第35話『オイニ・おびえる/おびやかす・ニオイ』

ふいに電車内に悪臭が立ち込めた


「たくあん」だ

確実に着色料なしの


原因はわかってる

たった今入ってきた老婆だ

ラフな格好で

杖をついて

丈のあってない男物のリュックを

尻下にだらりとさげている


社内の八割が寝たふりをはじめた

残りの二割はあからさまに顔をしかめた

シャツの襟を鼻の高さにまで引き上げ

顔を半分埋めるようにして

露骨に嫌悪を示す者もいた


おそるおそる

老婆の顔を見上げる

ほとんど白目の部位がなく

かすかに潤んだ真っ黒な目玉を

ただぐりぐりと動かし

通路の真ん中に突っ立っている


――くさい。猛烈に。

たった一人の人間に

車内全員がうちのめされている

食べるならうまいのに

臭い単体では無類の破壊力を発揮する

恐るべきたくあん臭


だが、人の鼻のメカニズムは人体の誉れ

宇宙の神秘

我々の味方だ

どれほど臭くても次第に慣れる


――いや、待て

本当にそれでいいのか

心のどこかでシグナルが鳴る


太陽が昇ると星が見えなくなるように

このまま、本当はそこに「ある」のに

感じなくなることをよしとして――


「あ、あの……よかったらどうぞ」


気づくと立ち上がっていた

うわずった自分の声に恥ずかしさを覚えながら

座っていた座席に老婆を手招く


「ああ、どうもすみませんねえ、

ありがとうございます」

大きな黒目をグリグリと動かしながら

杖を頼りによたよたと進み

老婆が座席に腰をおろした


その途端、不快な臭いが消えた

あれほど車内を席巻していたはずのたくあん臭が

嘘のように消えていた

それどころか、老婆がいるあたりからは

品のいい香水の匂いすらするではないか


――すべてを理解するのに

そう時間はかからなかった


我々はとんでもない誤解をしていたのだ

あれは老婆の臭いではない

「我々」だ

我々の心のニオイだ

心が腐るときの


杖をついた老婆が一人

電車に入ってきた瞬間

それは立ち上ったのだ

我々の内側から

我々をおびやかすニオイが――


見て見ぬふりをしようとした心のニオイ?

誰かが譲ってくれるだろうという人任せのニオイ?

自分だって疲れてるんだと言い聞かせながらも

後ろめたさでいっぱいの自責のニオイ

あるいは、むしろなんの罪悪感も感じてないような

傲慢で冷たいニオイ


――いや、それらはきっと

表面的なニオイに過ぎない


あの、たくあんをラップもせずに冷蔵庫に仕舞い込み

うっかり開けてしまった時のような強烈な破壊力……


そうだ

怯えだ

「おびえるニオイ」だ


「老い」に対する、おびえのニオイ


できることなら遠ざけたい……

見たくない……

無縁でいたい……

そんな、老いを見苦しいと思う見苦しさのニオイが

あの瞬間に立ち込めたのだ


老婆が安心して腰を下ろした瞬間

そのニオイが消えたのは

足取りも覚束ない老婆が

杖を支えにやっと立ている姿が視界から消えたから

我々の中からおびえが消えたのだ

オイニタイスルオビエガ……

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