POISON&DOLLS ―主なき人形たちの奇想曲―

如月真弘

序章 夢

 我、地に平和を与えんために来たと思う勿れ

 我、なんじに告ぐ

 然らず、むしろ争いなり

 今からのち、一家に五人あらば

 三人は二人に、二人は三人に別れて争わん

 父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に


 ルカによる福音書 一二章 四九節







 夢を見ていた気がする。長い、とても長い時間。

 音が聴こえた。

 闇に閉ざされた向こう側から。

 音色。旋律。

 身体が上がっていく感覚、水底のような場所から。

 これは何?

 懐かしいという気持ち?

 判然としないまま、扉が開く。

 意識が覚醒していく。

 それまでの一切を、夢特有の曖昧さの中に置き忘れて。




「Yakushima University Hospital……ヤクシマ何とか病院、ですの?」


 今日の狩場に選んだ廃病院の入口、錆だらけの銘板に記された文字を双眼鏡で読み取って、レンゲは小さく首を傾げた。

 文字とは、都市廃墟の中でよく目にする記号だ。AからZまでのアルファベットは、種類もそう多くないしローマ字としてなら法則も単純なので、辛うじて読み方がわかる。狩りに関係するいくつかの単語は自然と意味が身につく。地図を読んだりアイテムの用途を探ったりする時など、有益な情報が引き出せることがあるのだ。だが小さなアルファベットの上に大きく刻まれた、恐らくこの地域ではこちらが主だったのだろう『カンジ』という複雑な形状の文字は、長年の風雨に晒され判読不能になっていた。

 双眼鏡から目を離し、空を見上げる。

 傾き始めた太陽が、低く垂れ込める雲を赤味がかった黄色に染めている。

 黄昏時。

 雲に覆われていない空などとうの昔に忘れたが、今のレンゲにはそんなことはどうでもよかった。砂と岩ばかりの大地に突き出した高層建築物の遺跡から伸びる影が、向かいの廃病院を徐々に覆いつつある。


「そろそろ頃合いですの」


 事前の偵察から、狩場に獲物が本格的に湧出する時間は夕刻前後と推定していた。だが完全に日が落ちれば、それだけ視界が悪くなる。建物内ならなおさらだ。レンゲの双眼鏡は難易度の高い電気街ダンジョンで手に入れたなかなかの優れ物だったが、生憎と暗視機能は備わっていなかった。

 突入するなら、陽光がぎりぎり残っている今しかない。

 レンゲは服の裾を翻すと、身を預けていたコンクリートの塊から廃病院の正面玄関に走った。そこからさらに匍匐前進で待合所の朽ちたベンチに身を隠し、建物内の様子を伺う。


 ……いる。

 崩れかけた壁の穴から差し込む限られた光量の中、目を凝らす。

 待合所の奥に、見た目だけはのどかに滞空するアゲハチョウが4。そして、甲冑を擦れ合わせて階段を上下する、全長2メートルはあるクワガタが2、いや3。

 この廃病院に巣食う怪物。突然変異で巨大化したという昆虫ワーム型モンスター達だ。

アゲハチョウは中距離から、毒鱗粉による状態異常攻撃を仕掛けてくる。ダメージの種類はランダムだが、毒でこちらのライフが一定の間減り続ける状態異常ならまだマシな方、視界を奪われたり麻痺で動きを止められたりするのが最悪だ。

 そしてクワガタは、堅牢な装甲にものをいわせた猪突猛進しての近接攻撃。あの大あごで挟まれたら、一撃でライフを大幅に削られ、致命傷クリティカルになる。

 レンゲは、どんな小さな音も立てないよう注意を払いながら、それまで背中に背負っていた彼女の相棒を慎重におろした。一挺のヴァイオリン。古ぼけたその弦楽器の表面は細かい傷だらけで相当に年季が入っていたが、深い光沢が重みを感じさせる。レンゲはヴァイオリンを左肩に乗せ、顎に挟み、右手に持った弓を弦にそっとあてた。一切の無駄が無い、流れるような動作。

