第11話 東洲斎写楽


 新しい買い付けには前の事件の調べが進むまでは行けない。と、さきが言っていたので俺は図書室で浮世絵や江戸時代の事などを自分で色々と調べていた。思えば自分の事なのだから、少しでも自分で勉強しなかった今までが異常とも言えた。

 さきが言うには俺みたいな初心者には浮世絵が間違いなくて好都合なのだという。世界的にコレクターが居て、評価も定まってるから換金しやすいのだそうだ。これが変に貴重なものだと難しくなるらしい。

 この前、意識だけだが平安京に行った時に

「紫式部の『源氏物語』の直筆なんか持って来たら大変な価値になるだろうな」

 と喜んで言ったら、そうでもないと言う。

「光彩さん。それをどうやって本物の紫式部の直筆だと証明しますか?」

 そう切り返されてしまった。確かに言われて見ればその通りだ。俺が持って来たとして、俺以外には判らないのだからと思った。

「浮世絵と並んで世界的にコレクターが多いのが『根付』です。江戸時代に発達した装飾品ですが、当時の人は煙草入れに必ず付けていました」

『根付』の事は俺も僅かだが知っている。明治維新の時に良い作品は殆ど外国に流失してしまったと言う事だ。当時の日本人はそれが高価な価値を持つ美術品とは思っていなかったのだ。浮世絵にもそれは言える。

「でも『根付』は以外と鑑定が難しいので、熟練が必要です。わたしも何時かは扱いたいですが、未だ未だですね」

「もし、今回浮世絵ではなく『根付』を扱っていたらどうだった?」

 俺はもう一つの可能性もあった事を問うた。

「そうですね。もっと早く返済可能だったかも知れませんが、騙されて偽物を掴まされる可能性も否定出来ませんね。確実な方法と言う事で浮世絵を選んだのです」

 なるほど、一口に借金の返済と言っても意外に難しいのだと理解した。以前から、さきが言っていた、その点浮世絵は好都合だという理由が判った次第なのだ。

 そして、調べていて判ったのは浮世絵は最初は美人画や役者絵がメインで風景画は後から出て来たという事だ。

 これは浮世絵が今のポスターやグラビアの代わりだとするなら頷ける事だ。今でもグラビア女優とか存在して小さな布切れだけを身に付けて自慢の肢体を見せている。それに美しく気品ある女優の高価な写真集等も販売されている事を思えば、日本人の感性や好みって、そう変わらないんじゃないかと思うのだった。

 さきはたまに顔を見せて世間話をしていたが、彼女も「早く行きたいですね」と言って手持ち無沙汰な感じだった。


 それから幾日か後の事だった。俺は食堂で昼飯を食べていた。今日の昼飯は中華丼だ。野菜たっぷりで俺は好きなのだ。竹の子と人参、きくらげをれんげによそい、口に入れようとしていた時だった。食堂の入り口から、さきが小走りにやって来た。嬉しそうな表情をしている。

「どうした? なんか良いことでもあったのか?」

 俺が半分惚けてわざと言うと、さきは頬をふくらませて

「もう、判ってるんでしょう。決まったのですよ。私達の行く先が決まったのです」

 やはりそうだったのかと思った。さきが、そこまで嬉しそうにするのは、その事しかないと判っていた。

「どこに行って何を買い付けるんだ?」

「寛政年間に行き、あの写楽を買い付けます!」

 何と、謎の絵師と言われている「東洲斎写楽」を買い付けるとは。

「面白そうだな。すると行くのは寛政六年か七年の頃か?」

 俺の質問にさきは驚く事を言った。

「光彩さんも随分勉強なさったみたいですが、その前の年に行きます。そして蔦屋さんが囲ってる写楽さんに接触して、未発表の作品を分けて貰います」

 何と、さきが言った事は俺の想像の斜め上を行くものだった。

「詳しく教えてくれ」

 さきが言った事の意味を完全に把握出来ない俺はさきに尋ねる。

「そうですね。写楽さんは寛政六年五月から翌年寛政七年三月にかけて実質十ヶ月余りで約百四十五点余の錦絵作品を出版したのち、忽然と浮世絵の世界から姿を消したのですが、幾ら何でもその期間でそれだけの絵を量産したとは思えません。事実、彼はその全てと言って良いほど、その作品は蔦屋重三郎さんの店から出されました。これは、写楽さんが蔦屋さんのお抱え絵師だったと言う事です。だから私達の推理では、その前から創作活動をしていて、蔦屋さんが一気に量産したのだと思っています。その書いている期間に行き、直に写楽さんと会って交渉して、良ければ錦絵ではなく肉筆の浮世絵をを買い付けて来ようと計画しています」

 さきは、興奮していたのか、一気に言った。俺は今までの買い付けでは、写楽の作品が発表された年に行っていたので、錦絵は兎も角写楽の肉筆画の買い付けにおいては上手く行かなかったのはないかと考えた。そこで前年に行く事になったのだと思った。

 つまり、寛政七年頃に行ったのでは既に写楽は江戸に居なかったのではないか? 

 あるいは、何かの事情があったのではないだろうか?

