七章 約束

第31走 お姉ちゃんと恋人になりたい

「待たせたな、飛鳥あすか

 おねえは、いつもそう言って助けに現れる。


 飛鳥あすかは思い出す。迷子になった時も、車に轢かれそうになった時も、山で熊に襲われた時も、海で溺れかけた時も。お姉は――必ず助けに来てくれた。

 そして、お姉はよく怪我をした。捻挫や打撲などは日常茶飯事。皮膚を切り、骨を砕き、頭を打って意識を失った。病院に運ばれるのも珍しくなく、飛鳥が憶えているだけでその数は二十三回にも及ぶ。

 そんなはやに、飛鳥は何度も問いかけた。どうしてそこまでするのか、と。

 そして千隼は、飛鳥の頭を撫でながら必ずこう答える。


「お姉ちゃんだからな」


 その言葉を聞いて、飛鳥はとても嬉しく感じたことを憶えている。

 まだ小さかった頃は、千隼の行動が命に関わることだと認識できていなかった。無邪気に千隼は絶対に死なないと思っていた。なにしろ千隼は世界で唯一のヒーローで、そんなヒーローが死ぬわけがないのだから。飛鳥はヒーローに助けて貰えることが、そんなヒーローの妹であることが、ただ嬉しかった。

 そんなヒーローに憧れていた。

 だから千隼に家族愛を超えた何かを抱くのも、飛鳥にとっては自然なことだった。


 つまり、姉に恋をしたのだ。


 けれど飛鳥は、その気持ちを千隼に伝えたことはない。

 理由としてはもちろん、気恥ずかしさや、家族へ恋する事に対する後ろめたさもある。

 だが一番の理由は、小学五年生の夏の出来事だ。

 その日は、妹のくれの誕生日だった。

 誕生日くらい家族で一緒にご飯を食べたい。そう紅羽は言っていた。しかし相変わらず身体の調子は思わしくない。飛鳥と千隼は担当医にも頼み込んだが、結局、紅羽の一時帰宅は認められなかった。だから千隼と飛鳥は相談して、紅羽の病室で誕生日を祝うことに決めていたのだ。

 当日、飛鳥は小学校のクラブ活動を休んで紅羽の病院へと向かった。手には誕生日を祝うケーキと、中華街で買ってきた『くーろんきゅう』がある。シロップは多め。食事制限の内容には『少しであれば』という条件付きでクリア。ありがたい事に同室の患者たちも気を遣ってくれて、その時間は席を外すと言ってくれている。


 飛鳥は受付で入館バッチを貰うと、紅羽のいる病室へと向かった。

 病室の前に着くと、途端、中から話し声が聞こえてきた。声は千隼と紅羽のもの。二人で話しながら待ってくれているのだろう。

 そう思い、飛鳥は病室の引き戸に手をかけて、

 ――しかし、開けることができなかった。

 そのドアの隙間から漏れるただならぬ雰囲気に気圧されてしまったのだ。

 気づけば、飛鳥はドアの前で聞き耳を立てていた。紅羽が千隼へ何事かを相談していることは窺えるが、ボソボソとした話し声からは、内容までは聞き取れない。

 更にドアに近づいて耳をそばだてる。

 そして飛鳥は、ドア越しにその台詞を聞いた。


「わたしは、お姉ちゃんのことが好き。――恋人になりたい」


 告白だった。

 もちろん病室には、姉の千隼と妹の紅羽しかいない。

 つまり今の告白は妹の紅羽から、姉の千隼へと向けられたものだろう。

 とんでもない場面に遭遇した、と飛鳥は思う。

 と同時に、不思議と納得している自分がいることに気づく。恐らくそれは、飛鳥にとっても千隼は憧れの存在であったから。『恋人』という関係を夢想したのも一度や二度ではないから。だから紅羽が千隼へ恋心を抱くのも自然なことに思えるのだろう。そう自己分析する。


 それから暫く、病室からは何の音も聞こえなかった。

 長い。

 とても長い沈黙の後、先に口を開いたのは千隼だった。


「……そうか」


 その声音には、少なくとも、肯定や喜びの色は含まれていなかった。

 再び、沈黙が降りる。

 飛鳥は思わず唇を噛んだ。

 気まずい。

 とてもではないが、この中へ踏み込む勇気は出ない。千隼は明言こそしなかったものの、紅羽の告白を消極的に拒絶したのだ。紅羽は悲しみと絶望の淵にあるだろうし、千隼にしても誰かと会いたいとは思わないだろう。仕方ない、出直そう。そう結論し飛鳥は踵を返そうとする。

