第14話 「最後の火吹き」 妖怪「俺だけは特別」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



「ネムカケ! 今日は瓢箪ひょうたん公園までパトロールしに行こうよ!」

「よしきた!」

 日曜日の今日はいい天気だったので、シンイチとネムカケは隣町の西河原にしがわら町まで遠出し、瓢箪公園までパトロールがてら行くことにした。自転車の前かごにネムカケを乗せ、住宅街を隣町まで走る。シンイチの地道な活動で、最近周辺には「野良心の闇」(宿主もなく空中にふらふらしている奴ら)は見かけなくなってきていた。見るたびに小鴉で斬ってきたからだ。

 わざと遠回りして知らない道を行ってみたが、そこにも野良は見当たらず、一人と一匹は爽やかな風を楽しんだ。


 瓢箪公園は、ひょうたん型の大きな池を中心に、森の広がる大型公園である。家族連れやカップルが集まり、思い思いの時を過ごす。カップルに人気なのは手漕ぎボートだ。池の真ん中の小島に賽銭を投げると恋が叶うという。クレープや焼きそばの屋台も出るし、ランチ移動販売車もやってくる。

 シンイチのお目当ては、池の西側通りに集まるストリートアーティストたちだ。似顔絵描き、ジャグラー、パントマイマー、アコーディオン弾き、バンド、ダンサー、古本売りやレコード売り、大道芸人などが集まってくる。それがなんだかおまつりみたいで楽しくて、シンイチはネムカケや親友のススムと時々見に来るのだ。

「ストリート人形浄瑠璃はないのかのう」と、浄瑠璃好きのネムカケはきょろきょろする。

「そんなちゃんとしたのは、ないんじゃないの?」とシンイチが言うと、ネムカケは反論した。

「伝統芸能を『ちゃんとしたもの』と考えるのは間違いじゃぞ。それは今貴重だから保護されてるだけであって、浄瑠璃も歌舞伎も、能も狂言も、そもそも西洋演劇だって、もともとは屋根も小屋もない、ストリートではじまったものじゃ。往来こそ舞台。たとえば市、たとえば辻。人集まるところに芸能あり。見世物とは元来、そういうものじゃ」

「そういうものなのか。じゃストリート浄瑠璃、いてもいいのに」

「むう。残念ながら最近の若者には、西洋ダンスや西洋音楽が人気のようじゃな……」

 ゆるくカーブする並木道沿いに、日曜アーティスト達が「作品」を並べている。音楽理論に基づいたバイオリンを奏でる音楽家もいれば、下手くそな字で意味不明な詩を書く人もいる。その玉石混交も、ストリートの楽しみではある。


 入り口のあたりに、「変なおじさん」がいる。この人はよく見る人で、黒い燕尾服で赤い鼻をつけ、おどけた動きと手品で、いつも子供たちの人気を集めている。

「この牛乳を、一瞬にしてコーヒー牛乳にします」

 と、牛乳の紙パックを皆に見せた。

「ワン、ツー、スリー」

 牛乳パックを目の高さに上げ、一瞬にして胸の位置に戻すと、コーヒー牛乳のパックに変わっている。

「スゲー!」とシンイチは観客に混ざり拍手喝采。

「一瞬で戻します。ワン、ツー、スリー」

 とまた一瞬目の高さに上げ、胸の前に戻すと白牛乳の紙パックに戻る。

「スゲー!」とシンイチが素直に驚くと、おじさんはおどけた顔で笑って種明かしをした。

 四角柱の紙パックは、二面が白牛乳、二面がコーヒー牛乳の柄に細工されているのである。「四角柱の側面は、同時に二面までしか見れない」ことを使った簡単なトリックだ。

「なんだよ! 上でクルッて回転させてるだけじゃん!」とシンイチはおじさんの笑みにつられて大爆笑。

「子供だましでスイマセン」とおじさんは陽気に、次のマジックのネタを銀色のジェラルミンケースから探す。「次は何が見たいかな? ヒモ抜け?」

 シンイチは集まる観客たちのうしろから背のびして、続きを見ようとした。そこでおじさんの奥のアーティストの異変に気づき、たのしいマジックどころではなくなってしまった。