 色々な説があるが、写楽が最近の説のように阿波徳島藩と関係があるなら、藩主と行動を共にするので、この時期は既に徳島に帰ってしまっている事も考えられない訳ではないと考えた。

 それを、さきに言うと、

「実はそうなんです。写楽さんの作品は買えるのですが、我々が狙ってるのは肉筆画なんです。蔦屋さんもガードが固くて中々接触して交渉出来ないんですよ。でも成功すれば光彩さんの負債はほとんど無くなります。それぐらい高価な取引が出来ます」

 さきが興奮して言うのは最もだと俺も思った。

「で、何時行くんだ?」

「三日後です。向こうには坂崎さんも来て貰い、寛政の駐在員と共に我々四人で写楽さんの居場所を捜索します」

「坂崎さんも幕末からやって来るのか。再会出るのは楽しみだな。でもどうしてだ」

「イギリスの奴らが手をこまねいてはないと思います。 きっと今度は我々が買い付けた肉筆画を横取りに来ると思うのです。だから剣の達人の坂崎さんに来て護衛して貰うのです」

 さきの説明を聴いて俺は早くも写楽の捜索に行きたいと思うのだった。


 寛政五年とはどのような時代なのだろうか? 俺は図書室の資料を読んでいた。寛政の改革の最後の年である。これはこの七月に松平定信が老中職を失脚した為に終わりを迎えたのだが、幕府の基本的な考えはそのまま残った。

 この改革を簡単に言うと質素倹約と思想統制である。他にも色々と行ったが、目立ったのはこれだ。

 これにもろ引っ掛かったのが蔦屋重三郎で、寛政三年に山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され重三郎は罪に問われ、彼の店、蔦屋耕書堂は規模を半減させられてしまう。ところが重三郎はあきらめずに京伝に執筆依頼したりしている。

 そんな状況だった蔦屋重三郎が松平定信の失脚と言うチャンスを逃さないと俺も思ったのだ。きっと前から目を付けていた絵師と出版の計画を練っていたのではないだろうか。さすがの俺でも少し調べればそれぐらいは判ろうと言うものだ。更に調べていると、さきがやって来て

「この前の光彩さんを襲った奴らですが、やはり白人は向こうの者でした。でも下っ端で、組織の細かい事は判らなかったそうです。それから、寛政の駐在員から連絡がありまして、寛政時代には、イギリスの奴らは現れないそうです。きっと目立つからでしょうね。直接当時の者に手出しが出来ないなら、例の物が手に入ったら我々から奪いに来るかも知れません。そこに気を付けましょう」

 さきは気合の入った表情で俺に告げる。そして向こうへ行く日はやはり六時起きで支度をすることや転送場所は日本橋の例の長屋になる事等を言って

「仕事があるから、一旦帰りますがお昼は一緒に食べましょう」

そんな事を言いながら消えて行った。


 当日、朝からいつものように支度をする。今回は、一日では終わらない可能性がある為にあらかじめ着替え等を向こうに送っているそうだ。事情によれば、途中で夜になったら帰って来ると言う訳には行かないらしい。

 例によって、転送室でカウントダウンが始まり、俺は一瞬意識が無くなった。だが次の瞬間、見たことのある長屋に俺とさきは立っていた。実は、見たことがある、と思ったのは錯覚だったと後で知る。厳密に言えば以前の嘉永の時代に来た時は、この長屋は火事で焼けており、新しく建て替えられた長屋だったからだ。嘉永はおおよそ寛政五年より五十年後の年号だ。

 気がつくと坂崎同心ともう一人初めて見るやはり同心の人が居た。

「おお、やって来たか、さきとこうすけ」

 坂崎同心が少し懐かしい声で出迎えてくれた。

「紹介する。この時代の駐在員で、わしと同じ南町奉行所の山城同心じゃ。わしの親父の先輩じゃ」

 山城同心より紹介された人はこの時代の人だが背が高く痩せて如何にもやり手の同心と言う感じだった。

「どうも、初めまして、光彩孝と申します。今回は宜しくお願い致します。それから呼び名は“こうすけ”と呼んで下さい」

 そう自己紹介すると山城同心は眼光鋭く

「うん、こちらこそ宜しく頼む。なんせ、買い付けの者がやって来るのは久しぶりだからのう」

 そう言って目をキラリと光らせた。だが

「さき、少し見ないうちに益々綺麗になりおったのう」

 そう言ってさきを見た目は少しも鋭くなかった。やはり、さきには皆甘くなるのかも知れない。

「山城の旦那は黙ってると苦み走ったいい男なんですけどねえ~」

 さきが笑いながら軽口を叩くと坂崎同心が

「山城殿一本取られましたな」

 そう言って笑ったのが印象的だった。だがすぐに表情を変えて

「ところで、調べの方は?」

 すぐに仕事の内容になった。

「うん、それがのう、蔦屋の奴、中々尻尾を出さんのじゃあ。間違いなく近くに家でも借りてそこで書かせているに違いないのだがな。家の目星は大凡ついているがな」

 どうやら山城同心の話では、前から蔦屋を監視してはいるものの手がかりは掴めないそうだ。

「まあ、今日からは手数も増えた事だし。案内がてら蔦屋の店「耕書堂」を見に行ってみようじゃないか」

 俺達四人は山城同心の案内で長屋を出て裏通りから表通りに出た。ここはもう少し行くと日本橋になる通りで「御成街道」とも言われる東海道になる江戸の大通りだ。

「今川橋を渡って二番目の角を左に曲がり七~八町歩いたあたりだ。このご時世だが結構店は繁盛している」

 山城同心の説明を聞いた坂崎同心が

「逆に、締め付けが厳しいと、そういう類のものが売れるんじゃありませんかねえ」

 と返す。ちなみに俺は“坂崎同心”と先程から言っているが、今日の坂崎同心は何時もの“同心ルック”ではない。普通の着流しに羽織りを着ている。脇差しと腰に二本挿しているのは同じだが、普段は帯に挟んだ十手は隠してある。こっそりと「十手はどうしたんですか?」と尋ねたら懐から腹を指した。どこかに隠してると言う意味だろう。

 

 江戸の街も三回目となると、やっと余裕が出て来る。自分の存在も特別に意識されない歩き方になっており、江戸の一市民として見られているようだ。

 街の様子も良く見えるようになって来ており、色々な店が判るようになって来た。今歩いている所は下駄屋や雪駄など履物を売ってる店が多い。この時代ならではの色々な下駄が店先に並べられており、見ているだけでも参考になる。

