Dance with the Motorcycles

小林ゆき

やまとみち

暁天の寒空

 寒さで目が覚めるが、カーテンの向こう側はまだほの暗い。


 布団の中で徐々に思考を目覚めさせてゆく。


 今日は何月の何日で何曜日だったか。今日はどこに行く予定で、何をする予定で、誰に会うのか。それとも、今日は何かしなきゃいけない日ではなくて、おもむくままに何かしたいことをしてもいい日だったのか。


 まどろみながら、やっぱり今日は1月の平日で、正月休みはとっくに終わっていて、いつも通り都心に向かわなくてはならない日なのだったと思い出す。


 などと考えを巡らせているうちに、窓の外は白み始め、思い切って身を起こす。


 カーテンを開けると、東の空が凝縮された暁の朱色で辺りを支配し始めているのを見て、今日もまた関東特有の、あきれるくらい空が青い冬晴れの一日になることを確信する。


 はて、今日もいつも通りバイクででかけようか。それとも、寒いのだから無理に乗るのは止めようか。ガラス窓を曇らせている結露から推測すると、気温は1度前後。地面には霜が降り、夜は放射冷却の影響で橋梁は凍結するだろう。


 やはり、電車ででかけるべきか。


 この時期、乗客はみな着膨れて肩と肩、背中と背中を擦り合わせながら乗るのだろう。午前9時の始業に向かうラッシュアワーは、乗客がプラットホームからあふれて、階段の下まで列が続いているだろう。ようやく地上に到着したと思ったら、3列の整列乗車の列。次の電車が来たら、その横の3列がオートメーションで自動送りされたパーツのごとく、無機質に3歩右側へと移動する。ほとんど全員がウイルス避けの白いマスクで顔を覆っていて、まるでカオナシのようである。みなラッシュを避けたいのだろう、午前7時よりも前の時刻だというのに、結局すでにラッシュが始まっている。電車を1本、2本と見送る。1970年代の高度経済成長の時代より格段に路線が増えたのだから、少しは混雑がマシになるかと思いきや、いまだに“押し屋”が黄色い線の外側に並んでいて、白い手袋をもてあましている。やっとの思いで乗り込んだ車内ではもはや、つかまる吊り革も手すりもない。ただただ隣人との距離をはかりつつ足の親指と小指に神経を集中し、気まずい無言の30分をやり過ごす。到着する前に消耗してしまいそうだ、電車だと。


 いやいや、クルマで行けばドア・トゥ・ドアなのだ、コートを一枚腕にかけて持ち歩けば断然楽ではないか。そればかりか、おしゃれなブーツも履けるし、スカートだって着ていける。口が大きく開いているトートバッグだって持ち歩ける。バイクならフルジップのカバンでないと荷物が飛び散ってしまうのに。

 朝の通勤時間帯、幹線道路を走るドライバーは少しばかり気が立っている人が多いように思う。いや、これから出勤する、あるいはこれから配達が始まるという時間帯だから慎重な運転をするドライバーが大半ではあると思う。

 だからこそ、出遅れた風情のドライバーが目立ってしまうのだ。信号待ちでは運転席で髭を剃っている人。上目づかいで目を細めてマスカラを仕上げている女性。マンガや新聞をハンドルの上に広げて日常を車内に持ち込む人。堂々とケータイを肩と顎の間に挟み込み、時折上目づかいで信号を確認し、左手でギアを操作しながら発進するトラック。そんな混沌にバイクで突っ込んでいけるのか。


 ならば、バイクはどうだろう。


 道路の渋滞という意味ではクルマと同じくらいのストレスがあるにはあるのだが、この晴天。青空。乾いた空気。朝日に輝くビルのウィンドゥ。ウィンドゥガラス越しではなく、ヘルメットのシールドを上げれば、直接眼に飛び込んでくるし、肌で感じることのできる冬晴れの日。いつもの通勤通学路が、バイクならそれだけで彩りを与えてくれそうな気がする。


