第6話 ヴァイゼンブルクへ




 翌日、国王の紋章の入った馬車で、アンネリーゼとディートリヒは、ヴァイゼンブルクへと向かった。

 ヴァイゼンブルクはヴァイゼンブルク公爵領、つまりはディートリヒの領地である。

 北には山脈が聳え、国境にもなっている。連なる山々の中で、夏でも雪を冠した一際峻厳な山は白峰と呼ばれている。山越えの宿場町として、また貿易の要所として、ヴァイゼンブルクの中心地ヘクセンは活気に溢れていた。鉄道の駅もあるヘクセンは地方都市としてそれなりの規模を有していたが、街を出れば農村が疎らに存在する、広大な穀倉地帯である。アンネリーゼはヘクセンの学校で幾つかの農村から通ってくる生徒を教えていた。

 代々、王弟といった公爵が引き継いできたヴァイセンブルクは、歴史がある分、閉鎖的で保守的な地方であった。革新的な南の交易都市トーアと比較されることも多い。

 先王には、隣国から迎えた王妃がいた。王妃は一男一女を産んだが、そのどちらもが幼くして亡くなった。以来、先王と王妃の仲は冷えた。冷えるほど、王の妾は増えていった。

 ディートリヒの母は、奴隷として売られてきた亡国の姫であった。当時の貴族たちは珍しい奴隷を手に入れ、見せびらかすことに富を継ぎこんでいた。高貴な姫君を奴隷とすることは、彼らの虚栄心を刺激した。彼女はこの国の人間はもちえない、黄金色の肌と、アメシストのごとき紫色の瞳、髪は星のように光沢きらめく美しい黒色であった。

 王の子を産んだ後も、一度は奴隷に落ちた身と、口さがない貴族たちは陰口をやめなかった。

 彼女は次第に心を病み、ディートリヒが12の頃、自ら死を選んだ。

 妾腹のこども達の中には、ディートリヒよりも年嵩のものもいた。しかし、流行病でディートリヒだけを残して、みな早世した。

 ディートリヒが王位を継ぐことが決まる以前に、彼はヴァイセンブルク公爵位を得ていた。ディートリヒが王となってからは、ビートルの父であるブロイツェン老伯が領主代行をしている。

「顔色が悪いね、アンネリーゼ」

「ええ、少し…」

 昨夜は、なかなか寝付かれず、アンネリーゼは明け方ごろ眠りについた。浅い眠りの中でアンネリーゼは夢を見た。夢というものは大概目覚めたときにはどんな夢だったが思い出せない。

 馬車の旅は、鉄道よりも緩やかに進む。ディートリヒを意識せざるを得ない空間の密接さは、アンネリーゼに緊張を強いた。

「少し眠るといい、起こしてやろう」

 ディートリヒは頬杖をついて窓の外を見ていた。神の彫刻しても、これほど美しい横顔は掘り出せまい。

「どうして、陛下は、そんなに……やさしくしてくださるのですか? 私のような者に」

「それではまるで、ひどくしてくれと言っているようだな」

 考えなしに口にした言葉に、アンネリーゼは自分の軽率さを後悔する。

 彼女は顔を赤らめて下を向いた。

 そして、黙りこくって馬車に揺られているうちに、うとうとと寝入ってしまった。

 ディートリヒに肩をゆすられ、はっと目を開ける。

「さあ、着いた」

 馬車の外には、懐かしい風景が広がっていた。

 遠くに広がる田園。風除けの木々に囲われた、小さなレンガ造りの家。

「私の家……!」

 アンネリーゼは蜜色の瞳を零れ落ちんばかりに大きく見開いた。






 つい二週間前までアンネリーゼが住んでいた家は、それでも人気がなくなったせいか、そこにさびしく建っているように見えた。

 管理は、近くの農家に頼んである。王都に比べ治安は劣るところがあるか、それでも長閑な農村地帯である。家が荒らされているようなこともなかった。

 ディートリヒに手を取られ、アンネリーゼは馬車を降りた。

(懐かしい)

