第8話 思惑



 朝の光が差し込み、鳥の囀りが鼓膜を揺らす。

 意識はゆらゆらとたゆたう。掴もうとすれば逃げる逃げ水のように、アンネリーゼの意識は覚醒を拒んでいた。

「アンネリーゼ様、アンネリーゼ様」

 アンネリーゼはやっとのことで目を開けた。彼女がいるのは彼女に与えられた客間の寝台である。ぼんやりとする意識と相まって、アンネリーゼは何もかも夢の向こうに押しやろうと、再び目を閉じる。

「アンネリーゼ様! 陛下はもうご出発なさいましたよ」

 その言葉に、アンネリーゼの心臓は鷲掴みされた。慌てて飛び起きる。

「陛下? ご出発って?」

「ああ、ようやっとお起きになられて…。あまりに無体なことはと申し上げましたのに…」

「え?」

 テレーゼは人形のような面に、珍しくほっとした表情を浮かべている。

 そして、まだ寝ぼけているような状態のアンネリーゼに、蒸したタオルを手渡してきた。アンネリーゼがそれをおとなしく受け取り顔に当てると、テレーゼはアンネリーゼにこう言った。

「陛下はブロイツェン伯爵とご一緒に狩りに出かけられました。何やら、狼が降りてきているそうで、陛下は狩りの名手ですから。アンネリーゼ様はどうお過ごしになりますか?」

「私は……」

 特にやることなど浮かばない。答えられないままに、テレーゼに促され、朝の支度を終える。

 テレーゼはどこか上機嫌で、「これくらいはよろしいでしょう」と言って、アンネリーゼの髪に編み込みを入れ、真珠のピンを差した。

 アンネリーゼの顔には昨日までとは違う、仄かな色香が漂う。匂い立つような美しさを放っていた。

 甘い蜂蜜色の瞳はしっとりと潤み、形のよい眉の下で輝いている。陶磁器のような透き通った白い肌に、つっと筆で刷いたように通ったつつましい鼻。熟れた果実のような唇。頬骨から顎まではなだらかだ。なよやかでほっそりとした肢体も、一目見たら忘れられないであろう妖精のごとき姿だ。金色のおくれ毛が顔の周りに散っているのが、朝の光を反射して、アンネリーゼの周りを光の精が舞っているように幻想的に見せていた。

 朝食はテレーゼに給仕されて、そのまま自室で取った。

 パンケーキとベリーのジャム。卵料理に温野菜。果物と、キッシュやケーキも用意されていた。食欲はなかったが、テレーゼの勧めを断り切れず、アンネリーゼは少量ずつ料理を口にしていった。

 不思議なもので、口に入れてしまえば、舌は味を感じる。飲み込むと、次も口を開けてもいい気がしてくる。

「昨夜はあまり召し上がっておられませんでしたから」

 そう言ってから、テレーゼは手にしたナプキンを揉んだ。

 きっと、テレーゼはアンネリーゼの身に起きたことを知っているのだ。

「テレーゼ、あなた、昨日私に、陛下はこちらへ来る理由が必要だったと」

「……はい、確かにそう申し上げました。アンネリーゼ様、こちらは陛下にとって万全な土地であるとは言えません。アンネリーゼ様もくれぐれも御身を危なげになさりませぬよう。アンネリーゼ様の身に危険が及べば、陛下は何を置いてもアンネリーゼ様のもとへいらっしゃるでしょうから」

「そんなことないのよ。ディートリヒ様にとって、私は物珍しいおもちゃみたいなものなの」

 口にしてみると、存外にアンネリーゼの心は沈んだ。

「まさか! 陛下が白蛇公とまで言われたのにはわけがあります。人の血が通っていないのではと思われるほど、ものごとに対して執着をお持ちになられないのです。王位すら、陛下にとっては煩わしいものなのでしょう。即位の折には、ご自身の執政の障害となる者をことごとく処刑されました。その姿に畏れ、手のひらを返して、恭順の意思を示した先王の臣も多かったのです。彼らは、陛下の治世が進むにつれ、淘汰されて行きました。結局のところ、心から陛下に服従した臣しか、今の王宮には残っていないのです。けれど、その者たちにも、陛下はお心を許しておられるわけではありません。陛下は常におひとりであられるのです」