「ここが今川橋でござんすよ。こうすけさんの時代にもあるでござんすね」

 さきに言われて見ると確かに長さが十メートルにも満たない小さな橋が掛かっていた。そうか、これが「今川橋」か、俺の時代では既に橋など無く、単に交差点の名前になってしまってるとは言えなかった。

 今川橋から二つ目の角を曲がるとそこは今までの半分程の幅の広さの道で、幅が約五メートルは無いだろうと思った。今なら車がやっとすれ違えるかどうかだ。ギリギリではないかと思う。幅の広い車ならアウトだ。

 この辺の店は傘や雨具を売ってる店が多い。するとさきが

「さっきのあたりとこの辺を指して”照り降り町”とも言うでござんす」

 と説明してくれた。晴れの日に売れる履きものと雨の日に売れる雨具の店がほど近く並んで居るところから、そう呼ばれて居るのだという。面白いと思った。

 角を曲がって七~八百メートルも歩いたろうか、坂崎同心と話していた山城同心が、急に立ち止まり

「あそこだ。店の前に行灯の目印が出ているだろう」

 そう言われて見ると「紅繪問屋」と書いた行灯が店の前に出ている。行灯の側は明治になるまで使われていた変体仮名なので、全く判らないが漢字なら多少は勉強したから判るのだ。

 山城同心に言われて初めて見た蔦屋重三郎の店「耕書堂」はそう大きな店ではなかったが、この午前中にも関わらず結構な人が買い物に来ていた。


「どうします?」

 坂崎同心が山城同心に指示を仰ぐと

「この時期、既に蔦屋は写楽と思われる絵師に書かせていたと思われる。だから蔦屋の行動をつけていれば、必ず接触するはずだ。いつも巻かれてしまうのだがな」

 山城同心がそう言って考えを披露すると

「どこか、店を見張れる場所があれば良いがな」

 坂崎同心はどうやら張り込む覚悟をしたみたいだったが、山城同心が

「蔦屋は店の表からは出入りはすまい。出入りをするのは裏口だ」

 そう言って三人を店の裏通りに面した場所に案内した。その通りは本当に狭く、幅が二メートルは無いと思った。後で訊けば一間の幅だったのだ。

「ここじゃ見張れませんね。どうしましょうか?」

 俺がそう言って山城同心を見ると笑って

「二組に別れて路地の出口で待っておれば良い。どちらかに向かって出たら一緒に後をつければ良い。それぐらい頭を使え」

 そ言われてしまった。確かに店の裏口を見張れる路地の角がそう遠くない場所にあるから、そこに身を隠して見張れば良いのだと思った。

「でも、蔦屋の顔が判りませんが」

「わしとさきが知っておる。だから、わしと坂崎、こうすけとさきで組めばよい」

 そうして、俺とさき、山城同心と普通の侍の格好をしている坂崎同心とが組んで路地の出口両方の角で蔦屋が出て来るのを待つ事になった。


 どれ位時間が経ったろうか? 既に日が高くなっていた。体が痛くなって来た。裏口が開いて羽織りを着た人物が姿を表した。

「蔦屋重三郎です」

 さきがそう言って、そっと俺と一緒に後を歩き出した。目配せをして山城、坂崎コンビも俺たちの後ろを歩いて行く。

 蔦屋が角を曲がって姿が見えなくなると、二人が近づいて来て

「あの方角だと、どこに行くんでしょうね」

 坂崎同心が呟くと山城同心が

「芳町か、玄冶店か、色っぽい場所には違いないな」

 そう言って笑う。俺にはどうしてそこが色っぽいのかが理解出来なかった。

「それより、わし達も続こう」

 坂崎同心の言葉で四人とも後を追う。

 一定の間隔を開けてついて行くと、蔦屋は裏道に入って行き、一軒の仕舞屋に入って行った。

「あそこは」

 山崎同心が少し驚いた声で呟いた。

 山城同心の驚いた顔を見て坂崎同心が

「どうなされました、山城殿。あの仕舞屋をご存知なのですか?」

 そう言いながらもう一度仕舞屋を見つめると山城同心が

「少し知った家でな。以前は絵草紙屋をやっておったんじゃ。あそこの主が蔦屋の摺り師をやっておってな、カミさんに絵草紙や黄表紙等を売らしておったのじゃ。それが店を畳んでしまったとは」

 少し考え事をしていた山城同心は

「ちょっと周りで訊いてくる、蔦屋が出て来たら先に行ってくれ、後で追いかけるから」

 そう言って仕舞屋の周りの家に聞き込みに行ってしまった。

「どうしますか?」

 俺は坂崎同心に尋ねると横からさきが

「以前は店をやっていたのに、今は止めていると言う事は、もしかしたら誰か亡くなったか、病気でもしたかですね」

 そう推理を披露すると、坂崎同心が

「どちらかの身に何かがあったのだろうな」

 そこまで言った時に蔦屋が仕舞屋から出て来た。出入口の引き戸の向こうで、年老いた女性が何度も頭を下げている。それに対して何やら慰めて励ましている感じだ。そんな光景を見れば大体の見当はつく。

 蔦屋は仕舞屋を後にして表通りに向って歩き出した。

「店に帰るんですかね」

 そう俺が口にした途端、店とは逆の方角に曲がって行った。

「店ではなさそうだな。後をつけよう。山城殿はこちらの居場所は判るはずだからな」

 坂崎同心の指示に従って歩き出す。

「これは、いよいよ玄冶店かな」

 坂崎同心が呟くと、後ろから

「行き先は蔦屋が借りてる玄冶店にある一軒の家だ。そこに誰が居るかだ」

 そう聞こえたので振り向くと山城同心だった。

「何軒か訊き回って、最後はあの仕舞屋を尋ねて色々と訊きだしたわ」

 そう自慢気に言うが、そんなに一気に色々な事が判ったのなら、何故今までやらなかったのだろう。この人、実力もあるのかも知れないけど、単に目立ちたがり屋なのかも知れないと思った。