 手になじむはずのドアノブが冷たい。

 ここに住んでいたのは確かにアンネリーゼ。ひっつめ髪に眼鏡をかけた、冴えないオールドミス。アンネリーゼの脳裏に浮かぶのは確かにそうであるのに。

 立ちすくむアンネリーゼの亜麻色の髪が風に巻き上げられ、なびいた。

 そこにひとりの農夫が荷馬車で通りかかった。

 ディートリヒとアンネリーゼを見て農夫は急いで荷馬車を降りた。どこぞの貴人が訪れたと思ったらしく、ぎこちなく礼を取る。老齢に差しかかった農夫は、馬車の紋章を見て、腰を抜かしかけた。

「この家は?」

 ディートリヒが問うと、農夫は興奮した様子でべらべらとしゃべり始めた。

「えらい学者先生が住んでおられたんですよ。それが随分前に亡くなられて、娘さんと、ひきとった男の子が残されて。弟っつってね、かわいがってましたけども。

 その娘さんは、ええと、何というかねえ、不器量で、嫁にもいかず、義理の弟を育てておりました。教師をしてね。年頃の娘が仕事をするなんてみっともないと、さんざ言ってやったんですけどねえ。貰い手もありませんでしたし、金も必要だってんでね。弟をいい学校に行かせるって。弟はかわいい子でしたよ。ええ、そりゃ姉さんとは大違いで。

 でも、あの子、アンネリーゼがいなくなったのを村中の子がさびしがって。

 いえね、あの子は街の学校で教師をしていて、ここらの村のもんはみんなそこに行くんです。ありがたいことで、学校に行けるようになって。これがもっといい仕事を貰えるって、王立学院で働くことになったって、挨拶にきましたね。

 学校には新しい先生が来たんですけども、うちの孫なんかが申すには、勉強も、次の先生じゃわかりにくいって。アンネリーゼが先生の方がよかったってね」

「その不器量な娘とやらは、よっぽど優れた教師だったのだな」

「そりゃもう、子供たちはみんな慕っていましたよ。あの子のおかげで読み書きがきちんと身について。帳簿が付けられるとか、街に行って立派に働いている若者だってたくさんいるんです。お嬢様のように美しくはありませんでしたけどねえ。立派な子でしたよ!」




「あたしゃもう帰りませんと! 明日は待ちに待った春祭りですから! ぜひいらして下さい、村長の家で歓待するでしょう。高貴な方々が訪れて、村長が目を剥く顔が目に浮かびますわ!」

 農夫が去ってもアンネリーゼは家に入らなかった。

 気づいたのだ。鍵がないことに。そして、自分の視野が狭かったことにも。

 庭木には果実がなっていた。まだ採る時期には早く、鳥達に啄まれてもいない。

 果実は己で己の時期を知るまい。本来なら種を守る果皮が、甘い果実を孕む。生き物の糧となり、運ばれ、いずれどこかで芽を出す種もあるかもしれない。

 それでも、果実はここにあり、アンネリーゼの手にもぎ取られることがあっても、それを受け入れるだろう。

 ディートリヒが手を伸ばして果実をもいだ。そして、アンネリーゼの手に乗せる。

 アンネリーゼはそっと唇を寄せた。大好きだった果実。農家が丹精したものではないから、酸っぱく甘みの足りない果実だった。しかし、アンネリーゼは小さい頃からこの実が好きだった。

 手の中の実は、まだ未熟で青い。幼いアンネリーゼは、赤くなるのを待って、毎日枝を見上げた。

 ぽろ、とアンネリーゼの頬に涙が溢れた。一度溢れだすと涙は止まらない。

 ディートリヒがアンネリーゼの背中に手を回す。ぞくりとした。

 この腕は、アンネリーゼを壊そうとしている。今までアンネリーゼが身につけてきたものを全てはぎ取ってしまう、そういう残酷さを持っている。

「好きであろう?」

 ディートリヒは何がとは問わなかった。だから、アンネリーゼは

「好きです」

 と答えた。





 ヴァイゼンブルクは鉱山資源に富んでいる。

 また、良質な岩塩の産出地でもあった。それらの収入は領主の裁量で、灌漑や防災といった目的、教育福祉の面で使われていた。税は多くない。また、慶事の際には領主からは岩塩が振舞われるといった、領民にとって住みやすい土地であった。

 峻厳な峰を背中にしたヴァイゼンブルクの気候は厳しい。中でもひときわ鋭い尖塔となり空を貫く山は白峰は、真夏でも白峰の雪冠は消えることなく、氷室の氷として切り出されていた。

 領民たちは森の獣を狩り、農地を耕して暮らしていた。穀物は保存の効く大事な食糧源だ。

 春が来て種を撒き、夏は額に汗して世話をし、秋に刈り取る。

 長い冬の間、人々は家の中で暖炉を囲んで集まる。雪は降り積もり、村を閉ざす。

「明日は春祭りなんですね」

 村によって春祭りの祭式は異なっている。

 春の訪れを感謝し、秋の収穫を祈願するという点では同じだが、地方によって気候も異なっている。それぞれの村で春を象徴する祭事を行う。

 この村では、白峰に見立てて藁を高く積み上げ、そこに火をつける。炎が高く燃え上がるほど秋に豊作であると信じられていた。

 冬の間鬱屈した人々の生活は春になり野山に解き放たれる。

 祭りは、年に一度の浮かれたどんちゃん騒ぎだ。前の晩は夜を徹して飲み歌い、踊り騒ぐ。

「お前は前夜祭から参加したのか?」

「私は……行きませんでした。本祭の朝、ニコラスにお小遣いを持たせて、送り出して、ずっと家で本を読んでいました」

「なぜ?」

「なぜ、と言われましても……」

 言葉を濁すアンネリーゼの腰に手をまわし、ディートリヒは馬車に向かって歩き出した。

「陛下?」

「私と一緒ならばよかろう、アンネリーゼ?」

「まさか、そんな、下々の祭りに陛下が行くなんて!」

「私のことはディートリヒと呼べばいい」

 アンネリーゼの腰にまわされた腕は太く揺らがない。衣装の上からではほっそりとしてさえ見えるディートリヒだが、力強さはアンネリーゼの比ではなかった。

 何とか距離を取ろうとするも、むしろぐいと引き寄せられてしまう。陛下、陛下と声をかけても無視されてしまう。

「ディ、ディートリヒ様」

 口に出してしまえば、その響きはウィスキーボンボンのようだった。舌に甘い痺れを残す。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返すアンネリーゼに笑って、ディートリヒは少しだけ腕の力を弱めてくれた。

 困惑と恥じらいに頬を染めるアンネリーゼの顔に、先ほどまでの憂いは薄れていた。




 村長の家では、先ほどの農夫が言伝たとのことで、すでに二人を迎える準備がされていた。

 とっておきの果実酒を渡され、木の実を割って作った小さいコップを干せば、宿として用意された離れに通された。

 案内をした太り肉の中年女が、ふたりに祭りの衣装を手渡す。

「来る途中にご覧になったでしょう。広場の天幕では酒が振舞われています。もう少しして火がくれれば、かがり火をともして、そうそう、旅芸人達の演奏もご覧になれますよ!」

 ディートリヒが渡した手間賃をほくほく顔でエプロンのポケットに入れ、ちらちらと二人を見比べながら、中年女は離れを出て行った。

 後に残されたのはディートリヒとアンネリーゼである。

「あの、陛下…陛下……ディートリヒ様」

「何だ?」

「ずっと気になっていたのですが、警備や、陛下の身の回りをする者は必要ないのでしょうか?朝から、私とへい…ディートリヒ様の乗った馬車しか見ていません」

「警備の者は見えぬだけでおるから案ずることはない。身の回りのことは自分でできる。お前も知っているだろう? 私は妾腹の王子だった」

 ディートリヒは首元を緩めた。

 覗いた喉仏が艶めかしく上下する。そのまま上着のボタンに手がかけられ、アンネリーゼは急いで背中を向けた。

「お着換えになるのですか?」

「ああ、アンネリーゼ、お前も」

 頭の上に先ほどの衣装が降ってくる。ディートリヒが投げたそれは、大きく胸元のあいたフリルのついたブラウス、ひもで締めあげる形の胴衣に、ペチコートが何重にもついたスカート。麻と毛織物で作られた衣装は、軽く温かい。

 この国では、絹や綿は一部の上流階級の人間しか身につけることができない。先王の時代、社交界では、湯水のごとく金銭を投じてそれらの高級な素材を使って衣装を作り、競い合うことが粋であるとされていた。ディートリヒに王位が移ってからは、質実剛健が尊ばれるようになり、どちらかと言えば簡素な衣装が好まれている。しかし、それでも布はたっぷりと使われ、首元から足元まで覆っていることが殆どであった。

 反して、庶民の衣装は、露出が多くなっている。労働には長い袖も裾も邪魔でしかない。

 アンネリーゼが持っている衣装も、スカート丈は膝下までだ。好んで長い裾の衣装を纏っていたアンネリーゼには心もとない。

「私が着せてやろうか? アンネリーゼ」

「結構です! こちらを向かないで下さいね!」

 アンネリーゼは衝立の蔭に隠れ、急いで衣装を着替えた。






 酒の匂い、肉が焼ける音、笑い声、ざわめき。

 村の広場に闇が満ちてくると、炎の中に人々が映し出された。

 子どもたちは皆家に帰され、大人だけが残った広場は、まるで別世界だった。

 天幕におかれたテーブルの上には、ゆでたジャガイモが山となり、香草を乗せて焼いた肉が乗った皿の隣には、燻製にした肉と野菜を一緒に煮たスープがなみなみと満たされた鍋が置かれている。

 家畜を追う男も、鍬を持っていた男も、赤ん坊の世話に明け暮れる女も、家で縄を編んでいた老人たちも、今はみな、日常を忘れ飲み、騒いでいる。

 樽を並べた仮設舞台に、ターブラを持った男が上がってくる。ついで、ギターラ、ヴァイオリン、フルート。

 調音が済んで、楽団の演奏が始まった。

「いい腕だな」

 刺繍のついた丈の短い上着と、ぴったりしたズボン姿のディートリヒも、闇に助けられ、悪目立ちすることはない。

 けれど、近くを通り過ぎる村人、特に女性が振り返って行くようにアンネリーゼには思えた。アンネリーゼはそれが居心地悪く、ディートリヒから離れようとするが、腰を抱かれていて離れようがない。

 祭りの衣装を纏ったアンネリーゼは可憐としか言いようがない。肌は透けるように白く、スカートの下から伸びた脚はすらりと形良い。豊かな胸と反対にほっそりとした胴が、膨らんだスカートで強調されている。

 髪はやはり結ぶことは許されなかったが、祭りの時だからと羽飾りの簪を差すことが許された。

 振り返るのは女性ばかりではないことに、アンネリーゼだけが気付いていない。

「本当に。彼らは、南の国から流れてきたんでしょうね」

 更に歌と踊りが加わる。

 踊り手は二人いて、男と女は時に滑稽に、時に情熱的に歌に合わせて踊る。

「明日はマリオネットがあるから、こどもたちは、とても楽しみにしているんです」

 アンネリーゼの脳裏に、今までの生徒たちの顔が浮かぶ。

 ねえ、先生、お祭りは楽しかったよ、先生、マリオネットがこーんな動きをね! 喜びと興奮に輝いた彼らの顔がひとつひとつ浮かんでは消える。

 最後に、アンネリーゼの母、マリアの顔が浮かんだ。

『アンネリーゼ、お祭りには行かないの?』

 母はベッドの中で気遣わしげに微笑む。

『私は行かないわ。だって、お家で本を読んでいる方がずっと楽しいもの!』

 アンネリーゼが物心ついてからずっと、母の容体は思わしくなかった。

 南方の育ちの母には、ヴァイゼンブルクの気候そのものが合わなかったのかもしれない。

 ヘクセンは山脈越えの宿場町として栄えてきた交易都市でもある。しかし、商人を始めとした多種多様な人々の流入があるというのに、ヘクセン・ヴァイゼンブルク地方は排他的であった。

