人魚の舞

吾妻栄子

北の海底で

「それでは、どうしても私の妻にはならぬということだな」

 魔神はそう言うと、蔓草めいた赤銅色の前髪に半ば隠れた、彫深い眼窩の奥でエメラルド色の瞳を冷たく光らせる。

 仄暗い北の海の底、上の半身は端正な青年の姿をしたこの魔神の蒼白い面(おもて)は静かだが、銛(もり)の柄(え)を持つ手は強く握り締められた。

 大理石じみた白い肌の右頸下から左胸にかけて、斜めに大きく裂かれた様な傷も見えるが、抑えた息に合わせて、まるでこの傷自体が独立した生き物であるかの様に緩やかに上下する。

「お姉様方には随分勧められましたが、貴方様のことは、昔からお兄様のようにしか思えないので」

 まだ少女じみた、頬に丸みの残る小さな顔に恐れを滲ませつつ、しかし、黄金(こがね)色の髪を持つ十六歳の人魚の姫は透き通った水色の目で、自分より頭一つ分高い魔神を見据えると、告げた。

「それに、私には、陸に想う方が出来ました」

 それだけ打ち明けてしまうと、そこで勇気の全てを使い果たしてしまったように、人魚姫は小声で付け加えた。

「今のところ、陸を離れて船の上にいるのですけれど」

 魔神を見上げる明るい薄青の双眸にちらりとまた恐れが走る。

 円らな瞳と小さな唇、小さな丸い頬はそんな表情をすると、いっそう幼く見えるのだった。

「大丈夫だ」

 魔神の男は深い緑色の瞳に怒りより哀れみの色を浮かべた。

「その男の船に流氷をぶつけたりはせぬよ」

 口調は穏やかさを保ちつつも、魔神の語る声は語尾に行くに従って凍りついていく。

 今度は、人魚の娘の方が安堵したような、まだ、どこかに懸念があるような面持ちになる。

「その船が進んでいるのは、東の温かい海なのです」

「東……?」

 赤銅色の前髪の奥で、魔神の目は意外なことを耳にした風にやや見張られた。

「お姉様たちと珊瑚の美しい場所に遠出して、私一人でもう少し先まで泳いでいったら、大きな船が陸地からちょうど出るところを偶然見掛けました」

 人魚姫は素直に金髪の頭を頷かせると、どこか甘えるような声で続ける。

「ただ、甲板に立つその人の顔は、何だか悲しそうで」

 魔神の曇っていく顔つきをよそに、娘はいくらか興奮気味に付け加えた。

「私の想う方を含めて、その船に乗った人々は全員、黒い髪、黒い目に、黄味の勝った肌をしているのです」

 語る内に、大きな水色の瞳が潤んでいく。

「でも、その人が一番美しく、気品のある姿をしていて……」

「人にも種の別があるのさ」

 魔神はぴしゃりと遮るように告げると、手にした銛(もり)の切っ先に目を移す。

「魚が一様ではないように」

 鮫(サメ)をも一突きで貫ける鋭い刃は、薄青い紗(しゃ)の帳(とばり)を下ろしたような海の底でも、白々と光った。

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