 ディートリヒのような麗人が孤独であるというのはなかなか承服しがたかった。女性ならば誰だって、ディートリヒには見惚れてしまう。姿かたちの美しさと、滲み出る内面の力強さが彼にはあると、アンネリーゼは思う。

「ディートリヒ様は、遊び人だって」

「誰ですか! そんなことを吹きこんだのは!」

 目をぱちくりさせるアンネリーゼの前で、テレーゼは大声を出したことに恐縮した様子で、「確かに一時の遊び相手もおりました。けれど、それは一晩限りのお相手です」と小声で付け足した。

「陛下にはアンネリーゼ様が必要なのです。アンネリーゼ様に、陛下をつなぎ止めて置いて頂けねば、私達に未来はありません」

 テレーゼはそう言いきると、いつもの無表情を顔に張り付け、朝食のワゴンを下げるために退室した。その表情の下に、憤懣やるかたなしといった感情が隠れているように、アンネリーゼは思った。




 午後になっても、アンネリーゼは、起き出したのが遅かったのもあり、自室でテレーゼが持ってきた本をめくって過ごしていた。体は重く、頭の中はふわふわとして、自分の形がすっかり曖昧になってしまったようだ。

 テレーゼはそんなアンネリーゼの周りを、花の周りを飛ぶハチドリのように世話して回った。ちょっとした所作に、テレーゼからアンネリーゼへの好意が感じられて、アンネリーゼは戸惑ってしまう。

 城の使用人たちは、ほとんどが先代のヴァイゼンブルク公爵の代から働いている。先代ヴァイゼンブルク公は、ディートリヒの大叔父にあたる。大伯父が没してのち、空位だったヴァイゼンブルク公爵位と、城、そして使用人をそのまま譲り受けたのだ。

 従って使用人たちは年嵩の者が多い。テレーゼのように若い使用人は数名しかおらず、ブロイツェン伯爵の紹介で新たに雇った者たちだった。とはいえ、テレーゼはブロイツェン伯爵に仕えているという風ではない。これについては、はぐらかされてしまった。

 鏡に映る自分を見てみれば、見慣れた姿はそこにはない。

 輝く亜麻色の髪を長く垂らして、とろけるような琥珀色の瞳をした女性がそこにいる。

 鏡の中の女性は、積み上げられた本の下の方から、一冊の本を引きずり出す。昨夜呼んだ挿画の美しい、おかしな神様のお話の載った本だった。

「お寛ぎのところ申し訳ありません。ピートル様が、アンネリーゼ様とぜひ午後のお茶をご一緒にされたいと。どうなさいますか?」

 テレーゼは言外に断ってもいいと伝えている。アンネリーゼは苦笑した。それにしてもピートルはディートリヒ達と狩りに行く筈ではなかったのか。それに対してはテレーゼも首を傾げていた。

「お受けしますとお伝えして」

「ですが」

「今の私には、ディートリヒ様とお会いするより、ピートル様とのお茶の方が随分気が楽だわ」

「アンネリーゼ様。ピートル様について、あまりよい噂は聞きません。もとから奢侈を好まれる方でしたが、最近ではギャンブルにも相当つぎ込んでいると。娼館にも頻繁に足を運ばれいていると聞きます。アンネリーゼ様に近づこうとするのは」

「ディートリヒ様に取り入ろうとしているのかもしれないわね。それならそれでいいわ。彼にとって、私は取るに足らない平民の女教師よ。それが誘いを断れば、陛下の威光を嵩にきてと思われるわ。ひいては、陛下ご自身の悪評になるかもしれない」

 アンネリーゼは、自分の言葉に頬を殴られたような気がした。

 ディートリヒにとってアンネリーゼが取るに足らない存在であったとしても、アンネリーゼが取るに足らない存在であるわけではない。アンネリーゼの価値を決めるのは、アンネリーゼなのだ。アンネリーゼの行動一つで、ディートリヒの評判に傷がつくかもしれない。逆説的には、この件において、アンネリーゼはディートリヒを守ることができるのだ。