 彼らに全員、「心の闇」が取り憑いていたからである。


 ヒップホップで踊る黒いパーカーのダンサー。即興の詩人。指定されたポーズのまま静止する白塗りのパフォーマー、風船アーティスト、ミニ盆栽売り。南米の打楽器を叩く二人組、手相見の男、切り絵アーティスト。彼らに、拳大サイズの妖怪「心の闇」だ。イエローグリーンで鼻が高くとがった、プライドの高そうな面構え。

「妖怪……『俺だけは特別』か」

 シンイチは妖怪の名を告げた。ネムカケはいささかむかつきながらシンイチに尋ねた。

「ということは何か。こやつら、俺スゲーってのを見せつける為にやってるってことか」

「たぶん。誰もが、自分だけは他の人と違う、特別な人間だって思ってる。そういう心に取り憑く妖怪だね」

「そんなもの、芸人の本分にもとるわい」

 奥へ行けば行くほど、彼らに取り憑く「俺だけは特別」のサイズは大きくなる。拳大から手のひら大、サッカーボール大へ。自称写真家の作品集、自称古代史研究家、自称インド哲学者の研究本、自称即興演劇の上演、自称映画監督の自主映画。

「だんだん、重病患者か。自意識の迷路の奥へ踏み込むようじゃ」

「ラスボスがいたよ」と、シンイチは立ち止まった。

 一番奥に、陰気な油絵描きが大小の作品を広げていた。彼の身長よりも大きな「俺だけは特別」が、傍らに体育座りをしていた。

 彼の作品を、何気なくシンイチは覗き込んだ。

 禍々しい絵ばかりだ。どの絵も、全身を黒に塗りつぶされた男が座り込んでいる。目はヒビが入ったり、渦になっていたり、針で潰されていた。体は拘束具を嵌められたり、十字の傷が入ったりしている。指が八本ある手を切断した絵もあった。病んだ絵だ。見ているだけで不安になってくる。たとえ妖怪に取り憑かれていなくても、この人の心になにかあったのかと心配する絵だ。ネムカケはシンイチに警告する。

「シンイチ、長くこの絵を見るな。負の波動に飲み込まれるぞ。闇を覗き込むとき、闇もお前を覗き込むのじゃからな」

「うん、分った」

 陰気な油絵の陰気な絵描きは、少年と猫に気づいてじろりと見た。シンイチはその男に思い切って話しかけた。

「あなた、妖怪に取り憑かれていますよ」

 返って来た答えは、シンイチの予想を覆すパターンだった。

「ああ。……知ってる」


    2


 絵の主は、山中やまなか貴文たかふみといった。美大を卒業してから、定職につかずバイトで食いつなぎ、絵を描いては公園に売りに来るのだという。

「これ、売れるの?」と、シンイチはいつものようにストレートな質問をした。

「全然だ。絵ってのは元々そんなものだよ」

 最初は普通に風景画や人物画だったそうだ。あまりにも売れなくて、色々なパターンの絵を描いていたら、ある日この画風で同じ絵を延々描き続けるようになってしまったのだという。

「みんな俺の才能を分かってない。ずっとそう思ってた。ある朝鏡を見たら、できもののようにこいつが俺の肩に出来ていた。とくに気にもせず、この画風の絵を一枚描いたんだ。そしたらこいつが『お前は特別』って言うんだ。それからだな。これ風が俺なんだって思って、時を忘れて描き続けた。何枚も何枚も何枚も。……こいつは時々俺と喋るんだ。ひと言のときもあるし、世間話をすることもある。でも毎回結論は同じだ。俺の才能は特別だ、ってことさ。手を変え品を変え、こいつは毎日俺に吹き込んでくる。だけど、芸術家が自分の才能を特別だと思うのは当然だろう? 他のやつらに出来ないことを神に与えられたからこそ、芸術をつくるんだろう? その特別な才能をこそ、皆が有難がるんだろう?」

「……でも、売れないんでしょ?」

「世間の人には、まだまだレベルが高すぎるんだろうよ」

「うーん」

 難しい問題だとシンイチは考える。たしかに平凡な絵なんてあまり意味がないし、特別なことは芸術家として大事だとは思う。

「でも、これっていい絵かなあ」

「いい絵って何だ? 既にあるいい絵とおんなじのを描いても駄目なんだよ。芸術家ってのはさ、誰も気づいていない、『新しい良さ』を見つけることが使命なんだよ。『良さを更新する』のが芸術家だ」

