水の夢 - 5 -
相変わらず保健室に寄ることを友也に伝え、階段を下りたところで別れる。日誌を職員室に届けたあと歩き馴れた廊下を歩いていると、聞き覚えのある声が微かに耳に届いた。
「……納得すると……てんの!? 馬鹿に…………いわよ!」
廊下の先には俊樹が目指している保健室しかない。俊樹は足を速めて目的の扉の前に立つ。
「私は……幸せに……」
水那の声に比べて細い声質の瑞貴の言葉はよく聞こえない。しかし先に帰ったはずの水那がどうしてここにいるのか。介入することができないまま扉の向こうで交わされる会話に耳を傾ける。
「でも、……幸せにできるのは、私では……」
二人はいったい何の話をしているのか。水那は先ほどから言葉を発することなく黙っていた。珍しいこともあるものだと思っていると衝撃的な言葉が俊樹の鼓膜に触れる。
「武田さん……ずっと傍で見てきたあなたなら、あの子を幸せにできると思っています」
ぴくりと。かろうじて指先が震えた。あの子、とは誰のことだろうか。嫌な胸騒ぎを覚えて扉の前で立ち尽くすことしかできない俊樹の代わりに水那が異論を放つ。
「そんなこと、云っても……」
その言葉はまたも弱々しく、水那も動揺していることが窺えた。
「あんたがそう云ってもっ、俊樹が好きなのはあんたなのよっ……!」
しかし次に放たれた言葉は様々な感情を交えて俊樹の脳を、瞳を揺らした。
(ーー好き……? 俺が瑞貴を……?)
思いもよらない言葉が次々と脳に届けられて理解が追いつかなくなる。
扉の向こうで繰り広げられている会話の中心人物が自分であることはわかった。だが、瑞貴の言葉も、水那の言葉もそれぞれが独自の解釈で語られており、俊樹は歯がゆい思いに拳を握る。
そんなことはない。瑞貴とまた出会えたことは何ものにもかえがたい、幸せと感じることだった。そしてそんな人に、水那が考えているような感情を抱いた覚えはない。
そのはずなのに、俊樹の握られた拳は扉を叩いて会話を中断させることはなかった。それは瑞貴の答えが、気になっているからだ。
「あんた、先生でしょ? 早く眼を覚まさしてよ! 俊樹を返して!」
悲痛な叫びだった。水那は水那なりに俊樹のことを想って行動していたことがわかる。それでも関係のない瑞貴を責める言葉は耳触りが悪く感じた。一刻も早く不毛な云い争いを終わらせるためにノックを飛ばして室内に入る。
中には予想通りの光景があった。矢継ぎ早に言葉を求められることが得意ではない瑞貴は明らかに顔色を悪くしている。反対に水那は興奮して頬を紅潮させていた。
それぞれが突然の侵入者である俊樹に視線を向け、驚愕した表情を浮かべている。
「いい加減にしろよ、水那」
「っ俊樹」
瑞貴の困惑した顔を見て、水那を宥める言葉がつい乱暴になってしまった。水那は常に穏やかな俊樹の声に棘を感じ取ったのか、眼に見えて萎縮する。
「外まで聞こえた。何事かと思えばセンセーに云ったって仕方ないだろ」
もっと早くに仲裁に入ればよかったと後悔する気持ちから、水那が怯えていることに気づいていながらも牙を収めることができなかった。
水那を牽制してから改めて視線を瑞貴へ向ける。最近笑ったり表情豊かになってきた瑞貴は困ったような、思いつめた表情を浮かべて立ち尽くしていた。
「俊樹、知ってるでしょ? あたしずっと……」
水那は勢いを失った弱々しい語調でこぼす。視線を彼女に戻して、何を云い出そうとしているのかまったく想像できないため、警戒しながら続きを待った。
「俊樹が、好き……俊樹じゃなきゃ、だめなの!」
「え……」
いつも強気な水那の頼りない立ち振る舞いに俊樹は言葉を失う。頬には一筋涙が滑ったかと思えばそれは幾筋にも増えて、彼女の頬を濡らしていった。
俯いて声を殺して静かに涙をこぼす水那から眼が離せない。信じられない告白は、彼女を通りすがりの人間のように思わせた。
「……椎名くん」
ずっと沈黙を守っていた瑞貴が静かな声で俊樹を呼ぶ。
「武田さんを、お家まで送ってあげてください」
瑞貴が告げた言葉は俊樹にとって残酷で、水那に縫いつけられていた視線を動かすことができるほどの衝撃を与えた。
しかし瑞貴の瞳は断ることを許す気配はない。こんな話をしたあとで二人きりになるのは気まずい以外の何ものでもなかったが、頷く以外の選択肢はなかった。
感情を出し尽くした水那はじっと床を見つめているだけで、何も言葉を発しない。
言葉のやり取りは俊樹が受け取ったままなので、彼が返さなければ会話が成立しない。故にこれは当たり前の光景だった。
このままここにいても瑞貴を困らせてしまうだけだろう。俊樹は在りし日のように水那と手を繋いで、一緒に保健室をあとにした。
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