第26走 やさしく食べてあげる

「わたしは《ひだりうでおにき》なの」

 言って、幸は黒と黄色のまだらように覆われた左腕を掲げてみせた。


「だから飛鳥ちゃん。――大人しく食べられてね」

「え、いや、ちょっと待って……」


 頬がった笑みを浮かべる。

 飛鳥あすかはドアへと身を寄せ、ドアノブを引く。当たり前のようにロックがかかっていた。

 だからって、諦めるつもりはなかった。

 ドアに鍵がかかっているなら壊せばいい。あたしに壊せないなら、この《おにき》に壊させればいい。さちはあたしを殺そうと、《》の腕を振るうだろう。ならそれを避けて後ろにあるドアを壊させる。そうすれば逃げられる。

 あとはタイミングを計る為に会話を続ければいい。内容なんて何でもいい。

 だから一番最初に思いついた不満を口にした。


「なんで、あたしを喰うの? おかしいじゃん」

「おかしくないと思うけど?」

「だって、アンタ言ってたじゃんか。《鬼憑き》を喰えば一年くらい誰も襲わなくて済むってさあ。だから《鬼憑き》を喰ってから逃げようって」

「うん、言ったね」

「なら、どうしてあたしなんか襲うのよ!! 《鬼憑き》同士で勝手にやってればいいでしょッ!?」


 ふと、幸は驚いたような表情を浮かべた。

 それからすぐに、嫌な上司に会いに行かねばならない事を思いだしたような顔へと変わる。どこか遠くを見つめて「ああ、そうなの」と呟く。


「本当に何も知らないのね」

「……え、」

「いや、本当は自覚してるのに隠してるのかなって思ってたの、わたし」

「隠してるって?」

「いやだから、あなたが《ひだりあしおにき》なのよ」

「はあ?」


 耳を疑った。

 飛鳥は自身が置かれている状況も忘れて、眉をひそめる。


 この女は何を言っているんだ。あたしが《左脚の鬼憑き》?

 何をトチ狂ったことを。


 誰が見ても判るくらいハッキリと、飛鳥はそういう顔をした。

 それを見て、幸は一瞬だけ不快そうな表情を浮かべる。

 だが、すぐにいつもの柔らかい笑みを浮かべた。

 まるで、出来の悪い生徒を優しく諭すような笑顔。


「そお。知らないなら教えてあげましょう。――あなたは実は《左脚の鬼憑き》なの。昨晩、《左脚の鬼憑き》になって官舎から飛び出したのもあなた。国立競技場まで行ってもみじちゃんと戦ったのもあなた。お姉さんはその巻き添えをくって病院送りになったのよ。――あなたが、お姉さんを殺しかけたのよ」


 幸は運転席から身を乗り出し、ゆるりと飛鳥へと這い寄る。

 もう一度ドアノブを引いた。開かない。


「なんで巻き添えをくったかと言えば、あなたを護る為。千隼ちゃんはね、自覚のない《鬼憑き》であるあなたをずっと、ずうぅぅぅぅっと《SCT》から護ってきたの。あなたがボロを出さないようにずっとそばに寄り添ってたのよ? 化粧で誤魔化してるけどあの子、目の下にすごいクマができてるわ。この二週間、ほとんど寝ずにあなたを見守ってきてたのよ」

「……そんなわけない」

「本当よ。あなたには自覚がないでしょうけどね。……ああ腹が立つ。《鬼憑き》のくせに自覚がないなんて。人を喰わずに生きてこられたなんて。本当に、本当に、本当に腹が立つ。わたしがどれだけ辛かったのか、あなたには判らないのよね。わたしの苦痛を知らないのよね」


 ドアノブを引き続ける。開かない。

 近づいてきた幸を、飛鳥は蹴り飛ばそうとした。だが、飛鳥の蹴りは左腕の《鬼肢》に難なく受け止められてしまう。

 ギリリと無理矢理足を押さえつけ、幸は更に飛鳥へとにじり寄る。


「いいわよね、あんな妹思いのお姉さんがいて。泣いて頼めばきっと、椛ちゃんみたいに《人を喰わない鬼憑き》にして貰えるわよあなた。――そんなの、わたしが許さないけど」


 すでに息のかかる距離にまできた幸から逃れようと、飛鳥は身を捩って後退った。だが狭い車内に逃げ場などない。幸は飛鳥へとのしかかるようにして自由を奪い、飛鳥の喉元へと左腕の《鬼肢》を伸ばす。意味がないと知りつつも、飛鳥は唯一自由になっている左手でドアノブを引き続ける。

 ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ――


「もう一人で生きていける? お節介だ? ――あのね、ただ守られてきただけの小娘が偉そうな口叩いてんじゃないっ!!」

「う、ウソだっ!!」


 飛鳥の叫びに、喉元に食らいつこうとした《鬼肢》の動きが止まった。

 混乱した脳髄が、この叫びには効果があるのだと勘違いして飛鳥の喉を震わせる。


「そんなのウソだ。そもそもあたしは《鬼憑き》なんかじゃない! アンタの勘違いにあたしを巻き込まないでよ。迷惑なんだよ。もう、どっか行ってよッ!!」


 そして幸は、身を引いた。

 思わず飛鳥は「え、」と情けない声を漏らす。まさか本当に引いてくれるとは思っていなかった。もしや今更になって、あたしが《鬼憑き》ではないと気づいたのだろうか。

 しかし幸の視線は飛鳥へと据えられたままだった。

 ふと、何かに思い当たったかのように口を開く。


「何も知らないまま死なれても、それはそれで腹立たしいもんね」


 幸の左腕の《鬼肢》が振りかぶられる。

 そして、飛鳥の左脚へと振り下ろされた。


「ひ、」


 飛鳥は思わず両目を閉じ、歯を食いしばった。

 次の瞬間に襲うであろう痛みを覚悟する。途端、自動車でもぶつかったかのような衝撃を左脚に感じた。

 だが、痛みはいつまで経っても訪れなかった。


「目を開けなさい」


 幸が優しく告げる。

 つられて、飛鳥は閉じていた両目を開けた。


「ね、言ったでしょう?」


 幸の優しげな声がするりと耳へ入り込み、そのまま脳内を素通りしてどこかへ消えた。

 今、ショートパンツから伸びる飛鳥の左脚には、確かに《左腕の鬼肢》が振り下ろされている。本来ならば飛鳥の左脚を貫くはずのソレは、飛鳥の皮膚に受け止められ微動だにしない。

 そして《鬼肢》を受け止めた皮膚は肌色をしておらず、黒と黄色のまだらようをしていた。

 恐る恐る、幸の顔の向こう側を見た。

 車のバックミラーに映る、飛鳥自身の顔。

 額には二本の白いツノが。

 そのそうぼうは、こんじきに輝いている。


「そんな――、」

「良かった気づいて貰えて」


 幸は人間の右手と《鬼肢》の左手を合わせて微笑む。


「もしかしたら、意識がある状態じゃ《鬼肢》の擬態を解けないのかと思ったけど、やっぱり宿主の危機にはちゃんと応えるのね。まあ、考えてみれば寝てる時に《鬼肢》が解放されたのも、あなたが寝ている時にも『走りたい』って考えていたからだろうし、当たり前か。――よし、それじゃあ」


 幸はそう言うと、自らの《鬼肢》で飛鳥の左脚をガッチリと掴んで固定する。それから人差し指だけを立てた。途端、スルスルと《鬼肢》の指が伸びて蛇のように鎌首をもたげる。黒と黄色のまだらようをした指の蛇。その指先は、飛鳥の額へと向けられていた。


「次は、まず一回死んでみよっか?」


 嫌だ。

 瞬間、飛鳥は右脚に異変を感じた。


 視線を落とすと、右脚までもがまだらようの外骨格を纏っている。「え、ウソ」と呆けたような幸の声。ガッチリと《鬼肢》で押さえつけられている左脚と違い、右脚は自由。

 思い出したのは、毎朝起きると蹴り飛ばしていた姉の顔。


「だあああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

「――ッ、」


 飛鳥の蹴りを、幸はとっに《左腕の鬼肢》で受け止めた。

 だが、受け止めただけでは衝撃は殺せない。

 飛鳥の《右脚の鬼肢》の蹴りをまともに受けた幸は、フロントガラスを突き破って外へと吹き飛ばされる。それこそ砲弾のように飛んで行った幸の身体はバリバリと枝や幹を薙ぎ倒し、雑木林の奧へと呑み込まれていった。

