に構える。
「それに、俺も、一族も、藍璃も、千歳殿も月白も、長官も、帝も、藤香も……今都に住む皆が、蘇芳山夫妻に助けてもらったような命。ここで都を落としたら、それこそ蘇芳山飛鳥殿は犬死にだ。恩人の命を無駄にしてなるものか」
藍璃も、短刀を抜いて・持国刃の御札を何枚も刃に突き通す。
「どんな理由があったって、私は藤香様と……紫道様を酷い目に遭わせた奴は許さないんだからね!」
「同感です」
千歳も、目を腫れぼったくしながらも、御札を構える。
「ご先祖様のお悲しみは、察するにあまりありますが、だからといって罪も無き人々を滅ぼすことが正道とは思えません」
「藤香を返してもらうぜ。さもないと、あいつと添い遂げる俺の人生の予定が狂うからな」
しかし、蘇芳山美音はククク、と低く笑うのみ。
「人の愛の屍を踏みしめて育む愛に何の美しさがあろう……冥土で添い遂げるがよいわ!」
「黙れ!」
叫びつつ、紫道は青眼から右蜻蛉へと構え直して蘇芳山美音に斬りかかる。
一瞬で間合いを詰め、大地をも切り裂かんとする一撃を放つが、太刀が蘇芳山美音の体を捕らえると思った刹那、その姿が霞のように消え失せる。
「ほほ、明後日を向いているわよ」
余裕に満ちた死神の声は、紫道の背中から聞こえた。
「……この!」
紫道は膝を落としつつ、体を振り向かせて太刀を横薙ぎに食らわそうとするが、そこには誰の姿もない。
戸惑い、わずかに動きが居着いた紫道の背中に、強烈な蹴りが叩き込まれた!
「ぐあっ!」
前傾姿勢のまま二間ほど吹っ飛ばされる紫道。何とか受け身を取り立って青眼に構え直すが、背中はズキズキと痛む。単なる蹴りでこの衝撃なら、甲冑など全く役に立ちそうもない。
「人間の言う超神速の剣技など、遅すぎてあくびが止まらぬわ」
蘇芳山美音の余裕に満ちた声が、空洞内にこだまする。
一瞬の攻防に、他の三人は割り込む余地もなかった。
「だめだ、紫道様。やっぱりあいつの動きが捕らえきらない。まるで霞のように消えているみたい」
紫道の前に立ち、短刀を油断なく構える藍璃。符術・持国刃の用意はできているが、動きが捕らえきらない以上、うかつには放てない。
「なら、このようにするまでです」
千歳と月白は、二人同時に御札を宙に放り投げ、それを炎の塊とする。
二人同時で放った二十発近い符術・毘沙門炎は、蘇芳山美音の全方位から隙なく襲いかかる!
しかし、普通なら回避不可能なはずのその攻撃を、炎の弾のわずかな隙間を縫ったのか、瞬きする間もなくすり抜ける。
虚しく広がる炎の華を背に、蘇芳山美音は千歳と月白との間合いを瞬時に詰める。
ぎぃん!
