涙がまなじりから頬を伝い、その冷たさで俺は目を覚ます。散らかった薄暗い部屋、再生も消去もしていないため、規則的に点滅し続ける留守番電話の赤いランプ、溜め続けたゴミの匂い――そのすべてが、嫌でも俺の「いま」で、これから先、ずっと先も俺はこの「いま」の中だけで生きていく。


 俺は涙を拭うと、うまくバランスを取りながらベッドの上で半身を起こした。そしてすこしためらった後、床に散乱するゴミの上に身を投げる。床に這いつくばるイモムシのような俺の姿を、埃をかぶった新品の車いすがあざ笑うように見下ろす。俺はそれを無視して、ほふく前進でトイレまで這い進んだ。


 俺が事故のため、両足を切断したのは一年以上も前の話だ。あれから何日経ったかなんて数えていないし数える必要もないと思っている。そんなことはどうだっていいことだ。


 俺はこの両足を失うと同時に人生も失った。だから俺の時間はあの時から止まったままだ。この部屋にはカレンダーも、テレビも、パソコンも、時間を示すものは何もない。この部屋にそれらを持ちこみ、俺の時間を動かそうとする人たちまで、俺は完全に拒絶した。


 脂汗を滴らせながら、やっと俺はトイレにまたがり、用を足す。俺の膝から下は、そこから先が透明になったように存在を失くしている。俺はその醜い切断面に毎日嫌悪感を募らせ、早く死んでしまいたいとさえ願う。けれど、毎日食料を差し入れ、この部屋の賃料を払い続けてくれる年老いた両親を思うと、死へは踏み切れないでいた。それに――。


 用を済ませると、俺はドン、と便器から転がり落ちるようにしてトイレの床に這いつくばる。そして再びベッドの上によじ登った。どうでもいいことだが、カーテンを透ける光の様子から、どうやらいまは夕方か、それとも早朝のようだ。俺は枕元に置いておいた食パンの袋を乱暴にちぎり、中身を口に無理やり突っ込んだ。


 もし、このカーテンの向こうで世界が滅亡していたとしても、俺は気がつかないな。いたずらにそんなことを考え、久方ぶりの笑みが口元に込み上げる。けれどすぐに、昨日も母親が食料を置いて行った事実に気がつき、食べかけのパンを袋に戻した。そうすると、いつものごとくやることは何もなくなった。もう戻れない過去を夢想するほかは。


 俺は写真家だった。仕事になる被写体なら何でも撮ったし、雑誌社に有名人のプライベート写真を売ったことだって何度もある。けれど、俺が本当に撮りたいのは野鳥の写真で、そのきっかけは、夏休みの宿題だった朝顔のプランターに生えた、見たことのない植物だった。都会のプランターに生えたその植物を見て、学校の先生は『きっと、鳥の落としものね』と、そう言って笑った。『鳥の食べた実の種が芽吹いたんでしょう』と。


 鳥たちに興味を持ったのはそれからだ。俺は鳥たちと出会うため、山へ行くことが何より好きになった。俺は山を分け入り、彼らの好きな山の実を探し、彼らが来るのを何時間も待った。そして、時にはその美しい彼らの食糧――ガマズミや山ぶどうを失敬し、そのうまさに感激もした。


 今も記憶に残るその味に、思わず唾を飲み、それから苦い気持ちで唇を噛む。そんなことは、もうどうだっていいことなのだ――。


 そのとき、外のベランダで鳥の鳴く声がしたような気がした。町にいるのはスズメか、それとも鳥カゴから逃げたインコだろうか。ベランダには退院祝いで貰った何か赤い実のついた鉢植えが並んでいるはずだ。手入れもしないから、枯れてしまっただろうが、その実目当てだろうか――そう思いながら、俺は何とはなしに閉めっぱなしだったカーテンに手をかけた。そして、その隙間から見えたものに驚いて目を見張った。


 俺の目に飛び込んできたのは、艶やかに光る山ぶどうの実だった。山で見たものと寸分違わない、たわわに成った黒い実だ。


 もがくようにベッドから這い降り、必死でカーテンを開け、掃き出し窓からベランダへ転がるように飛び出た。そして無我夢中でその実に手を伸ばし、指先で摘むと、そのまま口へ入れた。山で食べた、あの味が弾けた。


 うまい、おいしい、懐かしい――そんな言葉が俺の口からこぼれることはなかった。ただ俺の胸は山の景色でいっぱいになり、俺の耳には山の鳥たちの声が響いた。


 世界はまだ滅びていない、それどころか何も変わらずにそこにある。俺は涙で見えない景色に瞬き、風を吸いこんだ。「いま」は山ぶどうの実る晩秋で、そして空高くへ日が昇る早朝だ。冷たい空気に声を響かせながら、鳥が町を横切り、山へと戻っていく。止まっていた時間が古い枯れ葉のように俺から剥がれ落ち、俺は静かに涙を拭って薄暗い部屋を振り返り――そしてそこに佇むようにある、新品の車いすを見つめた。

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