第3話 回復

 翌日センターの食堂で、朝食をさきと一緒に食べていると朝なのに坂崎さんがやって来た。

「あれ、どうしたのですか? 確か明日だと聞いていましたよ」

 さきが 軽く焼いたバターロールを半分にちぎり、バターを塗りながら尋ねる。みるみるうちにバターが溶けてパンの生地に吸い込まれていく。

「実は昨夜遅く債務者と一緒にこちらに来たのだ。買い付けも今回はこれで終ったので、日を跨ぐよりも良いだろうと思ったのだ」

 坂崎さんは俺たちの隣に座り朝だと言うのにとんかつ定食を頼んでいた。お茶を飲みながら

「昨日、蔦屋殿の所に行ったのじゃろう? 様子は?」

 そう言って心配していた。そこで俺は薬を飲ましたことを言って、これから江戸に行き山城さんと合流する手筈になっていると告げた。

「そうか、ならばワシも行く! 構わないじゃろう?」

 やはり、その為に自分の本来の仕事を早めたのだと理解した。

「それは構いませんが、買い付けの方は大丈夫なのでしょうね?」

「それは今回に関しては済んだ。次回は来月の予定じゃ」

「それなら問題ありませんね。実は五月雨さんからの連絡で例の絵が来月にも競売にかけるとオークション会社から通告して来たのです」

 俺の言葉に坂崎さんも驚き

「なんじゃと! 真贋もはっきりしていない絵を出すと言うのか!」

「そうなんです。それで、オークション会社は鑑定は出光美術館の学芸員が見て本物だと鑑定済だと言ったそうです」

「イギリス支部はどうなってるんじゃ」

「それが、今回のことに関しては、余りにも専門的な分野なので手の出しようがないと……」

 すると、バターロールを食べ終わったさきが口を開いた。

「ま、わたし達もビクトリア朝の美術の鑑定ではイギリスに頼りっぱなしですからね」

 さきはそう言ってハムの添えられたサラダを口に運ぶ。

「ま、こっちの美術品のことだからなぁ」

 坂崎さんはそう言ってカウンターから運んで来た、とんかつ定食に口をつけた。

「やっぱりとんかつは旨いな! 江戸でも食べたいくらいじゃ」

 俺は和定食なのでワカメの味噌汁を飲み、塩ジャケに箸をつける。トレイの上には沢庵のお新香と納豆、それに味付け海苔が乗っている。無論ご飯もある。

「光彩、納豆なら江戸だぞ。ここの納豆は匂いが薄いので不味く感じるわい。それに辛子もなんか違うでな」

 そうなのだ。納豆は江戸の方が病みつきになるくらい旨い。納豆が嫌いならとんでもないのだろうが、匂いもしっかりとしているし、俺は納豆菌も若干違うのではと思っている。それぐらい風味も違う。それに何と言っても辛子が全く違うのだ。本物の和辛子なので辛さが強い。これはあらゆるものの風味が強い江戸時代ならではだった。

「ま、粘り気だけは同じじゃがな」

 そんな坂崎さんだが兎に角とんかつは江戸では食べられないので、センターに来ると必ず食べるのだ。


 食事の後でお茶を飲んでいるとさきが

「今日までは講義があるので一緒に行けません。明日からは必ず一緒に行動しますので、気をつけて行ってらして下さいね」

 そう言って俺の頬に軽くキスをした。

「おい人前だぞ」

 そう言うとさきは平然と

「平安の人はもっと大胆でしたよ」

 そんなことを言いながら訓連センターの方に歩いて行った。その後姿を見送りながら坂崎さんが

「さきもすっかり新造らしくなったな。早く子供の顔が見たいわ」

 そんな事言ってニヤけていた。

「約束は十時ですから、そろそろ転送室に行きましょう」

 俺はそれ以上坂崎さんが軽口を言わないように今日の予定を述べて牽制した。

「おう、そうじゃな。そろそろ行くとしようかい」

 俺と坂崎さんは食堂を出て江戸の人間に化ける為に更衣室に向かう。ここには俺専用に誂えたカツラに着物帯、雪駄などがある。それに身につける。煙草入れなども用意されている。

 着替えて、美容師さんにカツラの調整をして貰い準備は完了した。その間坂崎さんも同心の格好から着流しの若侍の格好に着替えていた。

「十手を懐に入れていないと、なんか軽くて不安じゃな」

「十手は持って行かないのですか?」

「うん、あの時代は未だワシは生まれておらんでな。それに親父殿が見習い同心でお勤めについているでな」

 そうか、坂崎さんが生まれるのは未だ後の時代なのだと理解した。

 転送室に行き、二人で転送装置に入る。エンジニアがカウントを開始してゼロになると一瞬目の前が真暗になり、やがて見慣れた長屋の土間に到着した。土間を上がった六畳の座敷では既に山城さんが待っていた。

