第11章 クリスマス・イヴ(12月24日)
第44話 パインツリー
――08時00分、アメリカ、ハワイ――
――13時00分、アメリカ、ワシントンDC――
ボイドはハワイ・オアフ島を訪れていた。当地に移り住んだカーク元大佐から、一連の事件について事情を聴取をするためだ。
カーク元大佐に対する査問委員会は既に前日に終わっており、カーライル少将の予想通り、カーク元大佐が罪に問われる事は無かった。
――公式見解として言うならば、既に終わった事件――
しかしボイドにはどうしても納得がいかなかった。他人にだけでなく、自分にも過剰なまでの厳格さを求めた男、フレディ・カークが、なぜフェニックス・アイ社ごときの騒動に巻き込まれてしまったのか、その理由をボイドは知りたかった。それを知らなければ、一連の事件の真実を見失ってしまいそうな気さえしていた。
ホノルル空港近くのレンタカー屋でピックアップトラックを借り、小さなメモに書かれた住所を訪ねると、そこは予想さえしていなかったほど粗末な、平屋の一軒家で、バラック小屋とでも称した方がよいほどの佇まいであった。
呼鈴が壊れて鳴らなかったため、ボイドはペンキの剥がれ掛けたドアをノックした。部屋の奥からは、「開いている、入れ」としわがれた声が聞こえた。
ノブを引くと、ギーという甲高い金属音がした。
部屋の奥には、かつて毎日のように顔を合わせ、心の底から憎んでいた男の顔が合った。軍を除隊して隠居生活だと聞いていたが、その目は昔と変わらぬ強い光を帯びていた。
部屋の片隅には、周囲の粗末な調度類から浮き立つように、真っ白なOAデスクとハーマンミラーのワークチェアがあった。ボイドの視線がそちらに向いたのを察したのか、カークは「そこには、『テンペスト』のワークステーションが乗っていたのだ」と言った。そして「CIAの奴らに持ち帰られてしまったがな」と付け加えて皮肉げに笑った。
「今日は空がきれいだ。外で話そう」
カークは、ボイドを誘って外に出た。
部屋の中とは違って、綺麗に手入れのされた庭には、屋外用の木のテーブルと椅子が置いてあり、カークは手前にある方の椅子をボイドにすすめた。
「お久しぶりです」
ボイドが挨拶をすると、カークは「ああ」とだけ返事をした。昔から口数が少ない男だったが、それは変わらずだ。
「随分と質素な暮らしぶりですね、あなたほどの人なら、ワイキキあたりのコンドミニアムでも買えるでしょうに」
「空軍の安月給に、スズメの涙の危険手当など、バーにいって軽くバーボンでも
「まあ、確かにそうですね。テストパイロットは割に合わない仕事ですからね。しかしフェニックス・アイ社からは、随分ともらっていたのでは?」
「はん、訊きたかったのはそれか。もらっていないよ」
「1ドルも?」
「1ドルも、1セントもだ。顧問になったら週に1万ドルやると言われたが、断った」
「なぜ?」
「コンピュータの中には、命を張るほどの緊張感が無かった。それだけだ」
「本当に?」
「本当だ。ぬるい仕事で稼ぐつもりなど毛頭ない」
「あなたがやった仕事の内容は何です?」
「俺が乗ってきた実機の機体特性を、正確にエンジニアに伝える事と、その結果をテストすることだ。テストパイロットの仕事と変わらない」
「何年、やつらに協力したのですか?」
「2年半ほどだな。最初の頃、あの会社は――、そうだ――、グローバル・マトリクスという社名だった」
「フェニックス・アイの社名と、あなたのTACネーム、フェニックスは同じですが、何か理由があるのですか?」
「有ると言えばある。社長のセルゲイ・アントーノフが、私の尽力に対しての感謝の印だと言っていた」
「アントーノフ氏との出会いについて教えてください」
「初めて会ったのは、ラスベガスのステーキハウスだった。ネリス空軍基地から5㎞ほどの場所だ。そこの店のウェイティングバーが、パイロット達のたまり場になっている。当時は偶然の出会いだと思っていたが、今思えば、きっと奴の方から俺を狙って接触してきたのだろう」
「どんな男なのですか?」
「冷徹で、恐ろしく頭の切れる男。しかしハートは熱かったな。俺とは気が合ったよ」
「なぜ、協力することにしたのですか?」
「退屈な世の中に我慢が出来なかった。だからやつの誘いに乗ってみた。アントーノフはおかしな考えを持っていた。世界が最も平和で安定していたのは、東西冷戦時代だとね。弛み切った世界を終わりにし、もう一度世界に幸福をもたらすのだと言っていたよ」
「理解できませんね」
「そうか? 俺には分かるよ。人間の能力は強烈な緊張感の中でこそ試される。テストパイロットの仕事と同じだ。倫理とか正義、幸福というあやふやな概念も、緊張感の中でこそ明確に像を結ぶ。
今の世界に緊張感があると思うか?