 破れかけた恋の思い出に、恋しい人を守る? そうではない。

 アンネリーゼは証明するのだ。アンネリーゼ自身を。

 確かにディートリヒとアンネリーゼには身分の差がある。自覚したこの恋は、決して叶うことはないだろう。例え身分の差がなくとも、ディートリヒと思いが通じることはないと思われた。

 だからといって、自分から否定してしまうことはできなかった。アンネリーゼが初めて得た恋は、今や、アンネリーゼの魂の奥底に座しているのだから。

「私、あなたには弱々しいところばかり見られているかもしれないけれど、そこいらの男の人には負けたことがないの」

 見ること、聞くことの全てを、恋の形見にしよう。

 そして、この恋に恥じることなく、アンネリーゼは行動するのだ。誇りを持って。






 ピートルとの茶会は、北の庭園の東屋で行われた。

 客室まで迎えに来たピートルに誘われ、庭内は屋根のない小さな馬車で移動した。

 城の敷地は広大で、そうしないと時間ばかりかかってしまう。

 テレーゼは馬車には乗らなかった。

 ピートルとの茶会は、実に不愉快で退屈だった。

 彼が話すことは、社交界の噂話ばかり。特に悪評を語る時のうれしそうな顔は、整った顔であるというのに醜悪にしか見えなかった。

 優越感を発揮するために、他者を貶める行為の幼稚さに、ピートルは気付いていない。

 アンネリーゼは眉宇を顰めることもしばしばであったが、そんなアンネリーゼの様子にも気付かないのだ。

 しかし、裏を返せばピートルは実に単純な男だった。

「僕の衣装は、陛下と同じ仕立屋で作っているんです。けれど御覧なさい、陛下のご衣装にはこんなレース飾りはついていないでしょう? わざわざ外国から取り寄せたんです」

「とてもよくお似合いですよ」

 アンネリーゼの胸元を舐めるような視線からは、性的な興味が伝わってくるし、ディートリヒに対する複雑な感情も手に取るように伝わってきた。

 彼はディートリヒに、憧れながら嫉妬しているのだ。衣装を真似、立ち居振る舞いを真似。まねたところで、衣装はごてごてと飾り付け過ぎて下品に、立ち居振る舞いはまったく洗練されず、ディートリヒのような支配者らしい存在感と言うよりも、幼稚な粗暴さばかりが伝わってくる。

「本当に、陛下があなたのような女性とねえ。いや、あなたは確かに美しいですが。あなたの唇の甘さを、僕にも分けて頂いても」

「まあ、このタルト、とっても甘くておいしいわ。どうぞ」

「え、いや、うむ」

 女遊びやギャンブルもディートリヒの真似だとすれば、アンネリーゼは内心頭を抱える。

「アンネリーゼ嬢はどんな遊びが好きだい?」

「私は、読書が好きです。この国では図書館や教育施設に本が充実していますし、貸し出しも自由ですから」

 ピートルは、鼻白んだ様子で、カップを口元に運んだ。

「まあ、女性はそんなものかもしれませんね」

 そうだろうか。ディートリヒは男性だが、自分の図書室を持っていた。

 あの図書室には、読書家のアンネリーゼが読んだことのない本がたくさんあった。

 ディートリヒはあれらの本を全て読んだのだろうか。

 国王という身で、決して忙しくないということはあるまい。この国の全てを一身に背負っている身だ。

 ディートリヒのことを思い出すと、アンネリーゼの胸は疼いた。

「ピートル様、本はお読みになりますか?」

「本? そんなもの読んでる時間などないよ。僕は最近ビリヤードに凝ってるんだ。君は知ってる?」

「本はいろいろなものを与えてくれます。何よりも、自分自身を見つめるかけがえのない時間をくれます。ピートル様には、ご自身を見つめるお時間が必要なのではないかと感じました」