 ヴァイオリンを構えながら、レンゲは周囲に神経を研ぎ澄ます。

 徘徊するモンスター達の位置、移動パターンの法則。建物内の構造と材質、気温、湿度。すなわち、音の伝播に影響するあらゆる条件。この楽器の『演奏』に、最適な場所へ。


 刹那、レンゲは直前までの静謐さが嘘のように、ベンチから思い切り身を躍らせた。

 跳躍したレンゲに一斉に向けられた昆虫型モンスター達の瞳が、敵をターゲットしたことを示す赤に変わる。

 クワガタ達が突進を始め、アゲハチョウが耳障りな奇声を上げながら羽を小刻みに動かす。アゲハチョウの毒鱗粉を撒くプレモーションだ。浴びれば最悪、身体が硬直したところを囲まれて、死ぬまで途切れることのない追撃を受けるだろう。

 しかし中距離攻撃の場合、射程レンジが長い反面プレモーションに隙ができるのが弱点だ。当然、レンゲには時間を与える気など毛頭ない。

 四方に柱のある待合所の中央に着地し、弦に華奢な指をあてレンゲの放った声は、異形の怪物に囲まれた状況では場違いなほど涼しげだった。


「第一奏、アンダンテ」


 レンゲのヴァイオリンから高く澄んだ音が響き渡る。増幅された超音波が、物理的な衝撃となって全方位のモンスターを襲う。本能に従い突進するだけのクワガタはそもそも回避というものを知らない、ダメージをもろに食らって硬直し、そしてアゲハチョウ達の攻撃モーションは、強制的に中断させられる。


「モデラート」


 動きが止まったのを見計らい、より威力を高めたレンゲの第二演奏が、重装甲のクワガタも含む昆虫型モンスター達を次々と切り刻んだ。


 超音波の範囲攻撃でモンスターの群れを薙ぎ払い、接近してきた敵はヴァイオリンの弓の一撃で仕留めながら、レンゲは予め入手した地図の最短ルートで廃病院の深部へ急いだ。既に外来棟跡から、かつて入院患者を収容していたと思われる建物に入っている。正直、ここまでに倒してきた雑魚モンスター程度なら、迷宮に入るまでもなく狩れる。目当てはこの先だ。


「見つけましたの」


 倒した昆虫型モンスターの数が40を超えた頃、それは見えてきた。『ナースステーション』と読み取れる看板がぶら下がった廊下の奥に蠢く、巨大な影。

 レンゲは強張りとも会心の笑みともつかない形に頬を動かし、その名を呟いた。


「……薔薇の女王」


 薔薇というよりその姿は、文献に残るかつての世界で最大の花ラフレシアだ。中心にぱっくりと開いた捕食用の口からは気持ちの悪い粘液を垂らし、毒々しい花弁は廊下いっぱいに広がっている。

 この植物型モンスターこそが、昆虫型の雑魚達を従える廃病院ダンジョンのボスだ。


「大きい。想像していたよりずっと大きいですの」


 薔薇の女王は根を張っているため本体は移動しないが、うねうねと蠢く蔓には鋭い棘がびっしりと生え、鞭のようにしなって攻撃してくる。レンジは長く、食らった場合のダメージはクワガタの大あごに一回挟まれるのと同程度か。転倒による行動遅延も覚悟しなければならない。さらに接近戦ではあの口から腐食液を吐きかけてきて、装備の耐久値を削られる。

 あの巨体なら、ライフは相当なものだろう。しかもお供の昆虫型モンスター達は、ボスを倒すまで新規に湧き続ける。

 足が何か硬いものに触れる感触。床を見下ろすと、あまり見たくないものが見えてしまった。砕かれた人形の手足。それも2体や3体では済まない数だ。パーティーを組んでいたのだろう。自分と同じDOLLではなく、焼けただれ泡立ったポリ塩化ビニルのボディからしてフィギュアの類だろうが、挑戦者の亡骸であることには変わりない。レンゲは心の中でそっと冥福を祈ると、ヴァイオリンを構え直した。

 蔓の直撃を一度も受けずに、中距離からヴァイオリンの超音波攻撃でライフを削り切る。

 地味で長い戦いになるだろう。一瞬でも集中力が途切れれば即、足元に転がる残骸の仲間入りだ。

 こちらの接近に気付いた直掩のアゲハチョウ編隊が、毒鱗粉攻撃の予備動作に入る。もはや雑魚をターゲットにする余裕は無い、毒鱗粉の効果範囲は大体30度、ぎりぎりまでタイミングを見極めステップして回避すると、弦に素早く弓を滑らせる。