 山中の言い分も間違ってはいない。だけど、妖怪「俺だけは特別」の内に漲る栄養分は何年にも渡ってたくわえられ、主張を続ける山中の顔は衰弱している。

「じゃあさ、これ、誰のために描いてるの?」

「……誰か、特定の人のためじゃない。言ってみれば、人類の進歩のためだ」

「人類って、誰と誰と誰?」

「君は子供だから分からないかも知れないけど、具体的な人じゃなくて、抽象的な人類のためさ」

「だから、誰と誰と誰?」

「…………」


 シンイチと山中の禅問答の後方で、騒ぎが持ち上がっていた。

 警官二人と、黒パーカーのダンサーが揉めているようだった。

「ストリートの表現に、許可なんているのかよ! ないから路上なんだろうが!」とダンサーは激しく怒っている。

「ここは公共の場所ですから」と警官は感情を込めずに言う。

「公共じゃねえストリートなんかねえだろ!」

「最悪の場合、強制排除しますよ」と、背の低いほうの警官は嫌味に言った。


 そこへ赤鼻のおじさんが、「マアマア」と仲裁に入った。

「何だよ!」

「お上と揉めちゃあ駄目だ。ここは引き下がるのが賢いよ?」

「こいつらムカつくんだよ!」とダンサーは感情的になっている。

「大人しく引き下がればいいものを」と背の低い警官が毒づいた。

「なんだと!」

 ダンサーはかっとなり、彼を一発殴った。もう一人の警官が、準備していたかのように無線で連絡する。

「こちら2524。応援要請します」

 最悪の事態だ。

 公園の外にパトカーが一台見えて、サイレンを短く鳴らした。威嚇だろう。このままではもっと増えるかも知れない。

「群れなきゃ何も出来ない癖に」と殴られた警官は更に挑発する。

「何だとコラ!」と再び掴みかかろうとしたダンサーを、赤鼻のおじさんが体を張って止めた。

「みんな、逃げるんだ! 道具を持て! 逮捕される前に逃げるぞ!」

 言うが早いか、すたこらさっさとジェラルミンケースを持って走り出した。

 事態を飲み込みきれない他の人達も、パトカーから三人の警官が降りてきたのを見て顔色を変えた。

「お前が殴るからだろうが!」と路上詩人が黒パーカーの男に突っかかった。

「ケンカはあとでやれ! 逃げるが勝ちだよ!」

 赤鼻のおじさんはケースを抱え、パトカーがやって来た反対側に向かって走り出す。その先に、禅問答中のシンイチたちがいた。おじさんは、並んだ油絵の裏の門から逃げるつもりなのだろう。

「アンタも早く逃げな。捕まったら元も子もないぞ」とおじさんは山中にウインクした。

 パトカーが更に二台来たのを見て、アーティスト達はようやく浮き足立ち、赤鼻のおじさんについて走り始めた。

「バカか! こういう時は散るもんじゃ! ついてきてどうする!」

 トランペッターも風船アーティストも、山中もおじさんについていく。

「こりゃたまらん!」とおじさんは、住宅街の狭い路地へ入り込んだ。

 警官たちは何人も走ってくる。アーティスト達は四方八方に散りはじめた。逃げきれなかった者や抗議した者は逮捕されている。さっきまで平和そのものだった芸術家村は、一瞬のうちに魔女狩りの現場になった。

 このどさくさで、シンイチは山中を見失ってしまった。警察を見ただけで肝を冷やしたのか、アーティスト達の「俺だけは特別」の何匹かは宿主から離れ、漂う野良妖怪となった。シンイチは不動金縛りをかけ、火の剣で斬り伏せた。


