Ai - 少年Aの孵化 -

静かな夜(少年Aの真夜中/巡る中二病ウィルス)

　今日の宿主は、特に何も要求してこない男だった。昨日のしつこい男と、担任の相手にしたことからの選択だ。

　しかしそれは誤りだった。コンビニで買った夕食を胃に詰め込んで、シャワーを浴び、与えられた部屋のベッドで横になった時、気がつく。

　見返りを求めず部屋を提供する宿主のことを、いつもは楽でいいと思っていた。

　だが今日は何か話し掛けてくるなり、部屋に押し掛けてくるなりすればいいのに。藍は扉をぼんやりと見つめる。

　静寂が煩くて、頭が空白で、嫌なことばかりを考えてしまう。一年前の記憶が蘇ったこと。不本意ながら助けてくれた青年のこと。結局お礼を云うことができなかったと後悔が、また心臓を締めつける。

　しかし、あれ以上青年の眼に見つめられるのは怖かった。今まで誰も、担任さえも踏み込んでこなかったこと。何でも知っている癖に、もっと何かを求めるような。自分の行動をひとつも見逃さないと云わんばかりの隙のない視線。

　あの視線にすべてを暴かれてしまうことが怖い。汚れたこのこころが、身体が白日の下に曝されるような恐怖。

　そんなことがあっては今まで必死に耐えてきたすべてが無駄になってしまいそうで。

　もう、家族に戻れなくなってしまいそうで、怖い。

　日中、千円札に広がっていった染みのように、蓄積された恐怖はその面積をじわじわと広げていく。

　『どうしてそんな危険なことをしているの？』

　青年の言葉が鮮明に耳の奥で蘇る。

　どうして、か。そんなことは正しい道に導く役目を負っている担任さえ聞かなかったというのに。

　理由など、疾うに忘れた。否、本当は忘れてしまいたい。まだ親の保護を受けるべき年頃の自分が家に帰れないという状況は、端から見れば異常以外の何ものでもないのだろう。

　そう、あの家は狂っている。自分が狂わせてしまった。

　藍は頭からタオルケットを被り、唇を噛み締める。

　母に殴られた、もう消えたはずの痣が、痛い。思わず頬に触れて顔を顰める。

　父に投げられた偽りのアイの言葉、そのあとの責任転嫁。

　すべてが家に帰れない理由であり、それを生み出したのは紛れもなく自分だと大人二人は口を揃えて云った。

　そもそも自分を生み出して、育て上げたのもまた大人二人であったような気がするが。

　「……うぜぇ」

　それなりに理解しているつもりだ。自分のことは。しかし、周りが身勝手過ぎる。本当に鬱陶しい。

　この顔が、身体が、存在が。自分を道具にしなくては生きていけないこの世の中が。

　早く終わってしまえばいいのに。未練も価値すらも感じられない腐っている世界など。

　……怖い。どうかこれ以上、必死に作り上げたアイを暴かないでほしい。

　そっと、しておいてほしい。

　気がつけば、空が白み始めていた。