 その土地の空と山々だけを映して生きてきた人々は保守的で、極端によそものを嫌った。

 マリアも、彼らにとってはよそものだった。

 歌と踊りの名手だったマリア。けれど、決して家以外でそれを披露することはなかった。

「……私の母は、旅芸人の一座の踊り子だったそうです。王都で父に見初められて、父と結ばれました」

 父は学者として優れていた。けれど、家庭人としては劣っていた。

 優しさは時にだらしなさになり、探究心ゆえに家庭を顧みなくなることもあった。

 マリアの死後、ニコラスを引き取ったのは、彼の真心ゆえの行動だったことは疑うべくもないが、ニコラスの養育について先々を考えていたわけではなかった。

 アンネリーゼはニコラスの姉として、また母代りとして、母が死んだ後、リンツ家を切り盛りしなければなかった。

「私は、卑しい女芸人の娘、と言われて育ったんです」

 マリアが亡くなって、ハインツとアンネリーゼだけの暮らしが始まると、周りからの冷たい目はアンネリーゼに集中するようになった。多くの保守的な村人たちは善良だった。だから、アンネリーゼを傷つけてきたのはごく一部の人々であった。しかし、それでも母を失った少女の心を切り裂くには十分であった。

 もっとひどいことも言われた。何かものがなくなれば真っ先に疑われた。胸が膨らみ始める頃になれば、もうすぐ母親のように男をたらしこむようになるだろう、と言われた。

 いくら、学業で素晴らしい成績を収めようと、悪意は影のように付きまとう。父は影の脅威からアンネリーゼを守ってはくれなかった。

 アンネリーゼは心を固く凍らせた。ずっと彼女がかたくなに張り巡らせていた氷の壁が、なぜか温んでいた。

 それが、ディートリヒのせいだということに、アンネリーゼは気付き始めていた。

「母は美しい人でした。歌も踊りも上手で、優しくて」

「お前の美しさは母譲りか」

「私はいいえ、女性らしい魅力はありません。ご存じでしょ、オールドミスって呼ばれてるの」

「私のために花開く時を待っていたと思えばいい」

 アンネリーゼはぽかんと口をあけた。ついで、炎に照らされた上でもわかるくらい、顔を真っ赤にする。

「よくそんな気障な言葉が思い浮かぶものですね」

 ディートリヒがにやにやとしているので、アンネリーゼはからかわれていると思い、ぷいと顔を背けた。

 アンネリーゼのような女に構って何が楽しいというのだろう。

 この祭りにディートリヒがいることだって、本来あり得ないことなのだ。アンネリーゼとディートリヒが隣り合っていることも。

「私は、カッとなって陛下を害してしまった愚かな女です。嫁き遅れもいいところで、学問以外これと言った取り柄もありません。自分が一番わかっています。私のようにつまらない者をからかっても、面白くないでしょう?」

「アンネリーゼ」

 舞台上の踊りが激しくなる。音楽はテンポの早いものに変わっていた。

 ディートリヒの長く美しい指が、アンネリーゼのあごを捉えた。

 強い視線でアンネリーゼの目をまっすぐに射抜いて、ディートリヒは言った。

「アンネリーゼ、私の名前を呼べ」

「陛下……ディートリヒ様」

「そうだ。私はディートリヒ。お前はアンネリーゼ。私の前で、お前はいつも、ただのアンネリーゼだ。今はそれだけでよい」

 ディートリヒが手を差し出した。アンネリーゼの目に、自分の手がディートリヒの手に収まるのが見える。まるで、アンネリーゼの意志とは別に操られているかのようだ。

 信じられない、と言った顔のアンネリーゼに、ディートリヒは微笑みかける。

「踊ってごらん、アンネリーゼ。私がこうしてお前の手を取っていてあげるから」

 アンネリーゼの心臓が大きく脈打つ。

 タブールよりも早くかけ足を始めた鼓動に押されるように、アンネリーゼはディートリヒのリードに身を任せた。

 踊りの輪に加わった二人に、感嘆とも落胆とも知れぬどよめきが起こるが、それもすぐに消え、人々は祭りの夜に没頭していく。

 触れあったところから伝わってくる体温が心地よい。祭りの高揚の中で、アンネリーゼは自分がディートリヒに溶けていくような得も言われぬ陶酔と、体の芯が帯びる熱を感じていた。