 よし、バイクで行こう。そう決めた瞬間、実は朝の身支度の時間がよりかかることを思い出す。


 どうせ“いつもバイクでやって来る人”と思われているのだから、この際、ジャケットにこだわらなくてもよいだろう。パンツにライディングシューズを合わせてもいいだろう。でも、せめて眼。眼だけはしっかりと装いたい。その前に、寒風の中バイクで移動するときは、いつもより念入りにスキンケアを施しておかなければならない。まずは保湿クリーム。寒風は肌の乾燥を招くが、そのままヘルメットを脱ぎ着し続けると、頬のあたりが擦れて擦過傷を作ってしまう。その上にUVクリームも重ね塗りする。冬の紫外線は意外に鋭い。フルフェイスの眼や鼻の周りだけ日焼けしたくないから、日焼け止めは忘れてはいけない。そしてリップクリーム。ネックウォーマーで口を覆うとすぐにリップが剥げてしまうから、すぐに塗り直せるようにジャケットのポケットの中に予備のリップを一つ。落としたりした時のために、カバンの中にさらに一つしのばせておくのがいつものやり方。ここまで塗り固めたら、まつ毛をビューラーで上に持ち上げる。仕上げにマスカラをひと塗り、ふた塗り。髪の毛はショートカットだから寝癖やヘルメットの内装癖が付くとやっかいだ。なので、あとでクシュクシュすればある程度整うワックスをうっすらともみ込む。


 寒いのはいやだが、着膨れも避けたい。あまり重ね着していると、室内で作業や会議をするとき、かえって暑くなってしまうこともある。それほど、最近の機能性インナー、とくにバイク用のインナーウエアは暖かくできている。そりゃそうだ、バイクで気温10度にも満たない道を何時間も走ることをも想定して開発されているのだから。そこで最近のわたしは、都内までの移動なら機能性インナーを上下+アウターにもなる機能性長袖シャツを一枚+ダウンベスト+薄手の防風インナージャケット+ライディングジャケット+ライディングジーンズ+オーバーパンツ、という組み合わせでしのいでいる。これに、防風機能のあるネックウォーマー、ウインターグローブ+インナーグローブ、足元はウールの靴下を履く。ここまで、いつものバイクウェアをローテーションするだけだから、ワードローブ選びに時間はかからない。

 問題は、それらバイクウェアを着込む所要時間だ。オーバーパンツまで着込んだのに、ジーンズのポケットにケータイを入れていたことを忘れて、あわててジャケットのジッパーを開け、オーバーパンツを少しずらしてポケットに手を伸ばす。再び、オーバーパンツを腰まで上げて、ジャケットのジッパーを閉めるまで所要時間30秒。朝の貴重な時間のロスだと思ったら、今度はネックウォーマーを仕込むのを忘れた。ネックウォーマーは、上側は口を覆うあたりまで上げたいし、下側はジャケットの襟の内側にしっかりと入れ込みたい。ほんの少しのすきま風が体温を奪い、身体を冷やす。身体の冷えは疲労につながるから、この部分のセッティングは入念に行わなくてはならない。


 バッグに仕事道具とハンカチやティッシュ、ミントのタブレット、リップクリームとハンドクリームを詰める。中身をもう一度確認し、ファスナーを閉めたらいよいよ出発だ。時刻を確認する。推定所要時間から考えると30分は余裕だ、と行きたいところだけど、残念ながらいつもギリギリの出発になってしまうのはなぜだろう。もう治らないんだろうか。

 オーバーパンツの裾を上げ、ライディングシューズを履いて、ジーンズを靴のアッパーに丁寧にかぶせる。アンクル丈のシューズの上にジーンズがまくれていることほど恥ずかしいことはないから、ここは丁寧に。そしてオーバーパンツの裾をしっかりと締めておく。

 玄関の鍵とバイクの鍵を確認し、ヘルメットとグローブを準備する。ここまで揃ったらバイクの鍵だけ持って、いったん玄関の外に出る。冬の寒風は頬をチクチクと刺すようだ。子どもの頃は毎日のようにこの感触を味わっていたように思う。


 ガレージには、結露でタンクが凍った愛車が待っている。キーホルダーの向きを注意しながら鍵を挿す。革の上にメタルの飾りが付いているキーホルダーなので、向きを間違えるとハンドルカバーのプラスチックに傷が入ってしまうのだ。

 門戸を開け、階段にラダーレールをかける。我が家の庭は道路から階段4段分高くなっていて、ラダーを使ってバイクを出し入れするのが儀式なのである。

通過するクルマに注意して、バイクを道路に下ろす。ハンドルのグリップすら凍っているんじゃないかと感じるくらいの冷たさである。

 ガレージからバイクを出す、その押し引きのときに自分の身体のコンディションをまずは確かめる。重さが足に感じるようなら、ストレッチ不足。腰に感じるようなら運動不足。そんなところから確認を始める。

もう一度、玄関内に戻り、家の鍵とヘルメットとグローブとカバン、それに荷物をくくるラバーバンドを手にする。戸締りはよいか。火の元は確認したか。猫のエサやりを忘れてやしないか。ほんの3秒くらいで頭を巡らせて反芻する。猫は見送りにも来ない。