「あの仕舞屋の摺り師の親父は流行病(はやりやまい)で亡くなってな。カミさんも体を壊して困っていたそうなんだ。それを蔦屋が援助していると言う訳で、今日は、あの家に刷った浮世絵を置かせて欲しいと交渉しに来たそうなんだ」

 そう山城同心は説明してくれた。それにしても蔦屋重三郎って意外と人情家なのだと思った。それに以前絵草紙屋だったのなら、刷った絵を保存するにはピッタリだと思った。でも、写楽の浮世絵なら世に出るのは未だ先だし、今から刷っておくと言うのは変だと俺も思った。それはこの時代火事でも起きたら燃えてしまうからだ。

「写楽の絵の何枚かは既に彫師に行ってるだろう。なんせ、彫師は版下絵を版木に裏返しに貼って主版(おもはん)を彫る。この時、絵師の描いた版下絵は通常、彫刻刀で彫られ、一緒に切られるため失われて消滅するのじゃ、彫師はこれによって墨摺りを作って絵師の元に返す。それから絵師は、墨摺りの各部分に色の名を書いて摺り上がりの色を指示し、彫師に返される。彫師は指定された色数に応じて、それだけの色板を準備し、部分ごとに掘り起こす。と言う気の遠くなる作業を繰り返すんじゃ。あれだけの大量の絵じゃ。一気にそれらは出来まい。絵師の写楽と、彫師にも繋ぎをつけると思うのだがな」

 山城同心が絵師と彫師の関係を説明してくれるのを聞きながら俺たちは蔦屋の後をつけて行く。江戸の街は俺が居た東京と基本的には道などは変わっていない。幅が広くなったり周りの景色が変わったり川が埋めたてられてしまったり暗渠になったりしてはいるが基本的に江戸の道は二十一世紀でも同じ場にあるのだ。だから俺は二十一世紀の東京の道に照らし合わせるとどうやら人形町に向っていると思った。

「玄冶店だな」

 ポツリと坂崎同心が呟いた。思い切り格好をつけていて、思わずニヤついてしまった。

「今の少し良かったろ?」

 坂崎同心はそうさきに言ってちょっと戯けた。玄冶店と聞いて俺が連想するのは「お富さん」の歌だ。確かそんな文句があった。

 蔦屋はやはり玄冶店と呼ばれる道筋に入って行き、その中でも一軒の黒塀の少し垢抜けた家の格子戸を開けて入って行った。

「玄冶店に女でも囲っていたのか」

 坂崎同心が冗談半分にそう言って笑うと山城同心が

「いや、やはり、あそこが絵師東洲斎写楽の居る場所かも知れん。実はここには一度付けて来ているんだ」

 真剣にそう言うと、再び、格子戸が開いて、なんと蔦屋がこちらに歩いて来た。そして俺達の前まで来ると

「山城の旦那、この前から私の周りを随分調べているみたいですが、今の私は綺麗なものですよ」

 いきなりそう声を掛けて来たのだった。俺は本当に腰が抜けるほど驚いた。だって、そうだろう。判らずに後をつけていたと思っていたのに全て相手に判ってしまっていたなんて。

「なんだ、全て判っておったのか。さすがだな蔦屋。こうなったら正直に言って取引しよう」

 山城同心がそう言って、直接蔦屋と交渉する事になってしまった。

「何のお話か判りませんが、ここでは話も出来ません。中にどうぞ」

 蔦屋に言われて俺達四人は黒塀の格子戸の家に入って行った。

 

 家の中に入ると上がり口の上が三畳程の広さがあり、横に続いている。その奥が居間の様な感じで、神棚や仏壇等もあった。その六畳ほどの広さの居間に脇に階段があり二階に続いているみたいだった。階段の先はどうやら台所みたいで、その手間に左側にも部屋あるみたいだった。

「どうぞ、座り下さい」

 この時代、畳の上に座布団などと言うものは敷かない。言われてそのまま腰を下ろすと、使用人の女性がお茶を入れて持って来た。

「申し訳ありませんが、ここでは煙草は止めてて戴きとうございます」

 蔦屋がそう言って煙草盆を出さない訳を説明してくれた。やはりここにも浮世絵が置いてあるのかも知れない。だから火気厳禁なんだと理解した。

「先程、何かおっしゃっていましたが、私に何か御用でしたかな」

 蔦屋重三郎はさすが歴史に名を残す人物だ。一人を除いて得体の知れない人間を家に入れて、しかも落ち着いている。大したものだと思った。圧倒的な存在感を感じる。山城同心が口火を切る。

「実は、我々はこのワシを除いて、もっと後の世界からやって来た者じゃ。信じられないかも知れないが事実じゃ。こっちの町人と娘は約二百年後の世界からやって来た。こっちの武士は約五十年後の南町奉行所の同心じゃ」