 アンネリーゼとディートリヒは祭りを楽しんだ。

 へとへとになるまで踊り、飲み、食べた。

 夜が白み始める頃、眠さに負けそうになったアンネリーゼを、ディートリヒは離れで先に休ませた。

 アンネリーゼはそのまま昼ごろまで眠ってしまい、起きた時にはディートリヒは既に身支度を整えていた。

 領主の城への出発は昼過ぎになった。アンネリーゼは自分の寝坊のせいで旅程に支障が出たのではないかと懸念したが、ディートリヒはそれを否定した。





 彼らが出発する頃、祭りは最高潮に達していた。積み上げられた藁がごうごうと炎を吹き上げる。

 アンネリーゼは乗り込んだ馬車の窓からそれを見ていた。

 御者の鞭の音がして、馬車が走りだす。

「ディートリヒ様はお眠りになられました?」

「私はあまり眠らなくてもいいんだ。だから、お前と会った図書室にいた。眠れないときは、図書室で本を読む。そのうち、部屋に本の置き場所がなくなって、いっそのこと図書館に間借りすることにした。それがあの図書室だ」

 あれほどに近かった二人の距離も、今は馬車の座席と座席に離れている。

 つい昨日は、こうして狭い空間にディートリヒと二人でいることに、息苦しいほどの緊張を感じていたのに、今は立ちあがって手を伸ばせば触れられるほどの距離に寒さを感じていた。

 アンネリーゼは伸ばしかけた手で、胸元にショールを掻き寄せた。

 まるでいつもの自分じゃない。アンネリーゼは胸中で呟く。

(私は、ディートリヒ様に触れてほしいと思っている)

 一度味わったぬくもりは忘れ難かった。ぬくもりに飢えていたことに気付かないほど、凍えていたアンネリーゼには尚更のこと、ディートリヒに与えられたぬくもりが恋しかった。

(だめ、アンネリーゼ。よく考えて)

 感情に振り回されたくない。アンネリーゼは習い性から、感情に蓋をしようとする。

「アンネリーゼ、寒いのか?」

 彼女の胸中を知ってか知らずか、ディートリヒがアンネリーゼに手を差し伸べる。

「こちらへおいで」

 囁きは蜜のように甘かった。

 彼女が旅装に纏ったドレスは、青いシルクタフタで、彼女の白い肌をより一層白く見せていた。控えめに開いたデコルテに、うっすらと血管が浮かぶのが艶めかしい。26歳という彼女の年齢にふさわしい成熟した肉体と、どこか幼く純真な精神は絡みあって、危うげな旋律を奏でていた。

 ディートリヒは、アンネリーゼを自分の膝の上に座らせた。ディートリヒに顔をのぞき込まれる。目をそらせないアンネリーゼは、薄く唇を開けて喘ぐように吐息した。

「お前の体はお前以上に雄弁だ」

 アンネリーゼは弱々しく首を振った。

 意志の力がうまく働かない。ディートリヒの腕の中に収まると、喉をくすぐられる猫のように体から力が抜けた。

「舌を出してごらん。吸ってやろう」

 アンネリーゼは再度首を振った。腰も浮かせようとするが、こちらはディートリヒの指が食い込んで動かせない。

 長身でほっそりして見えるディートリヒだが、身のこなしを見ていても、十分な筋力があるとわかる。彼はゆったりと歩くが、それは鈍重な運びではない。獲物を追い詰めるための計算された歩みなのだ。

「お許しくださ……」

「さあ」

 琥珀色の目を潤ませて、アンネリーゼはおずおずと舌を出した。熟れた果実のような唇の間から、濡れた舌先が覗くやいなや、ディートリヒが吸いついた。

「んっ……ふぅ……」

 アンネリーゼにとって二度目の口づけは、一度目よりさらに深く執拗だった。

 口づけの合間に、ディートリヒの指がドレスの上からアンネリーゼの体をまさぐる。

 やわらかい尻に、彼の指が食い込む。握るように揉まれると、アンネリーゼは痛みすら感じて震えあがる。そして無防備になった腋下を通って、ディートリヒの指が胸のふくらみを揉みしだく。遠慮のない動きだった。