 それを引き止めたのは、病室から聞こえてきた紅羽の声だった。


「千隼姉は――飛鳥姉のことが、好き?」


 気づいた時には、再びドアへ耳を押しつけていた。

 現金な自分を恥ずかしくも思うが、しかし聞き捨てならない問いかけでもあった。紅羽が千隼のことを好きなように、自分だって千隼のことが好きなのだ。妹がフラれた直後にはしたないとは思う。気遣いの欠片もない。あたしはデリカシーの無いロクデナシ、だ。

 そう自己嫌悪しながらも、飛鳥は耳をそばだてることを止められなかった。

 そして千隼の答え。


「ん? ――ああ、好きだぞ」


 グッ、と握り拳を作った。

 だが、すぐに「なにやってんだあたしは」と頭を抱える。紅羽の気持ちを考えろ、と自分を戒める。しかし、浮かれた気持ちは収まらない。

 だが、


「それは恋人として? それとも家族として?」


 続く紅羽の問いは、飛鳥の心を凍らせるものだった。

 そして、千隼は朗らかに答える。


「もちろん――家族として、だ」


 手に持った箱を、よく落とさなかったと思う。

 脳髄が動きを止めている。いや、思考が混線している。認めたくない事実を突きつけられて、目を逸らしていた現実に気がついて、思考が、心が、魂が動きを止めてしまった。


 ここから離れよう。

 そう頭の中で誰かが言った。


 その言葉に従って、飛鳥は病室のドアから離れた。そのまま踵を返して来た道を逆戻り。気がつくと飛鳥は病院の外にいた。

 夕暮れに向けて傾きはじめた太陽は、むしろ陽射しを強くしている。斜めから容赦なく皮膚が炙られて熱を帯び――――しかし、飛鳥の心は凍りついたままだった。


 千隼に妹としか見られていない。

 判っていたことだ。


 これまで目を逸らし続けていただけのこと。「もしかしたら、お姉もあたしのことを好きかもしれない」という夢を見続けていたかった。だから、千隼から何度「お姉ちゃんだからな」と言われても気づかないフリをしてきたのだ。

 けれどもう、それは出来ない。これ以上、自分自身に言い訳をし続けられない。


 だが同時に、飛鳥は気づく。

 諦めきれないのだ。


 千隼から妹としてしか見られていない現実を突きつけられても、自分の中にある千隼への想いは少しも変わらない。むしろ現実を見たことで強くなった気さえする。ここに至っても、水無瀬飛鳥は水無瀬千隼のことが好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで――仕方がない。

 だが、気持ちだけではどうにもならない。

 それは先ほどの紅羽の告白からも分かる。ただ気持ちを伝えただけでは、千隼は応えてくれない。妹としか見てくれないのだ。

 けどそれなら、


「――――妹でなくなればいい」


 妹としか見られていないのなら、その認識を変えてやればいいのだ。

 その為には千隼と対等――もしくは、それ以上の関係にならなくてはならない。

 だが千隼は完璧だ。外見も頭脳も身体能力も何もかもが、飛鳥以上。何も『優れているから姉である』という事はないと思うが、対等な関係でないことは確かだろう。

 何か、一つでも千隼に勝てることはあればいいのに。

 そう飛鳥は視線を地面へ落とした。

 そして目に入ったのは、自身の両脚だった。

 ショートパンツから伸びる脚の先には、体育の授業で履いたままの薄汚れたスニーカー。

 これだ、と思った。

 走ることでなら、千隼に勝てるかもしれない。

 もちろん徒競走でも千隼に勝ったことはない。けれど学年の中では一番速かったし、何より千隼と勝負した時だってほんのちょっとの差だったのだ。死ぬ気で練習すれば千隼にだって勝てるかもしれない。

 千隼に勝って、対等な立場になる。

 それから千隼を口説いて、千隼と恋人になるのだ。


 顔を上げた飛鳥の表情は晴れやかだった。


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