あやかしのうた
和紀河
虚妄の家 第1話 水底の都〜第1話
水底の都
虚空に揺れし君の袖。
夢さがなく我愁うれう。
夢通わせた君憎し。
想いとどめし乙女が心の
哀しき愛の唄。
1
・・・何処ヘ風ハ行ク?
虚空を彩りながら風は、軽やかに優しく舞い踊り、彩雲へとその手を伸ばす。
鱗を模したような雲は所々朱みがかり、そして、時折、銀色金色に輝き流れ、暫しの荘厳な
・・・此処は何処かで見た景色。
いつもの帰り路を外れ、気まぐれにいつもとは違う路を行く。
学ランと学帽、黒塗りの鞄は、重たい色彩を放っている。
・・・僕は、真っ赤に揺れる大きな残照の中に立っていた。
燃え立つ残照は、僕の影をアスファルトに焼き付け、昼間の暑い空気の流れの名残を教えていた。まるで、今の僕の心を映すように。
僕は、遠く黄昏の行く先を見つめた。脳裡を横切る蒼い影。せぴあ色の景色の中で揺れるキオク。
・・・此処は初めて通る路。
なのになぜ?
この深い記憶の波は、いったい何処からやってくるのだろう。
見上げれば、崖の上に佇む大きな古い屋敷が見える。その崖の下には深い深い掘り。そこには清水が満々と湛えられ、ゾッとするほど碧く澄んでいた。
此処は
此処を僕は知っている。
否、「僕」であって「僕」ではない・・・ヒト。
これは魂に刻まれた「
・・・判ラナイ。
唯、不思議な記憶の疼きが僕の脳裡を深い淵に沈めていった。
薄くゆらめく黄昏の中を一陣の風が吹き抜けた、仄かな甘酸い香りを漂わせて。
・・・何かが来る。
僕はそんな不安に似た思いを抱えながら、風の向かう路の彼方をハッとして見つめた。
僕の瞳の先には、僕と瓜二つの男が着物姿で佇んでいた。
男は僕のほうをちょいっと振り返り、踵を返して歩みだし、そして路の彼方へと姿を消していった。
僕の足元で起こった風は何事も無かったように辺りを吹き染め、一舞すると、虚空へ逃げて行った。僕の脳裡にあの着物姿の男と白い蛇の幻影を残してーーー。
深く遥かな宵闇に町は沈んだ。
僕は自宅の門をくぐった。しかし玄関には向かわず、そのまま庭へ回って、風にあたりに行った。
高台に立つ僕の家からは、街の灯りに煌めく夜景が見下ろせる。耳を澄ますと、屋敷から一里ほど
少し瞑想をしてから、僕は玄関へ戻り、薄明かりの灯る戸を静かに開けた。
「ただいま帰りました。」
ひっそりとした家の奥へと響く僕の声。
透き通る空気。
はた、はた、はた・・・。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ。」
里子はそう云って、お辞儀をすると、満面に笑みを浮かべながら僕の鞄を受け取った。
「ただ今戻ったよ。遅くなってしまってすまない。鞄を僕の部屋に置いといておくれ。」
そう云いかけて再び戸へ手を掛けた。奥へ行こうと踵を返しかけた里子はハッとしたように、僕を顧みた。
「坊ちゃま?このような時間にお出かけですか。一体どちらへ?」
驚いて呼び止めた里子に僕は、ニッと口の端を僅かに上げて笑って見せた。
「食事は後でいいよ。ちょっと、用事があるから外へ行って来る。」
僕は足早に玄関を後にした。
虚空に銀月が煌々と揺れていた。
生温く、纏わり付くような湿った風が、僕の足元を吹き抜けてゆく。
僕は裏木戸へ向かっていた。そこには、射干玉の夜に美しく浮かび上がる、細く白い女の影が一つ。
「裕柾・・・。」
硝子細工のように壊れやすそうな程にか細く、優しく透き通った声。白く細い美しい彫刻のような指先が夜闇に彷徨った。
「
深娜月という名の女の、雪のように白く儚げなが影が、静かにそっと僕を誘う。
僕は夢とも無い面持ちで、彼女の方へゆっくりとした足取りで近づいていった。このとき、僕の中の「理性」というものの一切がこの女によってかき消されてしまっていた。今、僕の中にあるものはこの魔性を秘めた美しい女、深娜月という名の女の存在以外、何も無い。僕の瞳は彼女以外の何ものも映すことはできなくなっていた。
しなやかな天女の腕が、ふわっと僕の首筋に絡み付いた。そして、耳元で囁く聲、熱く甘い吐息。
「祐柾、うちな、ずぅっと待っとったん。」
少し、拗ねたような甘えた口調。なんて心地よい、まるで子守歌のようだった。
月影に浮かんだ玉虫色の唇が僕を誘う。僕は彼女の身体を両の腕で堅く抱き締め、そっと口づけを交わし合った。
人離れした美しい
彼女を例えるならば蛇だ、そう、まさしく白美しくぬめる蛇。風に残されたあの白い幻影・・・。
・・・彼女ハ「人」デハナイ。
心の端でそのような気すらしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます