免許合宿紀行 16日目 「ノーマルエンドの思い出」

起床して、まずしたことは、荷物の確認であった。


合宿参加者は、卒業検定を受検するその日の朝に、ホテルをチェックアウトすることになっている。

仮に、卒業検定に落第した場合は、他の部屋、或いは、他のホテルにあらためて、再チェックインすることとなる。

つまり、基本的には、卒業検定を合格するという前提での行動を強いられる。


合宿費用を安くするためには仕方のないことかもしれないし、合格が決まったらすぐに帰りたいという人がいるのも解る。

が、どうにも釈然としない。

せめて、合格が決まった後に、荷造りをする余裕が欲しいものである。

その上で、もう一泊していくか、教習生が選べるようになっているのが理想ではないだろうかと考える。


もし、もう一泊して行くことができるならば、教習を気にすることなく、宿を気にすることなく、自由に羽根を伸ばす時間が与えられる。

多少追加料金が発生しても、需要があると考えるのだが、どうだろうか?


もう一泊していきたいのであれば、それぞれ宿を手配すればいい。

そこまで、面倒はみない。

そう言われれば、それまでかも知れない。


ただ一方で、合格するか、落第するか、卒業検定を受けてみなければ解らないという現実がある。

そのため、前日に宿をとっておくことはできない。

オフシーズンであれば、どこのホテルにも空室があるかもしれないが、そうではない時期もある。


それに、最後の一日に時間があれば、教習生同士が交流するための打ち上げなどの企画を提案しやすくなるかもしれない。


そういった事がしたいなら、最終日までに、仲良くなっておけ。

そう言われれば、それまでかも知れない。


2時限目(9時20分~10時10分)

2時限目(10時20分~11時10分)