「アンダンテ・プレスト!」


 ヴァイオリンの中で音圧を上げた指向性の弾性振動派が、カマイタチのような見えない刃となって薔薇の女王に殺到する。茎にはっきりと見える切れ込みが入り、緑色の汁が吹き出して、床に落ちてジュッと蒸気を上げる。


「キイイイイイ!」


 薔薇の女王が、およそ植物にあるまじき奇声を上げる。この声で建物内に散らばった昆虫型モンスター達を呼び集めているのだ、廊下の背後からクワガタが複数向かってくる。

 しかし、レンゲが焦ったのはそのことではなかった。

 たった今、薔薇の女王の茎につけたばかりの傷が、みるみる塞がっていくのだ。


「ちょっ……回復が早すぎ! こんなのチートですの!」


 そもそもパーティーを返り討ちにしたモンスターだ、ソロで挑むのは無謀だったのかもしれない。そんな今更な考えが頭をよぎり、背筋に冷たいものが走る。突進してきたクワガタを寸前でかわし、カウンターにヴァイオリン本体のスパイク状に尖ったペグを叩き込んで、レンゲは我にかえった。

 弱気になれば死ぬ。自分は記憶にある限り仲間なんていないこの世界で、ソロで強いモンスターを何体も狩ってきた。こいつだって。

 瞬時に作戦を練り直す。超音波で牽制しながら頃合いをみて懐に飛び込み、急所の捕食器に弓を突き立てて仕留める!

 力を温存するため、威力を抑えた範囲攻撃で直掩の昆虫達の動きを止める。背後からポップする昆虫の襲撃を、振り返ることなく気配だけで種類と軌道を予測し、最小限の動きで回避する。両足が着地する寸前に風圧を感じた。薔薇の女王の凶悪な蔓が、蛇のように絡めとろうとする。カカッとバックステップ。着地位置をずらしてかわす。全神経を集中させ続ける。

 それでも無傷というわけにはいかない。既に毒鱗粉が服のあちこちに穴を開け、クワガタの大あごや女王の蔓が四肢をかすめライフを削り、そのたびに死が近付く。それでも直撃は全てぎりぎりのところでかわし続けた。直撃で半秒でもディレイしたら、そこで全てが終わるのだ。

 首を強引にひねり、蔓を回避。同時に奏でたもう何度目か数えるのを忘れたヴァイオリンの範囲攻撃で、昆虫型モンスターの群れが一塊ライフを削られ切って、断末魔を上げ息絶える。新たにモンスターが湧出ポップするまで、コンマ数秒。女王との間に、道が開いた。


「お前のアイテムはっ、この策士レンゲがっ!」


 薔薇の女王に真っ直ぐ突進する、と見せかけてサイドステップ。しなる蔓が、直前までレンゲの走っていた床を激しく打ちすえる。薔薇の女王に隙ができる。逃さない。


「チートプレイでっ、楽してっ、効率ゲットですのおっっっ!」


 自分のお気に入りの口癖と、実際にやっていることがここまで乖離していることも珍しいなと、思考の片隅で自嘲した。

 薔薇の女王の毒々しい赤に輝く花、その中央の捕食器に、ヴァイオリンの弓、尖った銀と象牙で装飾された先端を、渾身の力で突き立てる。


「キイエエエエエッッッッ!」


 ボスモンスターの絶叫が、廃病院の空気を震わせた。

 カウンター攻撃で激しく噴射される腐食液がレンゲの服の袖に、エメラルドグリーンの巻き毛に飛び散り臭気を上げ、ライフを削ってくる。レンゲの残りライフは、もう半分を切っている。だがそれ以上に、薔薇の女王のライフが凄まじいスピードで消えていくのがわかる。レンゲは反撃に耐えて弓を突き立て続ける。