 飛鳥は荒い息をついたまま、暫く動けなかった。


「……逃げなくちゃ、」


 自身の口をついた言葉を聞いて、飛鳥はようやく動き出す。

 まず両脚の《鬼肢》でドアを蹴り、吹き飛ばす。元の脚と比べて極端に大きい《鬼肢》の両脚に戸惑いながら飛鳥は車の外へまろび出た。まとわりつくように聞こえていたひぐらしの声は、今の騒ぎに驚いたのか止まっている。代わりにカラスが森林破壊に抗議する声や、小動物が草むらを駆け抜ける音、――そして木霊のようなバイクのエンジン音が聞こえた。随分と長く山道を進んだ気がしたが、どうやら舗装道路からもそんなに離れていないらしい。

 なら、まずは道路へ出よう。

 タクシーでも何でも捕まえて、この場所から離れなくちゃ。


 飛鳥は駆け出そうとして、再び大きすぎる両脚の《鬼肢》の扱いに失敗して転ぶ。ああ、まずい。これを見られたら誰も車に乗せてくれない。《鬼憑き》だって知られたらダメだ。

 飛鳥がそう考えた途端、両脚は元の大きさへと戻った。

 驚いて額に触れると、そこにあったはずの二本のツノは跡形も無く消えている。髪も元の長さに縮んでいた。

 良かった。これならバレない。

 こうやって隠しておけば《鬼憑き》だとバレずに暮らせる。

 千隼お姉の手を借りずに済む。

 飛鳥は立ち上がり、駆け出

 ――――途端、頭上から落下してきた何かに押し倒された。

 うつ伏せに押さえつけられたまま、飛鳥はゆっくりと背後を振り返る。


「つーかまーえたっ」


 深山幸が優しげに微笑んでいる。

 幸が《左腕の鬼肢》を振りかぶった。「じゃあね」のひと言と共に《鬼肢》が飛鳥の頭蓋へ向けて振り下ろされ、

 何故だか、バイクのエンジン音が大きく聞こえた。





 そしてもみじは看護師から聞き出した病室へと辿りついた。

 椛が手を差し出すと、後ろからついてきていた看護師が「内緒っすよ……」と呟きながらカードキーを椛の手の平に置く。《研究病院》はその性質上、《鬼憑き》の縁者や被害者を収容する事が多い。その為、各病室には脱走防止用の電子錠が採用されていた。

 パネルに電子錠をかざし、椛は引き戸を開けた。


 病室のタイプはベッドが六つ並んだタイプだった。その内の五つは空でベッドにはシワ一つない。右最奥に鎮座する窓際のベッドだけ、間仕切りのカーテンが引かれている。

 椛はそのベッドへ近づき、カーテンを開け放った。

 途端、ギリリと歯を食いしばる。

 ベッドに横たわっていたのは《研究病院》の女医だった。

 水無瀬千隼の姿はどこにもない。


「うわっ、慶子ちゃんセンセー寝てるよ。え、これ、死んでる? センセー?」

 後から入って来た看護師が、慌てて女医に近づいて脈を取る。「おっと気絶じゃーん?」と呟いたのを聞いてから、椛はベッドに背を向けた。

 ふと、椛の絹糸のように白い髪が風に揺れた。

 風が吹いてきた方向へと椛は顔を向け、


「くそ、気づいたんだな千隼……」


 常の話し方を忘れて椛は毒づく。

 風は、窓から吹き込んでいた。

 一般病棟の四階。転落防止の為にはめ殺しになっている窓ガラスは今、跡形もなく割られている。そして何故か、窓枠には杖の持ち手が引っかかっており、持ち手は柄との継ぎ目から先が無い。

 柄の代わりに持ち手から先には、ワイヤーが伸びていた。


 杖の中に仕込まれていたワイヤーが、窓の外へと伸びている。





 訪れるはずの痛みは、またもどこかへ消えてしまった。

 飛鳥は、恐怖から閉じていた目を開ける。

 気づけば、身体にのしかかっていた重圧も消えていた。幸の姿がない。どこへ行ったのだろうか。うつ伏せに倒れていた飛鳥は顔を上げる。

 目の前に、銀色の義足があった。

 義足はもちろん、生身の足にも靴を履いておらず、それどころかスカートもデニムパンツも履いていない。飛鳥が腕で身体を支えて顔を上げると、下着の上に薄緑色の病院服だけを着た女が立っていた。そんな部屋着以下の服装のくせに、そこだけは譲れなかったのだろうか。女はいつもの小汚い布で、黒髪をポニーテールに纏めていた。


「待たせたな、飛鳥」


 水無瀬千隼が、仏頂面のままそう言った。

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