「千歳様には触れさせませぬ」
千歳の前に身を乗り出した月白は、短刀を即座に抜き、蘇芳山美音の杖の一撃を辛うじて受け止める。その間に千歳は蘇芳山美音の間合いの外へ。
「もらった」
「!」
蘇芳山美音は、己が今吐こうとした台詞を背中から受ける。紫道は蘇芳山美音の後ろに回り、背中を袈裟切りに斬りかかった。
「甘いわ」
紫道の斬撃はまたしても虚空を薙ぐ。瞬時に左真横へと身を動かした蘇芳山美音は、お返しとばかりに紫道の頭上から、鉄の金剛杖を振り下ろす。
鍛鉄と鋼鉄の噛み合う音が空気を震わせる。
両手で太刀を構えて杖を受け止めた紫道だったが、圧力に耐えかねてそのまま片膝をつく。猛烈な力で押さえ込まれ、虫ピンで留められた虫のように、紫道は身動きが取れない。
「紫道様!」
声とともに、蘇芳山美音の右手に回った藍璃が・持国刃を解き放つ。
「ちっ」
三枚の不可視の刃の気配を感じ取り、蘇芳山美音は即座に後方転回して持国刃をかわす。
「これを使って!」
藍璃は、手に持った短刀を紫道の方へと放り投げて、蘇芳山美音から距離を取る。紫道は左手で短刀をうまく受け取る。
蘇芳山美音へと向き直ると、再び間合いを詰めて杖を振り下ろさんとするところ。受け止めてはさっきの二の舞だが、今度は二刀。紫道はしゃがんだ姿勢のまま、左手の短刀で杖を何とか受け流し、右手の太刀を蘇芳山美音の水月を狙って突き出す。
「無駄なこと」
半身になって太刀をかわした蘇芳山美音は、杖を変幻自在に繰り出して紫道に迫る。幾重もの金属が噛み合う音。
「うっ……」
伸びては縮み、あらゆる場所を狙い繰り出される、目にも映らぬ光速の杖術の前に、紫道は防戦一方となる。大小の刀を使う二刀流も免許皆伝の腕前で自信はあるのだが、かろうじて凌ぐのに手一杯で、なかなか攻勢に移れない。二刀をもってしてもこれだけの差がある……天幻の、人間の編み出した剣技ではその程度、という言葉が脳裏をよぎった。
がすっ!
そして杖の先端が、紫道の水月を捕らえた。
「がふっ!」
杖の先端は甲冑に易々と丸い穴を開け、紫道の体をしたたかに突く。
吐血して仰向けに崩れ落ちる紫道。
「死ぬがよい」
死神の杖が、頭上に迫る。防御態勢を取ろうにも、意識が白濁し体が思うように動かない。
……ダメか!
目を瞑る紫道。しかし、杖の衝撃は伝わってこない。
恐る恐る目を開けると、目の前には豊かな黒髪が広がっていた。
「うっ……よかった……間に合いました」
紫道の横から覆い被さるような体勢。左腕を地面につき体を支え、振り上げた右手に持った増長刃の御札で、杖を受け止めているのは、千歳であった。
間一髪の所で間に合ったものの、全身は既に震えており、いつ崩れ落ちるか判らない状態。
「おのれ、千歳様と紫道殿から離れろ」
しかし、月白にはそのわずかな時間で十分だった。藍璃とともに、毘沙門炎や持国刃を乱れ打ちにして、蘇芳山美音を二人から引きはがそうとする。
蘇芳山美音は、紅飛鳥の近くへと大きく飛翔。符術は二人の頭上を通り過ぎた。
「千歳殿……助かりました。大丈夫ですか?」
「ええ……私は平気。紫道様こそ大丈夫なのですか?」
「何とか」
千歳は、紫道の体を起こすのを手伝う。紫道はどうにか立ち上がると、太刀と短刀を拾い上げる。月白と藍璃も二人のもとへ駆け寄る。