「そういえば、赤鼻のおじさんだけ妖怪が取り憑いていなかったね」とシンイチはネムカケに話した。

「キャリアが長くて謙虚になったのか、心の闇を寄せつけぬ何かの考えがあるのか。人形浄瑠璃の竹本座の連中と、この話をしてみたいものじゃのう」

「あのおじさんは、『自分が特別』って思ってないのかな」

「そうかも」

 彼らは様々な場所からあの公園に集まっているらしく、千里眼で彼ら全員を探すのは困難であった。

 次の日の瓢箪公園は、月曜で誰もいないシンイチは、次の日曜を待った。


    3


 次の日曜日。先週の一件が響いたのか、アーティスト達は半減していた。小さな妖怪が取り憑いた、にわかアーティスト達はほとんど姿を消し、大きめの「俺だけは特別」の憑いた人、すなわちネムカケの言うところの、「重症患者」ばかりが残っていた。勿論、山中も先週と同じ場所にいた。なぜか妖怪の憑いていない唯一の人、赤鼻のおじさんは、相変わらず飄々と子供相手にマジックを披露している。

 山中はシンイチが再び訪ねると、向こうから話しかけてきた。

「お前、この妖怪が見えるんだな?」

「うん。それは『心の闇』っていう新型の妖怪さ。宿主の負の心の部分を食べて成長し、ずっと負のループに陥らせる。いったん悩み始めたら、ずーっと悩みのループに入っちゃうじゃん? そんな感じ」

「俺は悩んでなんかいねえよ。俺の特別な才能を見せてやる、って思ってるだけだ」

「その思考が既に、『心の闇』に取り憑かれてるってことなんだよ! ここに来てる人たちは、大なり小なり取り憑かれてるみたいだけど」

「そうなのか。あの踊ってる奴も、ジャグリングしてる奴も、詩人も?」

「うん」

「あの赤鼻の手品師も?」

「あの人だけ、なんでか心の闇がいないんだ」

「じゃ何のためにやってんだ? ガキ相手に何の意味があるんだよ?」

 赤鼻のおじさんは、ネタをばらしては子供たちを今日も沸かせている。

 その時、またもパトカーが二台やってきた。

「いかんのう。目を付けられたなこりゃ」

 赤鼻のおじさんは手品の道具を片付け始め、皆に言った。

「来週は榎島えのきじま公園に集うことにしよう。そこなら警戒は緩い」


 その公園は駅で三つほど離れたところにある。次の日曜、前回のメンバーが大体集まっていた。今まで何もなかった公園に急に「芸術家村」が出現したのが珍しかったのか、多くの人が見物に訪れていた。しかし人出があればあるほど、通報する誰かが出るものだ。またしても警察がやってきた。

 赤鼻のおじさんが、笑顔を崩さずに言う。

「解散が身の為だな。来週は福助ふくすけ公園」


 かくして毎週日曜日、ストリートアーティスト集団の流浪の日々、警察との追っかけっこがはじまった。赤鼻のおじさんと山中をレギュラーに、黒パーカーのダンサーや即興詩人は準レギュラーに。メンバーは時々入れ替わりがあった。彼らの「俺だけは特別」は大きくなったり小さくなったり、自然にいなくなったりしていて、再び取り憑いていたりもした。

「どういうことだろ」

「自信があったり、なかったりするのと同じかのう」とネムカケは答えた。

 長いこと付き合うと、「作品」のバラツキも分かってくる。出来がいいときは妖怪に取り憑かれ、悪い時は妖怪は外れるようである。

「つまり妖怪が大きく育った人って、自信があるってこと?」

「必ずしもそうではない。ずっと恵まれない事を、『特別ゆえに理解されないから』と信じ込むパターンもあるの」

 シンイチにはよく分らない。芸術家ってなんだか複雑だ。


 回を追うごとにメンバーは脱落し、ついに赤鼻のおじさんと、黒い絵を売る山中の、たった二人になってしまった。赤鼻のおじさんは、手品の道具を準備しながら山中に話しかけた。

「なんかつまらんねえ。ついに二人になっちまったねえ」

「みんな根性がないんだよ。最初に一発殴った奴は根性があったけど、やっぱりいなくなった。その程度の覚悟でしかやってないのさ」と山中は答える。

「覚悟? 何の覚悟だい?」

「『俺だけは特別』って思い込みさ」

「ははは。お兄さん若いねえ」

 シンイチはここがタイミングだと思い、ついにおじさんに尋ねた。

「おじさんは、なんのためにやってるの?」

「ん?」

「この絵の人、山中さんは、人類の為にやってるって聞いたんだけど、よく分んなくて」 「わしはもう半分引退状態でね。この手品は趣味さ。こんなのが好きになってくれる人が増えたらいいなと思って、この楽しみをみんなに普及してるのさ」

 山中は反論する。

「そんなの、砂漠に種を蒔くようなもんだろ」

「ひとつ芽が出りゃOK。ふたつ芽が出りゃ結果的に増えるだろ?」

「……気が長えな」

「ははは。よく言われるよ」

 山中は深刻な顔をして、人生の先輩に秘密を打ち明けた。

「俺の肩にさ、妖怪が取り憑いてるんだ」

「ん?」

「妖怪『俺だけは特別』って奴が」

「妖怪?」

「……自分が特別だから、やってるんじゃないのか? その為に修行するんじゃないのか? 何の為だ? あんたは、誰の為にやってるんだ?」

「ふむ。……若者よ」

 おじさんは腰を据えて、赤鼻をつけたまま真面目な顔になった。

「よく言うだろ? お客様の為が一番、と。『お客様は神様です』とか言って、お客の望むままを叶えたいって奴もいるよな?」

「そうしろと?」

「逆。そんなバカなことはしてはいけない。客はバカではない。我々がバカでないのと同じくらいにはな。何でもやる奴は単に媚びる奴だと、バカじゃないなら気づく。そしてバカにされる。さりとて、自分の為だけにやる奴はもっとバカ」

「……じゃ何の為に?」

「我々の本質は、さまよえる民だ」

「……さまよえる民?」

「ほんとうに特別なら、ひとつの所にとどまらんでよし。好きな所で芸をし、好きな所で寝る。木の根を枕とし、星空を毛布とする。飽きられたり嫌われたら、次の寝床を探せばよいのだ」