 玄関の鍵をかけ、門戸を閉めて、リアシートに荷物をくくる。ツーリングネットは大容量の荷物には便利だが、少容量のときはロープでくくった方がしっかりと留められる。さらにネットをかぶせれば、荷物を落とす心配は少なくなる。

 一度だけイグニッションをオンにし、ETCカードが入っているかどうかインジケーターの光で確認する。ETCはライダーにとってストレスフリーで本当に便利なシステムだ。しかし、やっかいなことに料金を支払っている感覚がないので、ともすればどこまでも高速道路に乗って走り過ぎてしまうおそれもある。高速道路は退屈だ、という人がいるけれど、それは、そう言っているアナタが退屈な人なのだ、とつねづね思っている。高速道路から見える風景、四季で変化する木々の移ろい、日本の建築や道路の構造物、どんなクルマが走っているか、どんな人が高速を利用しているか。もちろん運転中は、前後左右に気を配って集中しなければいけないけれど、些細なことからも気付きは生まれる。ましてや、高速道路は一般道より格段にゆったりとした気分で走れる。だから、わたしは高速道路が好きだ。特段、理由がなければ基本的に高速道路を使いたい、と思っているライダーは少数派だろうか。


ヘルメットをかぶり、インナーグローブとウインターグローブをはめる。全ての準備が整ったら、バイクにまたがりバイクを直立に起してサイドスタンドをはらう。今度はチョークレバーを引いてイグニッションをオンにし、キルスイッチを押す。「キュルっドヒュヒュヒュ……」とかかったら、バッテリーの調子が良い証拠。「キュルキュルキュル、ドっ、ドヒュヒュヒュ……」となったら、そろそろバッテリーが弱いのかな、などとマシンの調子をここでチェックしておく。

 エンジンがかかったら、ほんの10秒ほどでチョークを戻し、エンストしないようならチョークレバーから手を離し、すぐに発進するのがわたしの流儀。停車しながらの暖気は基本的にはしない主義なのだ。暖気は走りながらすればよい、とフォルクスワーゲンのユーザーマニュアルには書いてある。カワサキのエンジン、オートバイのエンジンはそのやり方で大丈夫かどうかはわからないが、エンジンをかけたらすぐに発進し、走りながら暖気することにしている。もちろん、走りながら吹かすということではなく、最初の5分、10分はそぉっと、そぉっと回転を上げないようにして走る。3つ目の信号待ちあたりでアイドリングの回転数が安定してきたなと思ったら、いつもの走りに戻す。このやり方で1台のバイクを21万km乗り続けている。


 出発したての指先にはまだ、暖房の温もりが保たれていて、真冬のライディングへの畏れなど微塵も感じさせない。

 インターチェンジに向かう道すがら、冬晴れの空の向こうには、くっきりと雪を被った富士山があらわになっている。

 こんなに天気がいいんだったら、このまま高速を下ってしまおうか。オダアツ(小田原厚木道路)から箱根、ターンパイクまで1時間もかからないしなぁ。帰りはセイショー(西湘バイパス)で海沿いを走り、江ノ島か葉山あたりでブランチなんてのもいいねぇ……。

 などと思いを巡らせているうちに、最初の渋滞に突き当たる。ここでイライラしては現代社会という名のゲームに於いては負けなのだ。落ち着け、落ち着け。

 と、心を落ち着かせても、気温7度、湿度40%の気象条件は、どんどんエンジンの調子を上げてくる。無意識のうちに右手はスロットルをひねってしまうのだ。

 

 とは言え、対向車が急に右折してきたり。バス停に入りきらない2台目のバスが走行車線をふさいでプチ渋滞を作る。ウインカーも出さずに、急に減速したかと思うと急に路地を左折していくクルマ。後方確認もせず急に進路変更するクルマ。右往左往しながら突進してくる原付スクーター。赤信号でもお構いなしに進む自転車。路肩を逆走してくる自転車。ナナメ横断の歩行者。スマホ片手に横断歩道を蛇行する自転車。

秩序があるようでない。ないようで、ある。そんなカオスの、いつもの風景。


(……事故に遭いたくない……)


(今日、バイクで怪我したくない……)


 出発からたった数キロなのに、自分の身体のコンディションの確認、バイクの調子の確認、ラッシュアワーの憂鬱、それらが順番に積み重なっていき、いったんバイクで走り始めると肝心の安全運転を忘れかける瞬間がある。たいてい、月命日に長年、花が飾られる歩道橋のあたりでハっと思い出す。


(今日、バイクで死んでたまるか!!)


 こんな風にして、わたしのバイクとの朝が始まる。

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