「早いですね。未だ時間までには間がありますよ」

 俺の言葉に煙草を吹かしていた山城さんは

「光彩とのことじゃ、きっと時間より早く来ると思っての。それに良い知らせもあるでな。しかし坂崎も来るとは意外じゃて」

「良い知らせとは如何がなものでござろうか?」

 坂崎さんが挨拶もそこそこに尋ねると

「うむ、今朝早く耕書堂の手代がワシの所にやって来てな。『主が、とても気分が良くなりました』と言ってきたんじゃ」

 それが本当なら明らかに薬が効いて来た証だし、これなら思ったより早く回復するかもしれないと思った。

「では直ぐにでも向かいますか?」

 坂崎さんが気の早いことを言うと山城さんも

「そうじやな。様子だけ伺ってこようか? 光彩、あの薬は特効薬だが直ぐに治るというものでもなかろう?」

 そう俺に尋ねてきたので

「そうですね。飲み続ければ確実に全快しますが、昨日の今日では……」

 そう言って二人の気を落ち着かせると

「でも報告の為には確認は必要ですよね。今日確認して回復に向かっている事が確かめられたら、次は十日後でも良い訳ですしね」

 山城さんは俺の言葉を最後まで確かめると

「なら決まりだ。今のうちにお邪魔させて戴こう」

 そう言って長屋を出て表通りに向けて歩き出した。確かこの長屋は神田竪大工町だったはずだ。日本橋通油町の耕書堂とは眼と鼻の先だ。俺は歩きながら坂崎さんに

「帰りに、最初に入った飯屋で昼飯を食べましょうよ」

 そう言って誘うと

「ばか、あれは今から五十年も後の事だ。今は寛政だ」

 そう言われて、自分も大分ボケてると可笑しくなった。

「光彩、それより蔦屋殿のことを確認したら、もっと大事な用事があるのではないかな」

 俺と坂崎さんの前で聴いていた山城さんが言う

「なんですか?」

「イギリスにあるもう一枚の『美人鑑賞図』が本当に本物か、その鑑定した者に直に確かめる必要があるのではないか?」

 そうだった。いくら本物と断定されたとしても、その経緯を確かめなくてはならない。うっかりしていた。

 江戸の街は俺の時代より人が少ないとはいえ、やはり多い。それに良く見ると色々な格好をした人々が行き交っている。この時代の人はその格好を見れば商売が推測出来たというが本当だと思った。

 沢山の籠や笊を担いで歩いてる人。天秤を肩に担いで野菜や魚を売って歩いてる人。様々な人が行き交っていた。

 やがて、耕書堂の裏口に到着して先日のように山城さんが戸を叩いて声をかけると昨日と同じ手代さんが顔を出して招き入れてくれた。そして、蔦屋さんの居室に向かう。

 手代さんが声をかけると昨日とは違って中から声が聞こえた。

「入って戴きなさい」

 その声で手代さんが襖を開けると座敷には蔦谷さんがやはり布団の上に座っていたが、その格好からは昨日とは違って、生気が感じられた。

「これは、ようこそ、今日は坂崎殿もご一緒ですな。昨日薬を飲みましてから、今日は胸のつかえも取れた感じで気分もここ数ヶ月以来の良さでございます。まさに神薬でございますな」

 昨日の今日でそれほど劇的に効くとは思わないが、燃料やオイル切れを起こして、焼きつき寸前だったエンジンにオイルが大量に添加されたのだ、効かぬはずがなかった。

「今朝の目覚めの良かったこと。早速店の者に山城殿に報告をさせました」

「蔦谷殿、本当に良かったでござる。ちゃんと薬を飲み続けたならば半月もあれば生活に支障なき程には回復致しましょう」

 山城さんはそう言って目に涙を浮かべていた。それを見た蔦屋さんの目も潤んでいた。


 お茶でもというのを辞退して、三人は耕書堂を出て長屋に向かった。俺は取り敢えず現代に帰り出光博物館の学芸員に会わねばならない。出来たらさきも一緒に連れて行きたかった。

「坂崎さんはどうしますか?」

「そうだな。少し時代を遡って『美人鑑賞図』が書かれた事情を調べてみたい。そして何が行われたのか知りたいと思ってる」

 山城さんは

「ワシはこのまま蔦屋殿の様子を確認していく。回復の転機が訪れたら報告する」

 三人は一旦それぞれが行うべき事を確認して別れたのだった。

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