「それ、誰の言葉?」

「俺の」とおじさんは笑う。

「ヨーロッパは一通り回ったよ。アメリカも東海岸と西海岸は制覇したな。サーカスとはジプシーと見つけたり、さ」

「サーカス」

「俺、元々サーカスのクラウンだったの」

「クラウン?」

「ピエロのこと。日本だと道化師はバカにされるけど、本当はサーカス一の実力者がやる役なんだよ?」

 シンイチは公園の外の警官に気づいた。

「またおまわりさんが!」

 山中は反射的に絵を片付けようとした。

「大丈夫。あのよれよれじいさん、俺の古い知り合いだから」と赤鼻のおじさんは制した。

「あいつは敵じゃない。まあ、味方でもないんだけど」

 その老警官は、自転車を降り、ずんずんとこちらに歩いてきた。


    4


小此木おこのぎさん。あちこちで若者を扇動されちゃ困るねえ」とその老警官は声をかけてきた。

「あんたこそ。権堂ごんどう警官は警部にもなれず、まだ三等兵のまま地回りやらされてんのかい」 赤鼻のおじさん、小此木と呼ばれた男は返した。

「ふん。お前さんを捕まえる為に現場に残ってんだよ」

「俺たちゃ別に法律に反してないでしょ」

「昔話はいいんだよ。どっかのチンピラが警官殴ったせいで、俺ら厳戒態勢やらされてるんだよチクショウ」

「最近の警察は暇なんだねえ」

「俺の管轄でやってりゃ、俺が目こぼしすると思ったのかい」

 二人の旧友は矢継ぎ早に悪口で牽制しあった。どうやらこれが二人の挨拶らしかった。

 権堂と呼ばれた老警官は、くわえ煙草に火をつけた。

「警官がくわえ煙草なんていいのかよ」と山中がつっこむ。

「この人不良警官なんだ。気にするな」と小此木は笑いながら嫌味を言う。

「そういえば最近、もうアレやんないんだって?」と、紫煙を吐き出した権堂は尋ねた。

「アレは、辞めたのさ」

「消防法が変わったからか」

「アレって何?」と、シンイチは横から尋ねた。

 権堂は酒を飲む真似をし、火のついた煙草の前で大きく息を吹いた。

「あ! 火吹くやつ!」とシンイチは目を輝かせた。

「そう。火吹き。知らないの? この人、火吹き男の日本記録保持者なんだよ。六・五メートルの火球をつくれる人なんていないんだから」

「へえ!」

「この人ロイヤルクラウンアカデミーの主席卒業者で、ヨーロッパじゃなんとか賞貰ったんだよ。なんだっけ」

「モンテカルロ」

「そうだ。モンテカルロのワールドクラウンコンテスト」

「それってすごいの?」とシンイチが聞く。

「その年の世界一」と権堂は旧友を自慢する。

「すごいじゃん!」

 しかし小此木は制する。

「ほんとに凄い人はそんな所にいないものだよ。森の中の木の根で寝ているさ」

「大体、アレなんで辞めたんだ」

「アレは、引退したんだよ」

 権堂は子供のように反発した。

「なんでだよ! なんであんなすげえの辞めちまうんだよ! 俺はさ、アレ見てはじめて人生変わるほどの衝撃を受けたんだ。みんな目輝かして見てたろ。アレが終わるまで俺はわざわざサイレン鳴らすの待ってたぐらいだぞ。その前の手品なんて前座だろ? アレこそ特別なもんだろ!」

「……特別」

 山中の目の色が変わった。

「そんな特別なもの、どうしてやめたんですか」

 小此木は笑った顔を崩さなかったが、目は寂しい色をしていた。

「いやあ。体、壊しちゃってね」

「全然頑丈なくせに」と権堂は小此木をどついた。

「ははは。外は丈夫だけどな。肺をやったんだよ」

「肺?」

「火を吸っちゃったの?」とシンイチは想像しながら聞いてみた。

「いやいや。火を吸ったら肺が大火傷で命を落とすよ。灯油を肺の中に吸い込んじまったんだ。化学肺炎ってやつだな」

「アレ、酒じゃねえの?」と権堂は聞く。

「口の粘膜から吸収するから、火がつく酒スピリタスは、酔いが回ってあとあと危険なんだよ。警察から逃げて走る体力残しとかなきゃいけないし。常温で気化しない灯油を使うんだ。ヨーロッパではパラフィン、アメリカではケロシンっていう。でも口の粘膜から吸収するのは灯油も同じ。口に含む時間はゼロじゃない。月一回のペースでも、皮膚に斑点が出来たり口内に水泡が出来たり、中毒症状が現れる」

「……そうなの?」

「マルセイユに、顎の骨溶かした奴もいたよ。それでもやるのが命知らずの誉れって言ってた。保証のないのが俺たち火吹き男だ。でもさ、むせないことが一回もない保証なんてないだろ?」

 シンイチは喉が渇いてきた。

「……むせたの?」

 小此木は口に灯油をふくんだ状態で、むせる真似をした。息を吐く反動で、霧状のそれを思わず吸ってしまう真似も。

「生理的反応だけはどうしようもないね。そのまま二週間意識が戻らず、途中二回死にかけたってさ。今でも左肺の下半分は回復してない」と、小此木は左胸を撫でまわした。

「スマン、さっきどついた」

「じゃあ一発返す」と小此木は笑って権堂の鳩尾にパンチをかました。

「いてて。じゃあもう一生あの火の玉は見れねえのかよ」

「アレは、記憶の中だけのものだね」

 静かに聞いていた山中はため息をついた。

「そんなにすごいってどんなんだ。人生が変わるってどんなんだ。俺はアンタに『なんのため』って聞いた。俺は人類のためにこの絵を描いてるって言って、この子に『具体的に誰?』って言われて、答えられなかったんだ。……その火の玉は、なんのためなんだ?」

「……物理的に見れないから、なんとも答え難い」

 突然、シンイチがひらめいた。

「物理的になら、ねじる力を使えば出来るかも」

「?」

「要は、肺にきんの気を満たせばいいんだよね!」

「??」



 シンイチは公園の隅に「水鏡」をつくり、遠野の大天狗に相談した。

「確かに。五行ごぎょうの木火土金水の気は、それぞれ、五臓の肝、心包しんぽう、脾、肺、腎に対応している。だが、金の気をどこから集めるつもりだ」

「地中に鉱脈があればいいんじゃない?」

「ふむ。あるぞ。そのさいやま公園は高台にあるだろう。断層の上にあるから、地下鉱脈が近いかも知れぬ。つらぬく力で地面を貫き、ねじる力で金の気を螺旋に取り出し、肺に満たせばよい」