 山城同心の信じられない話にも蔦屋は顔色一つ変えずに

「そうですか、山城の旦那は嘘は言わないお方。ならば信じられない事ですが本当なのでしょう。だが、そんな先の世から私に用とは不思議ですな」

 蔦屋はそう言って手元のお茶を一口呑んだ。俺も、そしてさきもお茶に口をつける。口の中が乾いているのを感じた。

「はっきりと言おう。蔦屋、お主秘密にしている絵師に色々な役者絵を書かせておるだろう」

 山城同心の言葉に僅かに蔦屋の表情が僅かに変わった。

「さて何のことですかな。委細存じませぬな。ここはわたしが囲っている者に与えている家でございます。そんな絵師などとは知りませぬな」

 僅かな表情の変化だけで、同心二人を前にして蔦屋はそう言い切って見せた。やはり大したものだ。

「蔦屋、悪あがきはよせ。ワシらは何もお前の目的を潰そうと思ってる訳ではない。むしろ、逆に応援したいくらいじゃ」

 山城同心の言葉に蔦屋は表情を変えず

「山城殿、先程こちらの御三名の方は、後の世から来た方とおっしゃいました。ならば、これから私どもが考えている事をご存知でしょう。それをお聞かせ願いたいものですな」

 そう言って俺とさきを睨んだ。

「山城さん坂崎さん。こうなれば俺の時代でこれから蔦屋さんがやろうとしている事がどのように扱われているのか、蔦屋さんが来年から再来年にかけて、何をするか言っても良いでしょう」

 思わず二人にそう言ってしまった。言ってから少し余計な事まで言ってしまったかと思った。

「そうだな、事ここに至っては言うしかあるまい。こうすけ、ありのままを蔦屋に言って聞かせた方が道は早い」

 山城同心の言葉に俺は意を決して話始めた。

「まず、蔦屋さんは来年寛政六年五月から翌年の寛政七年三月にかけての約十ヶ月の間に、約百五十四枚の今までに無い役者絵等の錦絵を出しました。そしてその作者は忽然と浮世絵の世界から姿を消した謎の絵師として後世まで語り伝えられています。その絵師の名は“東洲斎写楽”です」

 俺はセンターの図書室で学んだ事と学校時代に習った事を思い出しながら語った。それを聴いた蔦屋は口元を僅かに上げて

「そうですか、後の世ではそんな事になっていたのですか。ならばこの蔦屋、妙な隠し事はしますまい。正直に申しましょう。確かに、今までとは全く違う画風の役者絵や美人画を描かせています。事情があり、その絵師の名は申せませんが、才能のある男です。今まで書く機会に恵まれませんでした。そこで私が手を差し伸べたのです。だが彼は事情がありそんなに時間がありません、そこで彫師と組ませて先に色々と描かせているのです。下絵を書き、それを彫師が直ぐに彫り上げる。出来た下絵の版画に絵師が色をつけて行く。そこまで出来たら後は彫師や摺り師の出番です。その後、絵師は次の絵にとりかかる。その繰り返しで、幾つか出来ています。そこまでは本当の事ですが、あなた方は私と絵師に何の用なのですかな?」

 蔦屋の長い話を聴いて、俺は浮世絵の工程が少し判った気がした。そして、山城同心が口を開く

「我々はその絵師に絵を一枚書いて欲しいのじゃ。勿論対価はちゃんと払う。絵師にも蔦屋お主にもじゃ。どうだろうか」

 山城同心の真に迫った言葉に蔦屋は

「役者絵や花魁や評判の娘の美人画以外なら構いませんが、やるかどうかは絵師に尋ねませんとな」

 そう言って俺達を睨んだ。その強い眼差しに少し竦くんだ。

「どうかその絵師に尋ねてはくれないだろうか?」

 山城同心の言葉に蔦屋は暫く考えていたが

「訊いて参ります。暫しお待ちを。絵師が快く思わぬ場合にはお引き取りを願います」

 蔦屋はそう言って我々の前から姿を消して二階に上がって行った。やはり二階が工房になっていたのだと思った。


 俺がいた時代での東洲斎写楽は阿波藩のお抱え能楽師斉藤十郎兵衛という説が有力になっている。もし、そうなら写楽は千九百六十三年(宝暦十三年)生まれだから、今日現在は丁度三十歳となる。バリバリの年齢だ。だがもし、彼ならば八丁堀の地蔵橋に家があったと言われている、ここから八丁堀までなら一時間近くはかかろう。能楽師と言う余り仕事のない生活。そして本職でも「ワキツレ」という役で、片隅に座っていてセリフもほとんど無く、存在感を消していなければならなかったと言われている。そうして自分を押し殺している事に嫌気がさしたのかも知れない。俺はそんな事情を考えていた。

 階段を降りて来る音がして、蔦屋が降りて来た。そして俺達の前に座り直すと

「幾つかお約束して欲しい事があるそうです。それを承知なされたら書いても良いと言っています」

「その条件とは?」

 坂崎さんが思わず問うと

「その一、 名前、身分等を問わない事。 その二、既存の役者や花魁、評判の美人等は描かない事。その三、この事をこの世では決して口外しない事。どうですかな」

 蔦屋の提案した事は、予想通りだった。そのどれもが納得出来る条件だった。

「対価は?」

「そうですね。私には要りませんから、絵師にはなるべく多く与えてやって下さい」

 蔦屋はそう言って、絵師が普段は金銭的には余り恵まれていない事を思わせた。

「判った全て承知した」

 坂崎さんと山城さんが口を揃えて声を出した。

「ならば二階へお上がり下さい」

 蔦屋の言葉で俺達四名は二階へと向った。


 傾斜の急な階段を蔦屋、山城同心、坂崎同心、そして俺、最後にさきが登って行く。すると二階は以外と広々としており、手前の部屋には書く時に使う紙が置いてある。その奥の部屋に座卓が置いてあり、そこに向って一人の絵師が座っていた。

 俺は驚いた。この時代は座卓等と言うものは無かったはずだ。どうしてここにこんなものがあるのだ。俺の考えが判ったのか蔦屋は笑いながら

「私はもっと率の良い状況を考えたのです。それがこうして台を造りそれに向って描く作業をする。そんな事を考えてやってみたのです。でも絵師はたまには前の方が良いと畳に置いて描く事も多いですよ」