 ぎゅっと絞るほど強く握り、やわやわと凝った頂きをあやす。

 悲鳴とも喘ぎともつかぬアンネリーゼの声は、ディートリヒの口づけによって封じられている。

 口づけは囁きより甘く、アンネリーゼの意識は酩酊したように霞む。

 突如、ディートリヒの膝が突き上げられる。膝はアンネリーゼの脚の間にある敏感な部分を擦った。

「ひっ……」

 電流が走ったようにアンネリーゼは体を跳ね上げる。二度三度膝で狭間を押し上げられる。

「やっ……あふっ…ん……!」

 アンネリーゼはたまらず唇をもぎはなし、喘いだ。

 ディートリヒが耳元に唇を寄せる。耳たぶをやさしく噛みながら囁いた。

「アンネリーゼ、濡れているよ」

 いつの間にか、膝と秘部の間にディートリヒの手が差し込まれている。内またを持ち上げるようにして忍び入った長い指が、ある一点を抉る。

「お前をかわいがってやりたい」

 指はまるで別の生き物のように、アンネリーゼの秘部を押し開いた。

 涙でぼやけた視界に映るディートリヒの顔は、うっすらと笑みを浮かべているだけで、いつもと変りのないように見えた。

 けれど、指は容赦なくアンネリーゼを追い上げる。

「いやっ…!やめてぇ……んぅ……」

 力なくディートリヒを押しのけようとするアンネリーゼの両手首を、お互いの体の間に挟み閉じ込め、ディートリヒはアンネリーゼの体を強く引き寄せる。

「あぁ、いたずらが過ぎたかな、アンネリーゼ」

 アンネリーゼはディートリヒの肩に額を押しつけるようにして、初めての絶頂を迎えた。





 さらさらと音がする。

 アンネリーゼがうっすらと目を開けると、そこには光が溢れていた。

 プリズムを通したように色合いを増した光の粒が、馬車の暗がりの中に散らばっている。

 それがディートリヒの銀髪に戯れる光だと、アンネリーゼはしばらくの間気付かなかった。

 アンネリーゼの髪をすくい上げては落とす、ディートリヒの指が、アンネリーゼの頬を滑った。

「よく眠っていた」

 ディートリヒの声が、直接体に響いてきて、アンネリーゼはびっくりする。彼女はディートリヒの膝に上半身を預けて眠っていたのだ。

 急いで起こそうとする体は、ディートリヒに押えこまれてしまった。快感の余韻が腰のあたりに痺れを残している。こういった触れあいでさえ、肌は敏感にディートリヒに反応した。

 アンネリーゼは心臓が口から飛び出しそうな思いをしながら、ディートリヒの膝で身をちぢこませる。先ほど起こったことをどう受け入れればいいのか、強く戸惑っていた。

 また風が入ってきて、ディートリヒの髪を揺らした。

「……髪を結ばれないのですね。身分の高い男性は、みな髪を結んでいるのだと思っていました」

 本当に聞きたいことは他にある。

(あなたは私を弄んで、楽しいのですか?)

 聞くのが怖い。答えを受け取ることも怖い。

 ディートリヒはアンネリーゼに優しい。強引だが、高圧的ではないから、アンネリーゼも被害者ぶることができない。

 かといって、アンネリーゼからディートリヒを求められるわけもない。アンネリーゼにとってディートリヒはあまりにも輝かしい。

「好ましくはないな。引き連れるようで、正直苦手だ」

 ディートリヒの艶やかな銀髪には女物のリボンがさぞかし似合うことだろう。華やかなリボンをして、むっつりとした顔のディートリヒを想像して、アンネリーゼはくすりと笑ってしまった。

「何かよくないことを考えているな」

 アンネリーゼは反射的に体を起こす。すると、目の前にディートリヒの整った唇があって、アンネリーゼは身を固く。

 一気に二人を取り巻く空気が色めく。

(私はこの方と口づけを…。もっとふしだらなことまで)

 ディートリヒはアンネリーゼの考えていることはお見通しだというように、アンネリーゼの顎に手を添え、唇を親指の腹でなぞった。

 体が重い。体の芯が濡らされて、揺れて定まらない。両足の付け根に残った痺れ。アンネリーゼとて、こういった知識がないわけではない。

 しかし、実際にこれが自分に降りかかるとなると、どうしようもなく情けなさがこみ上げてきた。

 ディートリヒの指先の動きにさえ翻弄されて、身も心も、まるでアンネリーゼの思うようにならない。

 アンネリーゼの目が伏せられる。仕草の愛らしさと裏腹に、そこに宿っているのは不安だ。

 唇を撫で、その弾力を楽しんで、ディートリヒはアンネリーゼを解放した。

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