「次に勝負を賭けたいが……」
紫道は再び二刀を構え、他の三人は符術を交互に、あるいは同時に繰り出して、蘇芳山美音を牽制する。
何とか間合いを詰められることだけは免れているが、しかし御札が切れるのも時間の問題。攻め手を見つけないとジリ貧なことには変わりがない。
「千歳様、月白さん。
さっきみたいに、符術・毘沙門炎をたくさん打って奴の動きを絞れますか?」
焦りながら紫道が攻め手を思案していたところ、藍璃が千歳と月白に問いかける。何か策があるらしい。
「ええ、できると思います。ですが、どうするのです?」
千歳が答えている間は、月白が牽制を続けている。
「……私が攻撃を一瞬だけ封じる。その一瞬で紫道様が決着をつけてくれるはず」
紫道へと振り向く藍璃。その瞳の光は意を決したように強かった。なぜか、彼女の言わんとすることが分かったような気がした。
「よし、それに賭けよう……頼むぞ藍璃」
短刀を藍璃に返し、紫道は鞘を腰から抜き左手に持ち、太刀を収める。千歳と月白に軽く耳打ち。頷く二人。
「いきますよ!」
掛け声と共に、千歳と月白は二十枚近い御札を空中に放ると、一斉に炎の塊を生み出して蘇芳山美音へと解き放つ。
「二度も同じ手が通ずるものか」
蘇芳山美音は失笑すると、全周囲を覆う炎の雨のうち、わずかに開いた一角へと軽く前に出てそれを逃れる。そこを狙って千歳が放った一発の毘沙門炎も、杖でもって打ち払う。
「かかったね」
声は、打ち払った炎の華のすぐ向こう側。
毘沙門炎の陰に隠れて接近した藍璃は、短刀も抜かずに丸腰のまま。
「愚かな」
「後でもその言葉を言えるかしら?」
蘇芳山美音の余裕の声に、藍璃も引きつりながら返す。
「死ぬがいい」
右手の杖を左肩の上まで振り上げ、蘇芳山美音は腰をわずかに落としつつ、藍璃をしたたかに打ち据える。
ぼぐごきっ!
肉が波打ち、骨が砕け散るような嫌な異音が鳴る。
「ぐううっ」
体の臓器と骨を砕かれながらも、藍璃は両手で自らの体にめり込んでいる杖を、両手で抱えるように強く握りしめる!
「……ぬっ!」
予想もしていなかったのか、杖の動きを戒められた蘇芳山美音は一瞬動きが凍り付く。真っ青な顔で杖を離さない藍璃のすぐ後ろ、今度は太刀を三分の二ほど鞘から抜いた紫道が、蘇芳山美音に迫る。
「今だ、頼む!」
紫道の叫びに、千歳と月白は少しお互いの距離を離し、それぞれ短刀を抜き、御札を一枚刺して大きく振るう。
同時に繰り出された持国刃は、それぞれ斜めに紫道の背中へと迫り、そのすぐ後ろでちょうどV字の頂点のようにぶつかり相殺され、烈風を巻き起こす。
烈風が起きた瞬間に軽く飛び上がり、乗り勢いを増した紫道は、蘇芳山美音の左手側に回る。蘇芳山美音は、杖を封じられ予想外の速度で迫る紫道に反応できない。
そして、抜きかけの太刀の刃の根本が、ついに蘇芳山美音の脇腹を捕らえた。
「土へと還れ、蘇芳山美音!」
叫びとともに、紫道は全身のバネを使って体を捻り、抜きかけの刃を力いっぱい抜き放つ。
「なんと……」
驚愕の声を上げる蘇芳山美音。太刀は根本から切っ先までその体を捕らえ、脇腹を切り裂き背骨をも断ち切った!
どっ!