 そうか、蔦屋と言う人は色々な事を考えたのだと思った。

 奥に居る絵師に蔦屋が声を掛ける。色白で面長の能楽師と言われればそんな気がした。

「先程言った方達だ。頼み事があるという事なので聞いてみてくだされ」

 蔦屋の言葉に俺達は前に進む。さきが代表して注文を言って見る

「初めまして、さきと申す者でございます。今回は一枚絵を書いて欲しくて参上致し、ここに参った次第でございます。どうか、我々の為に一枚書いてくださいますようお願い致します」

 さきはこの時代の時に使ってる言葉とは若干違う言葉で頼みこんだ。そうだろう。俺達の正体は少なくとも未来から来たと伝えられているのだから。

 絵師はさきをじっと見つめていたが、やがて

「判りました。良うございます。そうですね、では、あなたを描くというのはどうでしょう。あなたは美人だ。この時代の美人とは若干違いますが、とても美しいと思います。あなたを見ていて、私も描きたいという意欲が湧いて来ました」

 意外な展開だった。当のさきが一番驚いている。

「え、わ、私ですか! あ、ありがとうございます。でも、私なんかでは……」

 そう言って照れたさきは、一人の娘として俺には映った。照れた表情なんか初めて見た気がする。

「如何ですかな……」

 絵師の言葉を聞いて、さきは山城同心や坂崎同心に相談をする。事の次第を蔦屋は黙って眺めている。その姿が決まっていた。

「どうしましょうか? わたしなどでは今回の目的にはそぐわないのでは無いでしょうか?」

 さきが不安を口にすると山城同心が

「さき、絵師が心を奪われるほど、お前が美しいと思ったと言う事じゃろう。迷う事は無いと思うぞ」

「全くだ、ワシも同じ気持ちだ」

 坂崎同心も賛同する。三人が俺に視線を向けた。

「俺も、それが良いと思います……と言うより正直言うとその絵が見てみたいです」

 俺の意見を聞いて坂崎同心が

「決まったな」

 そう言って他の三人を見つめた。静かに皆頷いた。


 結局、最後は照れて尻込みをするさきを写楽と思われる絵師が口説き落として、今は二階でさきが床几に座り、その姿を絵師に描いて貰っている。

 俺と坂崎同心と山城同心の三人は階下で座って終わるのを待っている状態だ。山城同心と蔦屋は知り合いと言っても良い仲なので、世間話などをしている。その中には口外しないと言う約束で浮世絵に関する情報を話していた。その光景を見て坂崎同心が

「蔦屋さん。我々は後の世から来ています。ならばこれから起きる事を知りたいとは思いませんか?」

 そう言って切り出すと蔦屋は複雑な表情をして

「そうですね。知りたくないと思えば嘘になりますな。でも、来年から予定している事が成功する事は判ったので、それだけ判れば後は別に気になりませぬ」

 使ってる女中さんが皆にお茶を入れ替えてくれた。蔦屋もそれを口にすると

「この前の過料と京伝さんへの手鎖で、自分が今までして来た事が水泡に帰して、正直がっかりした気分になりましてな。どうでも良い等とも一時は思ったものです。でも、新しい絵が刷り上がると買いに来てくれるお客様がいらっしゃいます。まだまだ自分は留まってはならない。だから、今回の様な事を考えたのでございますよ」

 蔦屋はそう言って遠い目をしてもう一度湯呑みを口につけて

「なんて言いました。後の世で絵師の名ですが」

「東洲斎写楽」と名乗っていましたな。

 坂崎同心がそう答えると

「東洲斎……写楽ですか、なるほど、これは粋な名だ。それ拝借しましょう」

 え、名前決まって無かったのか? じゃあ今決まったと言う事なのか。意外な出来事に俺は驚いてしまった。

「絵師の名を組み立て直すと東洲斎となり、絵を写すと言う写楽とは良い名だと思いますな」

 蔦屋がそう言ったので、俺も頭の中で考える。もし、あの絵師が最近の説の通り、斉藤十郎兵衛ならば、斉藤十郎兵衛を分解し、並び替えると、籐・十郎・斉で東洲斎とならなくもない。やはりそうだったのだろうか……。

 気が付くと、絵師いいやもう写楽と呼ばせて貰おう。写楽とさきが一緒に降りて来た。

「良い絵が書けました。明日また取りにいらしてくだされ。色をつけて仕上げておきます」

「すいません。よろしゅうお願い致します」

 さきがそう言って、その場を辞する事にした。帰り際蔦屋が山城同心に

「あなたは、普通の同心とは何か違うと思っていましたが、これからは絵のお話も出来そうですな。私には山城の旦那以外の方がどのようなお仲間なのかは知るよしもありませんが、ある目的があってこの世にやって来たのでしょうな」

 そんな事を言ったのが印象的だった。


 それから、神田の長屋に帰って来たのだが、もう昼も大分過ぎている。山城同心の提案で一旦センターに帰って食事をする事になった。どうやら江戸に泊まらなくても良いみたいだ。この前さきに

「江戸の夜は暗くて不気味なぐらい静かで、犬の遠吠えが聞こえて、結構怖いですよ」

 などと脅かされたので、実はちょっと不安だったのだ。

 センターの食堂で四人が江戸の格好で食事をしているのは結構見ものだったみたいで、食事に来る者が皆一様に驚いている。それはそうだろう、俺が中華丼、さきがハンバーグ定食、坂崎同心はとんかつ、山城同心はラーメンに餃子と、江戸とは全く関係ない物を食べていたのだから。