 最後に一際大きな悲鳴を上げて、薔薇の女王の巨大な花弁は、崩壊しつつ茎から落下した。ボスモンスターが死んだのだ。

 強敵を倒した余韻を楽しむ時間は、残念ながらレンゲには残っていなかった。新たなポップは止まったとはいえ、生き残りの昆虫型モンスター達がのそのそと再集結しつつある。彼等に主の仇を討とうというような感情があるかは知らないが、ターゲットされたままなのは事実だ。

 床を突き破って生えている薔薇の女王の根元をかき分けると、様々なガラクタの中からお目当てのアイテムが見つかった。赤い十字架が描かれた、白い箱。メディカルセット。今の世界では作ることのできない高回復アイテムが中にぎっしり詰まっている。廃病院など医療施設系のダンジョンでのみボスモンスターから低確率でドロップする、レアなお宝だ。

 回復アイテムだけではない。注射器といって、麻痺など状態異常効果のある液体が中に装填され、投擲して敵に先端の針が刺さることで効果が生じる武器も入っている。状態異常をかけられる投擲武器は、ピンチの時に生死をわけるのだ。危険を冒した甲斐があった。

 目的を果たし、後はこの重いメディカルセットを抱えて三十六計を決め込もうとレンゲが考えた時だった。


 ゴトリ。

 足元のすぐ近くで、重い音がした。

 法則に反してモンスターが至近にポップした? いや、まさか。レンゲは振り返って音がした場所を凝視する。雑多なガラクタ、病院で使われていた車椅子や寝台などの奥に、音を立てたと思しきものがあった。

 メディカルセットよりはるかに大きい、鞄。

 重厚そうな革張りで、薔薇の彫金が施してある。高価な品のように見えるが埃を被っており、ボスモンスターのドロップアイテムというより、ただそこに長く放置されていたという感じだ。そもそも、自分が必要としているのはあくまでメディカルセットだ。そう結論付けて鞄に背を向け、メディカルセットを持ち上げようとしたレンゲの耳に、今度は鞄の開く音がした。続いて、決して聞こえるはずがないもの。


「ここは……どこ?」


 モンスターの発する奇声ではない、自分の独り言以外では耳に入るはずのない、意味をなした言葉を紡ぐ声。


「ここは、何処?」


 もう一度聴こえた。声は細く小さく、しかしはっきりと空気を震わせる、自分の声とは異なる響き。幻聴ではない。

 レンゲは振り返った。黒い瞳と目が合った。時間が止まった。

 腰まで届くほどの長い漆黒の髪をした、見たことのない美しい人形が、鞄から半身を起こしていた。印象的な、黒と白が幾何学的に重なった編上げドレス。しかし佇まいは、たった今天空から降りてきたかのように淡く儚げだ。日焼けも劣化も感じさせない肌は、白というより透明を感じさせた。

 長い睫毛の陰りがかかったその瞳は、幾つもの異なる光彩を宿している。この世界から失われて久しい星空をもし見ることができたら、きっとこんななのだろうとレンゲは思い、瞳に吸い込まれそうになっている自分に気付いて、慌てて現状に意識を戻した。メディカルセットを大事に抱えたまま、鞄から現れた人形に詰問する。


「貴女、何をしてるんですの? 見たところレンゲと同じDOLLのようですけど……こんなダンジョンのど真ん中で、どうして鞄なんかに入っていたんですの?」


「私……私は、一体……」


 鞄の人形の言葉は不明瞭で、答えを渋っているというより、自分でも答えが見つからない様子だった。


「貴女、まさか記憶が……。っ!」


 迂闊だった。鞄の人形に気をとられている隙に、昆虫型モンスターの生き残りがすぐそこまで迫ってきていた。先頭のクワガタが、大あごをいっぱいに広げて突っ込んでくる。しかもレンゲではなく、鞄から半身を起こしただけの人形の方に。


「危ない、避けてっ!」


 レンゲが怒鳴っても、人形は戸惑ったような表情を浮かべただけだった。背後に迫るクワガタに振り向きもしない。いや、そもそもこの人形、自らの身を守る術を一切持っていないのではないか……

 クワガタの大あごが、美しい黒髪を流した人形の無防備な胴体を銜え込み、回復不能なクリティカルダメージを与える……その寸前で、人形のたおやかな身体をレンゲは掴み、強引に鞄から引っ張り出した。攻撃をかわされて方向転換のために一瞬動きが止まったクワガタに、ヴァイオリンの弓を振り下ろす。