勢い余って前のめりに地面に叩きつけられる紫道。
「がはっ……!」
赤黒い塊を盛大に吐く蘇芳山美音。
鉄の金剛杖が、ゴロンと重々しい音を立て、赤黒く染まりつつある地面へと転がった。
「ぐっ……都の者どもは……」
膝から崩れ落ちながらも、蘇芳山美音は両腕で身体を辛うじて支える。
「飛鳥様と……美音様に行った……むごい仕打ちを……腫れ物のように……忘れ去る……卑劣……己等の犯した罪に背を向けるは……あまりに卑怯……」
途切れ途切れに、そして口惜しそうに、血とともに言葉を漏らす。
「人間とは、多くの過ち、誤り、罪を繰り返して生きるものです。
しかし、その全てを抱え込んで生きられるほど、人間は強くありません……それほど、出来のいい生き物ではないはずです」
歩み寄りながら、千歳は蘇芳山美音の怨嗟の声に応える。
「物心ついてから死ぬまで、全てのしでかした過ちや罪を自覚して背負い一生を生きるなど、常人の精神力では到底持たない。できっこないだろうよ……
そして、一生のうちに過ちや罪を犯さない人間などいない。自覚して背負って生きろなど、誰にだって言う資格はないぜ……お前はどうなんだ、真っ新な人間か、ってことになるからな」
何とか、太刀を杖のようにして起きあがりながら、紫道は続ける。
「こうやって生きてる以上、誰もが己の人生を幸福のうちに全うしたいと思うもの。
その幸福に生きられる者をも、己の恩讐に引きずり込み潰さんとすることも、また卑劣だと思うぜ」
「人の世には、人の数だけそれぞれが信ずる正道があり、数多の正道と正道とのぶつかり合いによって、人の世は成り立つ……
そして、活人の心を見失った正道を、人は邪道と呼びます」
達観したような最後の言葉は、月白が呟いたもの。
「我が正道……お主達の正道に……敗れたということ……か」
蘇芳山美音はピクン、と上半身を痙攣させ、一瞬硬直したと思うと、大地を抱くように倒れ伏した。
紫道は、大地に伏した蘇芳山美音には目もくれず、仰向けに倒れ伏したもうひとりの式神、藍璃のもとへと駆け寄る。
「おい、藍璃! しっかりしろ!」
右肩から頭を抱え起こそうとするが、藍璃は痙攣を繰り返すのみ。口からは、ごぼごぼと血を吐き出している。
紫道の声にようやく反応したのか、藍璃はうっすらと目を開ける。
「……げふっ……紫道様……あいつは……」
「ああ、やっつけたぞ。お前が奴の動きを一瞬封じてくれたおかげだ」
励ますように声を掛けるが、反応は薄い。駆け寄ってきた月白が符術・広目療を施そうとする。
「……月白さん、いいよ……藍璃は、助からないから……」
藍璃は、急いで呪を唱えようとした月白を見やる。既に、藍璃の体には亀裂が走り、粉末状になりつつあった。再び紫道を見つめる藍璃。その顔は目を細めてうっすらと笑っていたが、しかし目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「こんど……うまれかわったら……あいりは……ほんとうの……」
言葉は言い切らぬうちに沈黙し、笑顔がそのまま、刻が止まったように張りつく。体はみるみる粉になってゆき、そして紫道の手には着物のみが残る。
「藍璃……? いたずらがすぎるぞ……? 変な冗談はよせよ……おい、藍璃……」
呆然と呟く。頭では分かっているのだ。しかしすぐに信じることはできなかった。
「――!」
しばらくして、その着物を抱え込むように紫道はうずくまる。
「紫道様」
千歳は、握った右手を紫道の目の前に差し出し、ゆっくりと開いてみせた。
「……これは……!」
わずかに目を上げて千歳の掌を見ると、そこに在るのは碁石のような翡翠色の石。
その硬玉には見覚えがあった。いや、忘れるはずもない。それは幼少の頃、藤香と都の外まで二人で探検した際に拾った翡翠の原石。磨いて首飾りとし、藤香が初めて身につけた硬玉。
ここ数年、身につけている様子がないと思っていたが、紫道はようやくその理由を理解した。身につけられるはずはなかったのだ。
「式神使いにとって式神とは、己が死ぬまで一生付き合っていかなくてはいけない相手です。そのため、式神使いは特別な理由を持つ石でもって、式神を生み出すことが常なのです」
千歳は静かに言葉を続ける。
「藤香はよく言っていました。藍璃ちゃんは式神だけど、自分と紫道様、二人の妹だと。
自身の式神を生み出すのに、もっとも思い入れのある石として選んだのが、紫道様との思い出の硬玉だった……藤香は、藍璃ちゃんを生み出すことで紫道様、貴方と運命をともにすると決意したのではないでしょうか」
白い掌の上に載った硬玉を、じっと見つめる紫道。そして、ゆっくりと手を伸ばし、その硬玉を握りしめた。
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