第10話
わたしはずっと、これからも週に一回ほど異世界に行って、あとは自分の世界で畑を耕して仕事をするような幸せな毎日が続いていくのだと思っていた。
そう思っていたのに。
わたしの周りでは何かが動き出していたらしい。
わたしがその兆候に気がついたのは、アタラに会いに職員がいる地下に行った時だった。
棟の地下に降りる事は特に禁止されていない。
でも、普段は誰も関係ない人は降りていかない。用事がないからだ。そこにあるのは、職員が住む個室だけだからというのもある。使うときと言ったら、風邪予防の注射をうつ時くらいだった。
だからだろう。
ラウンジで職員が無防備に話しているのを聞いてしまった。
この時、わたしは階段から降りて来た所で、ちょうどその人たちからは見えない位置にいた。
「まったく、オチアイくんには困ったものだな」
「ほんとうですよ。最近の若い人というのは、こう、歳上を敬う事をしらんのですかね」
初老の二人の職員だった。
そのうち若い方はわたしたちに読み書きを教えていた人だ。
「知らんのだろうさ。だから、被験者を外に連れ出したりできるのだ」
「いくら世界的に知られた学者とはいえ、ここに来たからにはここのルールを尊重してほしいもんですよね。そもそも分野が文系でぜんぜんちがうじゃないですか」
「しょうがあるまい。施設長以上の方々のお気に入りだ。でなきゃ、あんな風に若い女を侍らすこともできないだろうよ」
アタラのことだ、そう思った。
そうしたら被験者は…わたしのことなんだろうか。
職員の会話は知らない単語が多かった。
でも、なんとなく聞いてはいけない類の話のようなきがした。
冷や汗が、首筋をつたう。
二人の職員はあいかわらず私の存在に気がつかずに会話を続けているようだった。
何も聞かなかったふりをして上に戻るべきか。
それとも、このまま隠れて聞いていようか。
異世界に行く前のわたしだったら、すぐさま上に引き返していただろう。そもそもここに来る事すらしない。
なのに、わたしは、前に進む事を選んだ。
よりよく聞こうとさらに体を壁に貼付ける。
「…」
神経を会話に集中していたせいだろう。
後ろから人影が近づいて来ていたことに気がついた時は既に手遅れだった。
「……!」
大きな手で、口と体を押さえ込まれる。
なにをされたのかも分からぬままに、わたしは意識をうしなった。
*
目を覚ますと、ベッドの上だった。
時計を見ると、針は午後の四時を指している。
疲れて眠っちゃったんだっけ?
眠っていたはずなのに、体がダルい。上半身を起こしてびっくりした。
アタラがすぐ横で、パイプ椅子に座ってくつろいでいた。
「な、なんでいるんですか…!」
アタラはおかしそうに笑う。
「いやあ、きみ。疲れ切って玄関のところで眠りこけていたんだよ。僕がここまで運んだんだ。そんなに農作業が大変だったのかい? この前、元気が取り柄だって言っていたじゃないか」
意地悪い言い方に、わたしは頬をふくらませた。
「ハムスターみたいだ」
アタラが笑い転げる。
ますます剥れるわたしに、アタラはごめんごめんと謝ると、そっと頬にふれてきた。
「そんなに、むくれないの」
普段通りの優しい言い方だ。
メガネ越しのいつも通りの柔らかい目元。
アタラの態度はいつもどおりだった。
それなのに。
どうして、こんなにも嘘くさいのだろう。
唐突に浮かぶ、自分のなかに浮かぶ戸惑いに、さらに戸惑う自分がいた。
わたしのアタラに対する信頼はどうした訳か、揺らいでいるみたいだった。
「…」
アタラは最後にわたしの頭を軽く叩くと、立ち上がり部屋から出て行こうとした。
「ま、まって…!」
わたしの声にアタラはなんだい、と振り返った。
掛け布団をはねのけて、アタラのすぐ側にかけよる。
「アタラ…わたしは、ほんとうはどこにいたんですか…?」
まっすぐに見つめ合う。
アタラはそっと、瞳を細めた。
「この世界はね。僕の前任者によって、強力な魔法に掛けられたんだ」
「…アタラ?」
「まだ掛けられ続けてると言ってもいい。きみの魔法は、異世界に行く事によって解けかけているんだ。いや、また別の魔法に掛かろうとしているとでもいうべきかな」
「どういう、イミ?」
目を見開くわたしに、アタラはやさしく、いつものようにほほ笑んだ。
「きみはまだ、魔法にかけられていなさい」
今日は安静にしていること、そう言い残して今度こそほんとうに部屋を出て行った。
わたしはもう一度、ベットに横になった。
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