第13話 エピローグ
毎日が味気ないという感覚を俺は生まれて初めて味わってる。朝起きて会社に行き、つまらない仕事をこなして家に帰る。
唯一の楽しみは部屋に飾った東洲斎写楽が描いてくれた、さきの浮世絵だ。今なら肖像画とでも言いたいぐらいの、あの日のさきがそのまま描かれている。これを毎日眺めるのだ。
朝晩必ずその浮世絵に声を掛ける。どこかの時代を駆け巡っているさきに通じないとは思うけれども、それをやらずにはいられない気分なのだ。
さきが出してくれていた、俺の組織の養成所への入所願いは保留扱いとなり、待っている間に俺が元の時代に帰る日がやって来てしまった。
現代の俺のアパートの部屋に送って来てくれたさきは
「光彩さん。一時の間だと思います。必ず迎えに来ますから、それまでこれを持っていて下さい」
別れ際にさきはあの浮世絵を俺に渡せてくれたのだ。自分の分身とも言える浮世絵を俺に渡せてくれたので、俺は、さきの心の内を理解した。
「ああ、判った。待っている。そして信じている。また逢える日が必ずやって来るとな」
そう言って思い切り抱きしめると、華奢な肩を震わせ
「せめて、お別れに口吸いをして下さい」
そう言って目を瞑った。『口吸い』もしかしてキスの事だろうか。俺はその可憐な唇に自分の唇を重ねた。そして舌を絡ませると、さきも俺の舌を吸ってくれた。なるほどまさに『口吸い』に違いない。
やがて、僅かに糸を引いて唇が離れた。
「必ず忘れません」
潤んだ瞳に口をへの字に曲げてやっとそれだけの言葉を口にした。
「ああ、俺も忘れない。そして、迎えに来られないようなら、どんな事をしてもこちらから逢いに行くよ」
今は、そんな事しか言えない。俺に言えるのは、決してあきらめないと言う気持ちを伝える事だけだった。
「もう、帰らなくてはなりません。さようなら、さようなら光彩さん」
最後は消えそうな声で別れを言って、そのまま、その姿を俺の部屋から消した。
あれから半年後、俺の部屋の郵便受けに一通の封書が投函されていた。差し出人を見てみると「大東興産」と書いてあった。
「大東興産」とは、さきが所属していた組織の表向きの名だ。俺も借金の返済に世話になった。一体なんだろうかと思い、封書を開封して読むと、そこには……。
拝啓、その後、穏やかにお過ごしの事と存じます。
さて、本日お手紙を差し上げましたのは、貴方様から出されていた、当組織の養成所への入所についてでございます。
上層部の判断により入所が認められましたが、現在定員一杯の為、順番待ちとなりました事をお伝え致します。
つきましては、当組織の指導員を派遣致しますので、その者から我々の組織の業務等を研修して戴きます。
派遣の時期は、この封書と前後するかも知れませんが、その節は宜しくお願い致します。
光彩 孝 様
大東興産 事業部
読み終わり、俺が組織の一員として将来働ける事が決まったと理解した。しかし、順番待ちなんて、随分人気があるんだなと思った。
それでも暫くすると、俺の日常は変わりが無かった。今では、あの手紙も冗談ではなかったかと思う始末だ。俺は現実の世界でもがいていた。
そんなある日だった。仕事を終えて部屋に帰ろうとアパートの階段を登って行くと、俺の部屋に灯りが点いている。まさか、あの時みたいに借金取りが部屋に居るのでは無かろうと、ゆっくりとドアを開けると
「おかえりなさい。光彩さん」
懐かしい、そしてとても嬉しい声が耳に飛び込んで来た。誰かは直ぐに判る。その声を耳にしただけで色々な思いが交差して目頭が熱くなった。
「さき、さきだよな?」
俺は涙を拭って前を見るとそこには白いブラウスにチェックのミニスカートを身に付けたさきが、涙顔で立っていた。なんて可愛いのだろう!
「手紙は本当だったんだな。それで、俺に指導しに来てくれたのか?」
「はい、転属願いを出しました。どうしても光彩さんに逢いたくて、同行員から指導員に替えて貰いました。これで向こうに行くまで一緒に居られます」
思い切り、さきを抱きしめる。さきの甘い体臭が俺の鼻をくすぐる。懐かしい匂いと共にその華奢な体を抱きしめる。
「さき、結婚しよう! 俺も組織の一員なら、夫婦になっても構わないんだろう?」
思いの丈を言うと、さきもにっこりと笑い
「はい、不束かな者ですが宜しくお願い致します」
そう言って、笑ってる顔にあの時以来の「口吸い」をした。それは俺にとって甘美なものだった……。
それから、さきは組織にこの時代での戸籍を作って貰い(組織がどうやって作ったのかは不明だ)俺とさきは結婚した。式も何もしなかったが、組織のセンターの食堂で簡単なパーティーを行った。坂崎さんや山城さんも来てくれた。驚いたのは蔦屋さんと写楽さんも来てくれてお祝いの言葉を述べてくれた事だ。これには俺も、周りの人々も驚いた。見ると江戸から来た山城さんと坂崎さんが笑っていた。そうか二人の粋なはからいだと感謝した。
「おめでとうございます。良き夫婦になられますように」
「この度は本当におめでたく存じます」
蔦屋さんと写楽さんのお祝いの言葉に俺達は
「ありがとうございます。若輩者ですが今後も宜しくお願い致します」
と返礼をした。写楽さんが
「お子が生まれたら今度は家族三人の絵を描きましょうかな」
そんな軽口を言って笑っていた。勿論冗談なのだろうが、もし本当だったら、これはまた騒動になると思ってしまった。それを聞いて蔦屋さんが
「そうですな。そんな記念になる絵を書いて商売にするという手もありますな」
そんな冗談とも本気とも言えぬ事を言って周囲を驚かせた。
「いやいや、冗談で」
それを聞いて皆が笑って会場の雰囲気が和やかになった。
それからの俺だが会社を退職し、組織の養成所を卒業して、アートディレクターとして任務についている。担当の時代は現代となった。つまり、俺を組織に連れて行った五月雨慶次さんのやっていた事だ。
そう、今では彼が俺の上司だ。部下になって見ると思ったより好人物で、あの時思った慇懃無礼な感じとは大分違う。
さきが現代に持って来た嫁入り道具に歌麿の絵本小町引(えほんこまちびき)があった。これはようするに枕絵で、所謂「春画」とも呼ばれる類のものだ。さきは、いつこんなものを買ったのだろう?
江戸時代は嫁に嫁ぐ娘に母親がこの類の絵を持たせたのだそうだ。さきもそれに倣ったのだろう。でも、二人が初めて結ばれる時に、これを出して見せたのには正直たまげた。今ではすっかり笑い話だ。
俺の仕事の一つに、現代の美術品を取り扱う事があるのだが、現代絵画の作家でも、今は無名だが未来では有名になり評価された画家などの作品を取り扱ったりもする。今の相手は未来から来た闇の美術ブローカー達だ。油断はならない。彼らは未来で今の美術品がどれほどの価値を生むかを熟知しているのだ。
さきは、養成所の指導員となったので、俺達が住んでいるマンションから毎日通勤して行く。そう時空を越えて通勤しているのだ。
「じゃあ、行って来ます」
「気をつけてな」
出かける妻に声をかける
「うん大丈夫! でも、早く赤ちゃん欲しいわね」
さきはそう言って自分のお腹を擦った。組織や坂崎さんからは
「二人の子孫が地球の未来を救うのだから、早く子供を作れ!」
なんて事も言われている。でも、今からそんな重荷を背負わさなくても良いと思う。こればかりは、神様からの大事な授かりものだから……。
お宝を売って一財産築く事は出来なかったが、俺はそれ以上の“お宝”を手に入れたし、いずれ大事な家族も出来る。それを張り合いに俺は生きて行く。そう心に決めたのだった。
そう、この時は本気でそう思っていたのだった。
第1部「究極の借金の返済方法教えます」<了 >
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