「やってみる!」

「地脈に触れる時は火傷に気をつけろ。火を吸い込むことになるぞ。お前の力では地脈の火伏せまでは出来ぬだろ」

「うん、わかった!」


 シンイチは皆の前で朱い天狗の面を被り、恭しく礼をとった。

「さあて皆さんお立会い! 天狗が力を示します!」

 と地面にしゃがみこみ、右手の人差し指をやわらかい土につきさした。

「つらぬく力!」

 シンイチは地中深くを「力」で探る。深いところに断層を見つけ、そこ沿いに力を進めて鉱脈を探り当てた。たしかに近くに熱い流れがあるのが分かる。これを吸い込まないように。

「ねじる力!」

 力の先で触れた金の気を、小此木さんの左肺とねじり合わせた。

 ぎゅるん。ぎゅるん。ぎゅるるるん。

「手応えあり!」

「……ん?」

 小此木が反応した。不思議な力が体に満たされ、久しぶりに森の中で深呼吸をしたような気になった。

「何だ? ……これ、何?」

「天狗の術さ!」

 小此木は深呼吸をくり返した。極限まで息を吸い込み、フッ、フッ、フッ、と独特な呼吸法をくり返す。

「どう?」

「……不思議なこともあるもんだな。気功みたいなことか?」

「だから、天狗の術だって!」

「どうだ?」と権堂は小此木の顔をうかがった。

 小此木は頷く。権堂は小さくガッツポーズをした。

 シンイチは警告する。

「でも、二時間ももたないかも。そんなに金の気がなかったし」

「道具を家から持ってくるのに一時間。……じゃあ、一時間後に開演だ。あんたがここまでついてきた根性に応えて、見せてやるよ。火吹き男小此木クラウンの、引退公演」

 小此木は、山中に真面目な顔をした。それが営業スマイルではない、本来の彼の笑顔であった。


    5


 「伝説の小此木クラウンが最後の火吹きをやる」という情報は、権堂の人脈に流され、ツイッターなどでたちまち拡散された。たった一時間で、元関係者や、かつてここで火吹きを見た人が二百人以上集まった。

 公園の中央には黒い瓶が置かれ、その口から小さい炎が、灯油をしみさせた綿から灯っている。それがステージと観客を分ける、境界線代わりであった。

 集まってきた人々に、小此木は深々と礼をした。

「さて。クラウンとは愚か者の意味でございます。世界で一番バカな者のことです。バカは世間でバカにされますよね。ところが不思議なことに、ここではバカが一番えらい。何故でしょう。そんな不思議な世界へ、皆様をしばしお連れいたします」

 顔を上げた小此木にはいつの間に赤鼻がついていた。急におどけた顔をして、後ろのジェラルミンケースによたよたと走り、牛乳パックを出してくる。

「一瞬でこれをコーヒー牛乳にします。ワン、ツー、スリー」

 牛乳パックを一瞬で回転させ、コーヒー牛乳の面を見せて驚かせた。また一瞬で牛乳に戻す。観客の驚きを得ると、即座に裏返してネタバレし「失敗した!」という顔をして笑いを取った。

「なんだよ、いつものくだらないネタかよ」と山中は失望した。

「お前何にも見てねえな。あの芸は徐々に客をあっためるんだよ」と権堂は解説した。

「大体、あれみんな落ち知ってるだろ。でも何で毎回笑えるんだ?」と質問した。山中は、すぐには答えられなかった。

 小此木はいくつかの手品で笑いを取り、客席は徐々にひとつの塊になってゆく。客席とステージが一体になる頃には、すっかり空は夕方の青を経て夜の闇が訪れていた。闇になるまで心を奪われていたことは、誰一人気づいていなかった。