卒業検定


受付で手続きを済ませ、校舎2階にある教室に入ると、既に多くの教習生が集まっていた。

間もなく、教官が現れ、卒業検定についての説明、及び、検定コースの発表が行われた。


3人1組の班がつくられ、検定を受ける順番が告げられ、それから、それぞれ担当する教官に続いて教室を出た。

仮運転免許実技試験の時と同様に、待合室で悶々とした時間を過ごすこととなった。


とりあえずと、野菜ジュースを飲み、それから、教室を出る前に撮っておいた写真を使って、検定コースを確かめる。

修了検定のコースは、走り慣れた南コースではなく、走る機会の少なかった北コースであった。

瞳をつむり、瞼の裏に、走った道を再生する。

完璧ではないが、それでも、特徴のある場所は、憶えている。

地図と記憶を紐付け、警戒すべきポイントを確かめる。


必ずしも必要なことではない。

考える必要はないし、憶えている必要もない。

順路は教官が指示してくれる。

ただ、それに従って、運転さえすればいい。

そういう意味では、自主経路設計よりも、意識すべきことは少ない。


ただ、それでも、やることをやっているふりをしなければならなかった。

緊張をはぐらかすためには、そうせざるを得なかった。


長かった。

中々、戻ってこない。


振り返れば、この待合室にいる時間は、いつも長く感じられた。

一方で、教習車の中にいる時間は、いつも短く感じられた。

時間の流れ方が違っている。


相対性理論では、動体の中にいると時間の流れは遅くなるはずだが、真逆である。


不安に苛まれながらも、できることがない時間。

無心で、忙しく、手足を動かしている時間。


光速で移動していようが、前者の方が長く感じるのだろう。

結局のところ、人の感じ方は相対的なものではなく、絶対的なものだ。


断っておくが、こんなことを考えていたわけではない。

書きながら、考えた追想である。


その時の私は、ただ、MADに溺れながら、一刻も早く、教習車が戻ってくることだけを願っていた。


教習車は、張り詰めた糸が伸び切る寸前で戻ってきた。

1時間近くは、待たされた。


待ちくたびれていたおかげか、身も心も弛緩していた。

集中も、緊張も、続けられるものではない。


教習車の前後を確かめ、そして、運転席に座る。

何も変わらない。

心は静かだ。


ドアをロックし、シートベルトを締め、シートを調整し、ミラーを調整し、そして、エンジンキーを回す。

繰り返してきたことを繰り返し、そして、クラッチを繋いだ。


何のことはない。

振り返ってみれば、呆気ない。

繰り返してきたことを繰り返しただけだ。

何も新しいことはない。

だから、伝えるべきこともない。


ただ、失敗を繰り返しながら、学んできたことを実践した。

運転した。

それだけだ。

他には何もない。

特別なことなど何もなかった。


やがて、憶えのある広くもなく狭くもない道に入り、そこで停車するように指示された。

路肩に教習車を寄せて、ハザードを出し、それから、ウインカーを戻した。

運転席から降りるように指示され、数瞬遅れて、卒業検定が終わったことに気づいた。

得たものもの、失ったものもない。

ただ全てが終わったと実感した。


運転席を降り、背伸びをしてから、後部座席に入ると、座っていた教習生に笑顔でお疲れ様ですと、声をかけられた。

嬉しくなって、笑顔でお疲れ様ですと返した。


気づきは、その後にあった。

教官が自動車学校に戻るため、教習車を走らせ始めた。


その運転は、怖いくらいに研ぎ澄まされていた。


アクセルも、ブレーキも、クラッチも、踏むところは踏んでいく。

その見本とも言うべき運転だった。


シートに押さえつけられる感覚を幾度となく感じた。

だが、奇妙なことに、怖いとは感じなかった。

事故の予感をまるで感じさせない力強い安定感があった。

加速と減速の流れがあまりになめらかで快く、いや楽しくさえあった。


ガコン、ガコンという、クラッチペダルを強く踏み込む音が車内に響く。

一瞬で踏み込み、一瞬で切り換える。


私の運転とはまるで違っている。

運転する者によって、ここまで違ってくると、思い知らされているようだった。


どきどきした。

わくわくした。

極めていけば、何事であっても、人の心を動かすことができる。

運転もまた例外ではない。


私は、自動車というものが怖い。

できれば運転などしたくない。

この考えは、免許を取得した現在も変わっていないし、数年後、運転に慣れたとしても変わらないだろう。


だが、それでも、この教官の運転には、心を動かされた。

こんな運転ができるようになれば、きっと楽しいのだろうと、そして、この教官は運転することが楽しいのだろうと、そう感じさせてくれた。


自動車学校へと戻り、そして、教室で結果発表を待った。

緊張はしなかった。

確信があった。

そして、確信は現実となる。


同じ班となった2人と共に廊下に呼ばれ、全員に同じ言葉が告げられた。

卒業検定合格。

確信していたことだ。

確信していたことだが、喜びがこみ上げてきた。


おめでとうございます。

そう、お互いに声を掛け合って、教室へと戻った。


ほっとしていると、廊下から、女の子が泣きながら戻ってきた。

憶えのある子だった。

同じホテルに止まっていたこともあって、送迎バスの中で少し言葉を交わしたことがあった。


声をかけようとも考えたが、止めておく。

余計なお世話だ。

それは一緒に合宿に来た彼氏の仕事だ。


2人はお似合いのカップルで、いつも仲が良さそうで、微笑ましかった。

だから、彼氏が先に帰ってしまうということもないだろう。


程なくして、卒業証書、そして、卒業記念として初心運転者標識が配られた。

お疲れ様です。

そう互いに声を掛け合い、席を立った。


歩き出した。

呼び止める者はいない。

だが、それでいい。


ホテルへと送ってもらうため、送迎バスへと乗り込んだ。

バスの中には、憶えのある教習生はいない。

卒業する教習生の中で、ホテルへと戻る者はいなかった。


運転席の真後ろの席に座り、幾度となく言葉を交わしてきたバスの運転手の方と、また言葉を交わす。

相変わらず、とりとめのない話だったが、それに助けられてきたことは、事実だった。

話をするだけで、気持ちが楽になった。


間もなく、送迎バスはホテルへと辿りつき、最後にお礼を言って、送迎バスを降りた。

振り返ることはしなかった。

送迎バスは走り去り、そして、自動車学校との関わりは、全て終わった。


顔を上げ、天を仰ぎ、背伸びをした。

自由になっていた。


日々を振り返り、終わってしまったことを懐かしむ。

終わってしまったことに、虚しさと、寂しさと、哀しさを、感じた。


アドレス帳には、一人の名前も刻まれることはなかった。

だが、それでいい。

選んだ道に後悔はない。

過ごしてきた日々に後悔はない。


合宿に参加していた教習生の誰よりも、忙しい日々を過ごしてきたという自負があった。

それが胸を張らせる。

後悔はない。

素晴らしい日々だった。


ため息をつき、顔を上げ、前を向いて、一人歩き出した。


■本日の支出

野菜ジュース

120円

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