「ここに来たら普段食べられないものを食べんとな」

 二人の同心は同じ事を言って食べている。

「これからどうします?」

 俺は三人に尋ねると山城同心が

「今日はこのままじゃろう。わしは帰ってあの家を見張る。変な者に襲われないとも限らんからな。坂崎、お主も今日はわしの所へ泊まれ、親父の話をしてやる」

 そんな事を言って喜んでいる。それを見てさきが

「駐在員って普段は一人で行動してるから、こういう時は仲間意識が強くなるのですよね」

 そう説明してくれた。でもまさか、さきの絵が描かれるとは思っていなかった。

「私も驚きました。心配なのは私の絵では売れないかも知れませんね。そうしたら、また地味に買い付けしましょうね」

 やはり、本人とすればそこが心配なのだろう。俺は、さきの絵が良く出来ていれば、売りたくないと思うかも知れなかったし、逆になれば手元には残るが出来の悪いのはやはり困るから、悩ましかった。まあ、いずれにせよ俺には選択権は無い訳で、それは仕方の無い事だと思った。


 翌日も朝早くから支度をして江戸に来ていた。都合四度目なので段々慣れて来たのが自分でも判る。何だか故郷に帰って来たと少し感じるほどなのだ。

 この前のように山城、坂崎同心が待っていてくれて、とりあえす蔦屋に向かう。裏口から山城同心が繋ぎをつけると、番頭さんが出て来て「主は『先に行っているから』とのお言付けでございます」

 と伝えてくれた。

 それならばと玄冶店に向かう事にした。歩きながら、さきに

「自分の絵と向き合う気分はどうだい」

 そんな事を尋ねると

「やはり、ドキドキするでござんす」

 どうやら今日は通常の仕事の気分に戻っているみたいだと感じた。玄冶店でこの前の家を訪ねると使用人が出て来て

「いらっしゃいませ。主がお待ち致しております」

 そう言って案内してくれた。蔦屋は奥の居間に座っていた。落ち着いた様子でお茶を飲んでいた。さすがの貫禄だと改めて思った。そして俺達を見ると

「お待ち致しておりました。絵は既に完成しております。どうぞご覧になって戴きとう存じます」

 その声が聞こえたのか二階から写楽が降りて来た。手には二枚の絵を持っていたので、一枚では無く二枚書いてくれたことが判った。写楽は俺達の前に座り

「出来ました。自分でも良く出来たのではないかと思っております。違う絵を二枚書きましたので、御覧になり出来れば両方をお持ちくだされ」

 そう言って二枚の絵を出してくれた。それを見たさきや、山城、坂崎同心。それに俺は思わず声を上げてしまった。

「うわ~凄い!」

 その後は言葉にならなかった。

 目の前に広げられた二枚の絵。それは紛れもなく、あの東洲斎写楽が書いた肉筆画だ。俺の居る時代でもたった一枚しか見つかっていない写楽の肉筆画。それが二枚も並べられている。

 片方は、さきと思われる女性の上半身が描かれていて、艶やかな着物姿で僅かに顔を傾げ、右手を頬に添えている。

 目は良くある美人画とは違い、さきの特徴である大きな瞳がはっきりと描かれている。それは本当にさきの顔の特徴を捉えており、実物と見比べれば誰が見ても、さきだと判るだろうと思った。

「素晴らしい出来ですな」

 山城同心が思わず呟くと坂崎同心も頷いている。さきは驚いたままの姿で固まっている。きっとこの絵の価値を一番理解しているのは彼女だと思った。

 二枚の内のもう一枚は、さきの全身像で、床几に腰掛けているさきを写生風な感じで写したものだった。こちらは特徴を強調するような描写はしておらず、ありのままのさきが写されていた。俺はもし、どちらか自分のものに出来るなら、こちらを選ぼうと思った。絵師写楽の特徴は出ていないが、さきの美しさやその普段の様子までもがその絵から伺える感じがしたからだ。

「こちらも、全く違う画風ですが見事ですな」

 坂崎同心が写楽と蔦屋に伝えると

「私の指図でわざと変えさせたのです。写楽自身がどうしても二枚描きたいと言うので、それならば一枚は別の画風にした方が良いと言ったのでございます。如何ですかな?」

 蔦屋はやはり並の商売人ではないと思った。お客、この場合は我々の事だが、その気持ちまですっかり見通していたのだと知った。

「ありがとうございます。心よりお礼を申し上げます」

 我に返ったさきがお礼を言って懐から切り餅を二つ取り出した。

「これは描いて戴いた画料代でございます。どうぞお納めくださいますよう」

 切り餅を見て今度は写楽が驚いた。

「いやこんなに戴いては……」

 切り餅とは一分金百枚を四角く包んで両替商の刻印が押されたもので、この時代はそのまま二十五両として通用した。普通は崩したりぜずにそのまま二十五両として使った。だからこの場合は五十両となる。

「戴いておきなさい。この二枚の絵にはそれだけの価値がある。それに、この方達は後の世からいらした方達だ。あなたの絵の価値はきっとその時代ではもっとあるのでしょう。それは当然の対価だと私は思いますがな」

 さすが蔦屋だと思った。俺達の目論見も看破していたのだろう。この時代にあって、浮世絵の価値が時代によって変化するという事を理解していたのだろう。完全にこちらの負けで、俺達は蔦屋の手のひらで踊らされていただけかも知れない。

 絵を見てひとつ気がついた事があった。「写楽」の落款が押されているのだ。普通の写楽の浮世絵には写楽の落款と版元の蔦屋の落款が押されているが、これには写楽のだけである。俺がそれに気がついたのか蔦屋は笑いながら

「昨日、あれから急いで作らせたのですよ。急ごしらえにしては良く出来ているでございましょう」

 そう言って写楽の落款を自慢した。まさか、昨日の俺の言葉で本当に名前が決まったなんて信じられない気分だった。俺はこの時蔦屋は画家を育てるギャラリストとしても有能だったのではないかと思った。その成果が東洲斎写楽だったのではないかと……。

