浮帽子
坂水
第1話
暗闇の中、ほの黄色い光が浮かんでいる。ぽつねんと、たった一粒。黒いシャツに誤って漂白剤の原液をこぼしてしまったように。
心細げに揺れる、小さな光。ろうそくの火にも、五等星にも満たないような。遠く、はかなく、たよりなく、吹けばあえなく消えてしまう。
けれど、そのちっぽけで、やさしく、かなしい灯明に、私はたしかに温められた。
結構、見えるたちなの。子どもが宙をじっと見つめている時があるじゃない。なんだろうと思って視線の先を辿ると、そこにいるのよ――
重々しい声音の一瞬後。
やだあ、ほんとうに、怖くて遅番入れなくなるじゃないですか、ここ築五年でしたっけ、事故とかあったんですか……等々、内容とは裏腹に華やいだ若い声がいくつも上がる。続いて、やっぱり子どもって気付きやすいのよね、との言葉に、皆が頷く気配があった。
とっぷりと陽の暮れた一月下旬、公設民営の『里の市立さとの保育園』。その一画にある事務室は、昼間よりもずっと人口密度が高く、賑わっていた。
保育士の仕事は、保育室を離れたあとも続く。事務室の後方に設置された作業テーブルで、通常の勤務を終えた先生たちが雑談をしながらもせっせと手を動かしていた。画用紙や書類がめいめいの前に広げられている。各部屋に掲示する制作の試作品づくりや仕上げだったり、月案、週案、個別の報告書などの書類書きだったり、彼女ら――男性も少人数はいるが、圧倒的な女性社会だ――の仕事は尽きることが無かった。
私自身はその保育園の事務員にすぎなかった。園に勤めていながら資格も知識もなく、子どもとじかに接することはほとんど無い。今は作業テーブルに背を向け、個人用のデスクに向かい、会社へ提出する一か月の末締めの書類を作成していた。
「お疲れ様です、お先に失礼しまーす」
だが、午後七時過ぎともなると、たくさんの仕事を抱えた保育士たちも徐々に席を立ち始める。彼女たちは明日の朝も早い。『さとの保育園』の開園は午前七時。保護者は出勤前に子どもを預けにくるのだから、当然、普通の企業よりも朝は早い。この時期、早番の先生は日の出前に出勤しなくてはならなかった。
「三田さんは、まだ帰れないんですか?」
一人の先生が、タイムカードを押しながら聞いてくる。新卒の、まだ二十歳そこそこの河先生だ。
園にたった一人の事務員という職種もさることながら、ある特異性により、私は保育士の先生たちから少しばかり遠巻きにされている。そんな中、彼女はいつも屈託無く声を掛けてくれる珍しい人だった。私を特別に慕ってくれているというわけではなく、その若さゆえにか、空気を読まないだけなのかもしれないけれど。
末締めの書類が終っておらず、まだ一時間ぐらいは残る旨を伝えると、
「怖くないですか、事務室に一人って」
と訊いてくる。すると近くにいたやはり新卒の先生が言う。
「三田さんは、幽霊よりも実物のが怖いでしょ」
「あ、そうか。アレルギーありますもんね」
頷き合う二人にどう答えたものか、私は同意も否定もできず、曖昧に笑い返した。アレルギー持ち。一体、どうしてか流布された話だった。
先にも述べた通り、私は保育園に勤めておきながら、子どもに触れることはほとんどない。資格を持っていない者が迂闊に接して何かあっては、園の信用問題に発展してしまう。とは、多少の誇張はあるものの、理由の一つに違いなかった。もちろん、たんに子どもの扱いに慣れていない、子どもが苦手という部分も大きいのだけれど。必要以外、子どもと接しようとしない私を、食物アレルギーになぞらえて、他の職員たちは〝子どもアレルギー持ち〟と呼んでいるようだった。
給食があるこの園では、食物アレルギーを持っている子には代替食が提供される。相手は乳児や幼児であり、職員が細心の注意を払い何段階にも分けたチェックがされた上でのこと。誤食が起きれば、命に関わる大事となる。
一方、私の場合は本当にアレルギー持ちなわけではない。中堅の先生たちは〝子どもアレルギー〟という言葉自体、私本人に聞かせて良い言葉ではないと理解しているが、若い先生たちには伝わっていないようだった。
「無駄話してないで早く帰りなさいよ」
主任が若い二人を追い立てる。今日は園長先生が出張中で、主任の先生はとかく緩みがちな雰囲気を引き締めようと腐心していたが、それに救われた心地であった。
そうして、いくつもの「お先に失礼します」を受け取り、午後八時前には事務室に残っているのは私だけとなった。遅番の先生も二名残っているのだが、最後の子が帰るまでは一人は保育室に、もう一人は戸締りや後片付けで各部屋を回るため、しばらくの間は一人きりになる。
私は立ち上がり、自分のデスク上の照明だけを残して、他の明かりは消した。公設民営とは、市からも、会社からもエコ活動という名の経費削減を求められる。明かりが乏しくなった部屋は、その分気温が下がったように感じられた。
保育園に勤めて一年と少し。三十半ば近くで再就職した職場だった。元々は経営母体となる教育関係企業の本社採用だったのだが、そこでの勤務成績が芳しくなく、わずか数か月で園への異動を命じられたのだ。上司との人間関係が上手く構築できなかったのも一因だろう。