「確かに、そう言われると一理あるような気もします。しかし、詭弁かもしれませんよ。フェニックス・アイの母体となったのは、旧ソ連の軍需産業です。政情不安な状況を作らないと、軍事技術には需要が無い。アントーノフ氏が求めていたのは、緊張感がもたらす平和ではなく、単なる軍事市場だったのかもしれません」
「それはそれで良いではないか。幸福と緊張が不可分であり、その大きさを計る指標が偶然にも軍事市場の規模だったというだけだ。考えてみれば、俺たち戦闘機乗りの価値だって、その指標の一部とも言える。愉快な話ではないか」
そうかもしれないなとボイドは思った。しかし、完全に賛同することもためらわれた。ボイドはしばらく無言でカーク元大佐の顔を見つめた。何の気負いもない、素直な表情に思えた。
ボイドはカーク元大佐との会話の中に、カーク元大佐がフェニックス・アイに取り込まれていった理由を垣間見た気がした。そして同時に自分の心の中にも、カーク元大佐と同じように、現実に抗ってもがく、もう一人の自分がいることにも気付かされた。
「フェニックス・アイとの仕事は、あなたにとって有意義なものでしたか?」
ボイドは質問の方向を変えた。
「悪くは無かった――、経験としてはな。あのような世界もあるのだと思ったよ。しかしそれだけの事だ。虚構の世界には、確実に
「後悔していますか?」
「いや、全くしていない」
カーク元大佐は話すべきことを話したと思ったのか、緊張感と解いて空を見上げた。その眼は、遠く突き抜ける青空の、更にその先を見ているようにボイドには見えた。
「そう言えば、1つだけ収穫があったな……」
カーク元大佐は不意に思い出したように言った。
「何ですか?」
「フェニックス・アイとの仕事を終わらせる間際、アントーノフに乞われて『テンペスト』のプロジェクトに参加しているテスター達に、飛行訓練をしてやった時の事だ。虚構の世界の中で、面白い少女と出会ったんだ」
「どんな少女ですか?」
「真っ直ぐで、何の色もついていない少女。一度も本当の空を飛んだことがない少女だった。虚構の空を、まるで本当の空のように活き活きと飛びまわっていた。
正直言って、シミュレーターというやつは、心の中では馬鹿にしていたんだ。しかし初めからシミュレーターの中で育った少女にとっては、その虚構の空こそが現実なのだと気付かされた」
「相当に腕が良かったということですね?」
「お前にも以前に言った事があるはずだ。パイロットの腕ってやつは、詰まる所、天性の勘で決まるのだと――。覚えているか?」
「モハーヴェ砂漠で、模擬戦をやる前の事ですね?」
「そうだ。俺がこれまで会ったパイロットの中で、その勘が一番すぐれていたのはお前だ。しかしその少女の勘は、お前以上だった。我々のように中途半端に空を知ってしまった人間とは、次元が違っていた。いつかあの少女を、本当の空に連れ出してみたいと思ったよ。これからはあの少女のように、我々と違う感性を持ったパイロットの時代なんだ」
「その少女の名前は?」
「知らない。TACネームは確かパインツリーだったよ」
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