「時間? なぜ?」

 ピートルのクラヴァットにはお菓子屑がついていた。まるで小さい頃のニコラスのようだとアンネリーゼは思った。

「ピートル様は、うわべばかりを着飾っているように思い受けます。陛下の真似をしても、陛下のようにはなれません。ピートル様にはピートル様のよいところがきっとあるはずです。私は長いこと教師をしていました。どんなこどももそうです。教師と言うのは、こどもが持っているものを見つけ、磨いていく手伝いをする仕事なのです。きっと、ピートル様はご自身の良い性質に気付いてらっしゃらないのだわ」

 お茶を飲んで小一時間経った頃だろうか、そろそろ夕暮れも近づいて、まだ春の浅いヴァイゼンブルク城にはひたひたと夜の寒さが忍び寄る。

「そろそろお開きにしませんこと。ブロイツェン伯爵様達も御戻りではないでしょうか。そういえば、ピートル様はどうして今日の狩りに行かれ…ません……でし…たの?」

 おかしい。呂律が回らない。アンネリーゼは自分の口元に手をやった。痺れている?

 その様子を見て、アンネリーゼの言葉に豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたピートルが一転、悪戯が成功した悪ガキじみた下卑た表情を浮かべ頷いた。

「僕は父上に野暮用を申しつけられてね。狩りは遠慮したんだ」

 アンネリーゼは腰を浮かせようとした。しかし、うまく力が入らない。

「やっと薬が効いてきたみたいだ! やっぱり平民はいろいろ鈍感にできてるんだなあ!」

 テーブルに上半身を倒れかけたアンネリーゼのもとに、ピートルは席を立ってテーブルを回り込む。

「きゃっ…」

 アンネリーゼの髪を掴んで、ピートルは彼女の顔を上げさせた。ピートルの瞳はまるでガラス玉のように空虚だ。

「痺れ薬さ。君には僕たちの役に立ってもらう。陛下が死ねば、父上が僕をこの国の国王にしてくれるんだ」

 グランツェンラントは南には海に面し、北には高い山脈を持つ国である。

 西国と東国、更には海路をつなぐ中継地点として、また豊富な鉱山資源を持つ国として、常に侵略の脅威にさらされてきた。

 国は強い王によって守られてきた。軍を整備し、侵略される前に侵略する。領土の取り合いは、国民を疲弊させたが、そうせねば国が危うい。

 専制君主制の下、歴代の王は戦争と和平を繰り返した。先代の王まではそうであった。

 国王は軍隊の指揮権を持ち、国王の権力を制限するものは何もない。

 ディートリヒの父は勇猛果敢に自ら軍隊を率いた。ディートリヒの母は、そういった王が行った戦の結果、国を亡くした王女であった。行軍の途中に滅ぼされた小国の姫であった母は、何もかもを奪われて、だが、心だけは守るために、精神を病んでいった。

 そういった経緯もあってか、ディートリヒは戦争を極力避けた。政治的な条件交渉で、自国の利益を守りつつ、他国をけん制した。どちらかといえば、自国の繁栄のみを追求してきたこれまでの政治と全く方向転換して、自国と他国、どちらにも利益が出る道を提案していった。

 戦争がなくなれば、民衆の生活は安定する。生産活動は活発になり、文化的な発展も進む。更にディートリヒは教育に重きを置いた。彼が布いた教育制度によって、優秀な若者が大勢輩出された。若者たちは、国の様々な分野で活躍し始めている。

 アンネリーゼは、教師という立場からそれを身にしみて理解していた。アンネリーゼが生徒に教え、生徒が学ぶ、その土壌が整備されることのありがたさを。

 そして、この瞬間、多くの実りをもたらした大地を耕したのが、ディートリヒその人なのだということを改めて知った。

「あなたが国王になんて……」

「なれるのさ。父上は軍部と一緒に革命を起こす。強いグランツェンラントを取り戻すんだ! そして、その王座には僕が座る。君は美しいから、僕の妾くらいならしてやってもいい」

 悦に入るピートルの像が、アンネリーゼの視界の中で次第にぼやけていく。

 アンネリーゼの体がテーブルに倒れ、食器が落ちて割れる。

 ピートルの手がアンネリーゼに伸びる。

(助けて……誰か…! テレーゼ! ……ディートリヒ様……!)

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