「それでは、有り難く頂戴つかまつります」

 写楽が切り餅を押し頂いてから懐にしまった。それを見て安心したかのように、さきがにっこりと微笑んだ。その笑顔を見て俺までも嬉しくなった。

 さきは浮世絵を持ち帰る時に使う筒を出して、大事そうに写楽の肉筆画をしまい始めている。そのやり方を見ていた蔦屋が

「その筒は何かと思いましたが、なるほど、そうやって丸めて筒にしまって持ち運ぶのですな。これは良い。私も早速真似させて戴きましょう。これなら何枚も買ったお客様が持ち帰るのにも都合が良いですな。早速職人に作らせましょう。絵の大きさで筒の大きさも変えても良いのですからな」

 そう言ってさきの考案した浮世絵を運ぶ筒は蔦屋に採用されたのだった。でもこれって俺達歴史を変えてる事になるのかな? そんな気になったのだった。

「蔦屋、世話になったな」

 山城同心が挨拶をして家の外に出た。上り口まで蔦屋と写楽が見送ってくれた。


 俺達四人は玄冶店の家を出て、神田の長屋に向ってる。坂崎さんが

「これからがワシの本番だからな。イギリスの奴らの手下が狙ってるかも知れん。なんせ写楽が再評価されたのはヨーロッパからだからな。油断は出来んぞ。こうすけ、お前も大事なさきの美人画じゃ、死ぬ気で守れよ」

 妙なハッパを俺にかけた。山城同心がニヤついて

「そうか、さきとこうすけは想い人同士だったのか、それは良いのお」

 笑いながら俺とさきを交互に見るので、俺は周りの目を意識してしまった。この時代は男女や身分の違う者が一緒に歩く事は無い。まず、俺が先を歩き、その後を坂崎同心、やや後ろを山城同心。そして最後にさきが歩くのが普通なのだが、今日は、俺が先頭、坂崎同心と山城同心の間にさきが歩いている。勿論護衛の為なのだが、目立つらしく、すれ違う人々が振り返る事が多かった。

 それでも、何とか無事に神田の長屋に着いたのだが、何だか人だかりがしている。山城同心がその人の中に入って

「どうした。ここはワシの知り合いの借りてる場所だが何かあったのか?」

 本職として尋ねるとその人の一人が

「ああ、山城の旦那。大変なことになってしめえました。見てくだせえ、物盗りが入ったんでごぜえますよ」

 物盗りと聞いて坂崎同心の顔色が変わった。そうなのだ、坂同心の私物もここに置いていたのだ。

 四人が人混みをかき分けて長屋の中に入ると、すっかりと荒らされていて、ごちゃごちゃになっていた。

「これは酷いな」

 坂崎同心が呟くのを山城同心が聞き長屋の表に出て

「皆の者、これは南町奉行所同心、山城幸右衛門が預かったので安心してくれ、長屋の他の部屋には入らせんからな」

 そう言ってくれたので、野次馬として集まっていた人々は姿を消した。

「しかし、やはりイギリスの奴らですかね」

 俺が山城、坂崎両名に尋ねるとそれぞれ

「そう思って間違い無いだろう。いつの間にかここが割れていたのじゃな」

「ワシの私物も探るとは油断ならんな。さき、そっちの被害はどうじゃ」

 坂崎同心の言葉で調べていた、さきが

「荒らされてはいますが、物を盗られた訳ではないでござんすね。坂崎の旦那のものはどうでござんすか?」

 その言葉に今度は坂崎さんが調べるが

「ああ、大事無い。大事な事を書いた帳面は昨夜、山城殿の家に厄介になった時に一緒に持って行ったからな」

 言いながら安心していた。

「だが、油断はなるまい。こうなれば、さきとこうすけは一刻も早く帰った方が良い。何も起こらない内にな」

 山城同心の助言で、俺とさきは大事な写楽の肉筆画を持って一旦帰る事にした。

「それではごきげんよう」

「ああ、向こうでは皆に宜しくな」

「また、すぐに合うのだろうが、気をつけるのだぞ」

 それぞれ、山城同心と坂崎同心の言葉を貰って俺とさきはセンターに帰って来た。

 センターに帰って来て、組織に出したのは、さきの上半身が描かれた方だった。

「組織には一枚で良いのです。下手に二枚あると価値が変わりますからね。それに、あの金子の内二十両は私がコツコツ貯めたお金を、少し前に山城さんに両替商で組織から預かったお金と纏めて切り餅に両替して貰っていたのです。だから、半分とは言いませんが、もう一枚は私が貰っても構わないかな? と思ったのです」

 そうだったのか、組織からは三十両が支給されていたのかと理解した。さきは自分のお金で一枚は買い取ったのかと初めて判った。

「写楽の落款が両方共押してありますが、私が戴いた方は普通の美人画です。実は写楽さんは最後の方は普通の役者絵や美人画を描いているんです。蔦屋さんが大量に売りたいから、そう描かせたのではないか? と言われていますが、今日、この絵を見て、実は写楽さん自身が普通の絵も描いて見たかったのではないかと思いました」

 さきは、そう言ってもう一度自分の美人画を眺めた。

「これ、額に入れて光彩さんのお部屋に飾っておいて下さい。私の代わりだと思って毎日見て下さいね」

「いいのかい? そんなに大事なものを俺の部屋に飾っておくなんて」

 俺がそう切り返してさきに言うと

「いいんです。私も毎日見に来ますから。そして行く行くはお嫁入りの道具の一つとして持っていきます」

 そんな事を言って笑ったのだ。それって、急すぎやしませんか。ちゃんとした返事も貰ってないのに。でもいいか、俺も異存は無いからな。

 その日から、俺の部屋には東洲斎写楽が描いた、さきをモデルとして描いた美人画が飾ってある。そして、もう一枚の方は予想通り、かなりの高値で売れたそうだ。俺の借金の完済まで、あと一息。完済すればアートディレクターに転身する夢も叶う。頑張る気力が湧き出るのだった。

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