第805話「何も起こってなどいない」

 扉の外は静かだった。

 このフロアに来られるのは宿泊客と一部の従業員のみで、他の宿泊客は侵入を許されていないはずだった。

 ならば、扉の前にいるこの女性は何者なのだろうか。


 服装は従業員のそれである。

 素直にここを素通りなどできはしない。

 気配という気配が感じられないという、一つの違和感が見逃すという選択肢を消してしま。


 存在感がないというのは一見すれば、問題などない物のように思うだろう。

 それも時と場所による。

 今、このシチュエーションにおけるこの女性の存在は異質としか言えない。


 客に不安を与えない為の配慮も無ければ、防犯の概念からの欠如、極めつけは待ち構えるかのように日が暮れてからの来訪。

 疑う以前の問題であるが、今のルナでは分が悪いと初見で感じさせる圧倒的な力の差を隠すことなく露見させたところだ。

 オンオフの切り替えで戦意を喪失させることを目的とはしていないのだろう。


 表情は変わりはしない。

 ルナの頬を汗が流れ落ちる。

 この女性もまた、神域に据える者の一人なのだと思わずにはいられない。


 容姿こそ、何か特徴があるかと言えば特に突出したところが無い、黒髪に中肉中背の人間で人ごみに紛れればもう追うことは適わない。

 そんな人間は存在しない。

 一人として同じ人間がいないのだから。


「久しぶりね。もう数千年も前に会ったきりだから、さすがに覚えてはいないようだけど……。私たちにとっては数刻前のこと、人間に近づき過ぎて失うようなものではないと思うのだけれど?」


「思い出せない……。ボクを知っている……。ボクは……知っている? 敵じゃない!?」


「本当の目的を思い出して……。違う、本当の目的に辿り着かなければいけない。それもこの世界が無くなるまでに、時間はまだあるけど今はその時ではない。また会う日が楽しみね」


 女性は一瞬黄金に輝く翼をみせ消える。

 消える。

 存在。

 

 記憶から消える。

 ルナはこの数刻の出来事が消えた。

 記憶からも、時間からも消えた。


 時間は流れていない。

 起こっていない出来事は思い出すことができない。

 事実が消失したのだから。

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