「さて皆さん。今夜だけ復活します。一回しかやりません。そこ、下がって。危ないよ。そっちも下がろうか。風下はもっと危ないよ」

 小此木は火のついた瓶を手に取って、炎の範囲を示して見せた。観客は途端に静かになり、ぴんと張り詰めた空気へと変わった。

 炎がゆらめき、小此木の顔と観客を照らし、影をゆらめかせた。闇の中で見る炎は格別である。原始的な恐怖と暖かみが、同時に場を支配する。

 小此木は、客席の山中に手招きをした。

「君のいるべき場所はそこじゃない。こっちだ」

 山中は小此木の背中側に立たされた。

 観客席とステージの間には、目に見えない一本の線がある。その線から観客は中に入らず、芸人もそこを越えて観客になだれこむことはない。その線は、お互いの紳士協定だ。小此木は、その一本の線を越え、山中をステージ側へ招き入れることを許したのだ。

「火を見るんじゃない。火を見る人の顔を見ろよ」と、小此木は耳打ちし、観客に向き直った。

「さあてお立会い! 音楽はないよ! 火の音だけが音楽さ!」

 小此木は灯油を口一杯に含んだ。この量の多さが、要するに火球の大きさになる。この瞬間から、口の粘膜で吸収がはじまる。手に持つ火炎瓶が彼の顔を照らした。余った左手で、クイッ、クイッと観客を煽る。観客の拍手は最初はばらばらだが、次第にリズムが揃ってゆく。手拍子、手拍子、手拍子、手拍子。それはひとつのグルーヴだ。山中もシンイチも権堂も、声をあげながら手拍子に乗ってゆく。オイ。オイ。オイ。オイ。

 それは実際には、ほんの一瞬の出来事だ。だが観客にとっては、鮮烈すぎて長く感じられた。

 ぼう。

 六・五メートルの火の玉が、キノコ雲のように吹き上がって闇夜へ消えた。それは生まれた魂が一生を燃やして、天へ帰ったような光景にも見えた。

 観客は、手が痛くなるまで拍手した。


 三々五々、観客たちは帰路についた。客足を混乱させないよう、小此木はまた小さな手品をやりはじめ、残る客と帰る客とを二手にわけた。

「すごかったね!」とシンイチは山中に声をかけた。

「お前の質問の答えを、見てきたよ」と、山中は答えた。

「あの観客の丸く見開いた目を見たらさ、俺の為でもないし、人類の為でもないし、客の為でもないって、答えるしかねえよな」

「どういうこと?」

「あの芸は、あそこにいた特別な神様の為のものだよ」

「?」

 火の消えた、元の場所に置かれた火炎瓶を見て山中は答えた。

「神の名は、たぶん『ステージ』っていうんだろう」

 こうして、山中の肩の妖怪「俺だけは特別」は剥がれ落ちた。


「不動金縛り!」

 シンイチはこの場に不動金縛りをかけ、腰のひょうたんから天狗の面と火の剣を出した。

「火よ、在れ」

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。黒い短剣、小鴉から炎が立ち上がり、たちまち闇夜を焦がす紅蓮の炎となった。

「一刀両断! ドントハレ!」

 水平に剣が薙がれ、炎が一文字を描いた。妖怪「俺だけは特別」は高慢ちきな三角鼻から真っ二つになり、断末魔を上げて塩の柱となった。



 その後、瓢箪公園には徐々にアーティスト達が戻ってきたようだ。山中は一番奥のいつもの場所で、小此木さんのくだらない手品と、それを見て笑う子供たちを眺めていた。

 山中は、シンイチ少年にプレゼントする絵の最後の仕上げを、この公園でやろうと思っていた。今日がその約束の日だ。あのとき見た光景を山中は丹念に描いていた。闇の中に浮かぶ巨大な火球。その火を吹き上げる男の背中。それを取り囲む人、人、人。皆丸い目を見開き、皆火球の赤に照らされ、皆魂を奪われた顔をしている。観客の中に、権堂警官も黒パーカーのダンサーも詩人もバイオリニストも、天狗面のシンイチもネムカケもいた。あの時自分は観客席にはいなかったが、自分もその観客席に描き込むことにした。観客席とステージを区切る、見えない一本の線の上に自分を描いた。全員が丸い目をして、全員の瞳に丸い炎がうつっていた。


 あれから、画風が変わったと思う。

 少年と猫が、自転車に乗ってやってくる音がした。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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