 クワガタが爆散した直後、レンゲが駆け出した時に投げ捨てたメディカルセットが床に落ち、中に詰まっていた希少なアイテムが一面に散らばった。

 なおも周囲の状況が飲み込めずにキョトンとしている黒髪の人形を抱きかかえながら、レンゲは舌打ちする。

 考える前に、身体が勝手に動いてしまっていた。今後の戦いに不可欠なレアアイテムと、出会ったばかりの正体不明の人形。優先順位は明らかだったはずなのに。


「貴女、走れますの?」


 黒髪の人形は、かすかに首を横に振る。起きたばかりで、身体の自由がきかないようだ。悪い予想は当たった。レンゲはもう一度舌打ちをした。

 ヴァイオリンの演奏というのは優美に見えて、実は結構な筋力値が必要になる。レンゲも腕は鍛えているつもりだが、そのレンゲでも、メディカルセットとこの人形を両方抱えて病院の出口まで走るのは無理だ。

 どちらかを選び、どちらかを捨てなければならない。決まっている。この無限に続くサバイバルゲームで少しでも長く生き残るために、優先順位を考えれば、当然……。


「ごめんなさい」


 レンゲの腕の中で、黒髪の人形がそう言った。走れるか、と訊いた先ほどの質問についての謝罪だろうか。自分が足でまといになっているという自覚があるのだろうか。

 だが、レンゲの心を揺さぶったのは、謝罪などではなかった。

 声、言葉そのもの。自分に向けられたもの。自分の独り言を除けば、およそ耳にすることなどなかったはずのもの。


「あーもう! しっかり掴まっているんですのよっ!」


 近くに転がっていた即効性の治癒効果がある薬瓶を、一本だけ小物入れに放り込む。遠くに転がってしまった注射器など他のレアアイテムは惜しいが諦めると、レンゲは黒髪の人形を抱きかかえて元来た道を走り始めた。追ってくる昆虫型モンスターは無視だ。夜が近付き、建物内に差し込む光がかなり弱くなってきている。構っている時間は無い。


「貴女、お名前は? それも思い出せないんですの?」


 走りながらレンゲは、黒髪の人形に問いかけた。正直、自分以外の誰かとの会話など覚えている限りしたことがないから、つい詰問調になってしまう。


「……ホタル」


 黒髪の人形は、ぽつりとそう呟いた。


「ホタル?」


 ホタル。黒髪黒瞳の人形の名前。

 ……あれ?

 レンゲは一時、違和感を覚えた。何だろう、この感じ。わからないまま、変な感じは消えてしまった。


「ふうん……い、良い名前ですの。ち、ちなみにレンゲはレンゲですの。よ、よ、よろしくお願いしますわね」


 よし、今レンゲ上手に喋れた! これぞ言葉のキャッチボール! 策士だけにコミュ力もばっちりですの!

 ホタルの反応を確かめたかったのに、廊下の向こうから狩り漏らしたモンスターが空気を読まずに出てきた。言葉のキャッチボールがドッジボールに終わり、レンゲはこの日三度目の舌打ちをした。




 レンゲが去ってしばらく経った廃病院の廊下。

 再び湧出し始めたクワガタが、何かの気配に気付いて上を向く。

 その目が敵をターゲットした赤へ変わるよりも早く、ステッキがクワガタの脳天を貫いて、そのまま床まで突き刺さった。

 断末魔を上げることもできずクワガタはくずおれ、死骸の横に人形の足が音も無く舞い降りる。光沢を放つ靴の色はスカーレット。


「ホタル。確かにそう言ったわね」


 人形は、それだけ見れば上品な手つきで、クワガタに突き刺さったステッキを抜く。


「有り得ないわ。彼女はあの時、確かに跡形もなく破壊されたはず。今更、悪霊になって戻ってきたとでもいうの? この腐敗と自由と暴力の只中に」


 ひとりごちて数秒の沈黙の後、人形の唇が弧を描いた。


「……面白い」


 冷酷で残忍な微笑は、夜の訪れとともに暗闇に溶けていった。

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