有体に言って飛ばされたわけだ。でなければ、保育園という自分にもっとも縁遠い場所に足を踏み入れようとは思わない。それでも、特別な資格を持っていない独身女がこの歳で正規職員として就いていられるのは、ありがたかった。それなりに給与が安いのはしようがないとしても。
デスクに戻り、首を回し、パソコン作業で疲労した目を閉じる。蓄積された疲れがじんわりと目蓋と目蓋の隙間から滲み出てくるよう。
眉間のあたりを人指し指と中指で押さえ、軽く揉む。事務イスの背に体重を預けると、我知らず、嘆息が漏れた。明るい場所で目を閉じると、漆黒とは違う、もやが重なったような白い闇に覆われる。その中に、ぼんやり、ほの明るい黄色い光が浮かびあがってくる。LEDの照明とは違う、温かな色味のそれ。疲労が溜まった時に起きる症状だった。
月末は処理すべき雑事がたくさんある。保護者から受け取る給食費や諸々の物販費などの収入を計算し、細々とした消耗品を購入した小口を締め、職員の残業申請をまとめて、パートさんたちのタイムカードもチェックしなくてはならない。月初に向けての市役所への報告書作りもある。たかだか一つの園の事務処理ではあるが、定員三百人の園であり、職員だけでも五十名を上回っている。月末近くは残業が続きがちだった。
ふと、今日の夕方、先生たちが話していた話を思い出す。
子どもが宙をじっと見つめている時があるじゃない。なんだろうと思って視線の先を辿ると、そこにいるのよ――
ふっと一人、思い出し笑いをする。嫌な癖だと自覚はしているのだが、気付いた時にはもう遅い。癖とはそういうものだろう。
やっぱり子どもって気づきやすいのよね。そう言っていたのはどの先生だったろう。他の先生たちも皆、同意していたようだったけれど。
私自身、本やテレビで、子どもや動物は霊を感じやすいと聞いたことがある。けれど、個人的にこの考えに賛同していなかった。毎日、ともすれば親よりも長く子どもと接している先生たちに、こと子どもに関して意見するなんて僭越ではあると甚だ承知ではあるけれど。
子どもは気付かない。彼らはある意味、鈍感といえる。
それに気付いたのは、私が外野にいるからにすぎない。決して、子どもたちについて自分のほうが知り得ている、というわけではない。私は子どもにふれることすらできないのだから。
――わたし、彼女の友人なんです。
ふいに、声が聞こえた。そんな気がした。
責めるでもなく、怒るでもない、ただただ硬い声。肉声ではなく、記憶に刻まれたそれは、唐突にこちらを引きずり倒す。気まぐれにうねり、決して途切れることのない波のように。
はっと、目を見開く。重い目蓋の裏に浮かんでいたほの黄色い光は、呆気なく消えた。
私はしばらく呆然と宙を見つめていた。そうするしかできなかった。そのうちに足元から這い上がってくる冷気に身震いし、両腕を抱いて身をすくめる。
事務室の暖房は、午後六時を過ぎると切る慣例になっていた。無駄な居残り残業をさせないための試みだ。残業簿だけをチェックすれば、この試みは功を奏していると言えるけれど、どうしても期日に間に合わせないといけない仕事を抱えている時は辛い。
仕事はまだ片が付きそうにない。ロッカーに掛けてあるコートを取りに行こうか。左右のふくらはぎをこすり合わせながら腰を浮かせかけたその時。
何かが、膝にふれた。
柔らかく、あたたかな、少し湿った感触。
こごっていた足先に血が通う心地だった。寒かったからこそ、そのあたたかさが染み入る。タイツ越しに這う、たどたどしい手つき。
私のデスク前には園長先生のデスクが置いてあり、その足元はテープ、スティック糊、マジックなどの消耗品が詰め込んである段ボール箱で埋まっている。同様に私の足元も廃棄するなり、整理するなりしなければならない書類ファイルで埋まっていた。だから、誰かが――あるいは、何かが――入り込むスペースはない。たとえば、小さな子どもだとしても。
「こら、」
セーターの裾を引っ張られる感触に、苦笑をこぼす。
その拍子に、わずかに下向き加減となり、視界の下端で鮮やかな黄色が揺れた。春の野花を思わせるその色味は、この園で子どもたちが被る布製の園帽子だった。
そして、私は見た。小さな白い手が、帽子のそのまた下から伸びてくるのを。大人の骨格ではない、けれど紅葉と形容するにはもう少しすんなりと伸びた指先。
その手に押されて、キャスター付きの椅子が後ろに下がった。デスクと椅子の間の隙間が広がる。何かが飛び出してきたから。あるはずのない隙間から。
視線を下ろさないように、顔を少しだけ上向きにして、私は飛びついてきたそれを、両手を広げて迎え入れる。
膝に柔らかな重みが加わる。腰に腕がぎゅっと回される。押しつけられた身体からぬくもりが直に伝わってくる。
軽いのに、重い。重いのに、はかない。はかないけれど、あたたかい。力強いのに、ほどけてしまう。
そんな矛盾した不可思議な感触に、くらりと酩酊にも似た感覚を味わう。こんなにも待っていたのは自分の方。
「……ゆう」
声とともに、恍惚にも似た吐息が漏れる。冬用スモックの、少し硬いシャリっとした布地越しに、その小さな存在を確かめる心地で抱きしめた。くふくふと、くぐもった笑い声に耳朶をくすぐられ、私はわずかに腕に力を込める。うっとりと閉じた目蓋の裏では、ほの黄色い光が揺れていた。
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