撃退パンチ(少年Aの苦悩/誰か俺の話を聞け!)

 朝と違い、正規の方法で校門を過ぎる。そんな藍の視界に、嫌な記憶が鮮明に残っている高級外車が入った。

 まさか朝からずっとここに停まっているのか、よく通報されないものだと感心さえ覚える。

 それでもまるで視界に入っていないという素振りで通過されることはお見通しだったのか。太陽の光を受けてエンブレムを輝かせた高級外車は、音もなく発進した。

 質の悪いストーカーに成り下がった哀れな高級外車は、飽きることなく徐行運転でどこまでも着いてくる。


 その気味の悪さは、無意識のうちに人通りの多い道を歩かせた。藍はうんざりしながら鞄から携帯電話を取り出して、”指導室”で作成していたメールの続きを打ち始める。

 昨日のように声を掛けてきた相手だと性格が判らないために、厄介事があると学習した。今日は無害な知り合いに泊めてもらおうと、交渉のメールを送信する。

 無事相手に届けられたことを確認して鞄にしまった頃、哀れな高級外車は藍の視界から消えていた。

 安堵した藍が、返事が来るまで何をしようかと歩き出した直後。彼の身体は自分の意志に反して後ろ歩きを始めた。

 何者かに手首を掴まれている。気がついた時には、高い建物の間にできた暗い隙間に押し込まれていた。

 両隣が飲食店なのか。古い油の臭いと湿気に藍は眉を顰める。同時に迂闊だったと後悔した。

 あの男が車から降りてまで追い掛けてくるなんて、想像ができなかったと。

 こんな場所に連れ込んだ男は、唯一の出入り口を背に立ちはだかった。それにも関わらず手首にかかる圧は変わらない。

 執拗さは昨日の行為でわかっている。そんなことからわざわざ顔を見なくても昨日の男だと、理解できてしまうことが恨めしい。


 「神谷さん、だったっけ? 俺朝はっきり云ったよね?」


 変に刺激をしてまた厄介なことに巻き込まれるのは御免で、藍はできる限り穏やかに話し掛ける。隠し切れない嫌悪感は滲み出ていたが。


 「酷いじゃないか、アイ。私を無視するなんて」


 確かに藍が先に神谷を無視した。が、神谷もまた彼の健気な努力を無視していることに気がついているのだろうか。

 その答えはわかりきっていて藍は柳眉を逆立てる。もう、穏便になんて済ませられない。


 「あんたも十分ひどいよ。白昼堂々通行人にこんなことしてさ」


 大人と子供。力関係では明らかに華奢な藍の方が不利だったが口で負ける気は更々なく、被っていた猫を脱ぎ捨てた。

 建物の隙間。こんなところに目線が行く通行人はごく僅かだろう。仮に藍の悲劇に気がついたとしても自分には関係がないと通り過ぎていくだけだ。


 「仕方ないだろう、約束してくれない君が悪い」


 どこまでも突き抜けて自分本位な神谷に、藍の頼りない堪忍袋の緒は切れそうだった。

 神谷のそういうところが気に食わない。何でも自分の思い通りになると思っている、生温い環境で育った故の逸脱した常識。

 苔でも生えているのではないだろうかと藍の心にまた、毒が注がれる。張り詰めた緒が切れそうな瞬間に、彼は言葉を発することができない。

 怒りのままに掴まれた手首を解放しようとしても神谷の力は思いの外強く、動かす度に骨が軋むような感触がする。


 「君だって楽しんでいたじゃないか、今晩も楽しませてあげるよ」


 耳許で荒い息と共に告げられると、遂に弾けた。


 「……この! いい加減にしろ、この変態ハゲデブ野郎が!」


 「なっ……」


 気にしていたところを突かれたのか、神谷の表情が熱に浮かされたものから次第に怒りに塗り替えられる。連動して藍の手首に掛かる圧が強まった。その痛みに彼の表情は頼りないものに変わる。


 「人が下手に出てれば……!」


 藍よりも怒りの沸点が低かったのか、神谷は手を振り上げた。その光景に藍は先ほどまでの威勢をなくして、ただ怯えた表情で神谷を見上げる。


 打たれる!


 その状況に嫌な記憶が蘇り、固く眼を閉じて俯きその衝撃に備えた。

 冷や汗が全身から湧き出たがいつまでもその手のひらが振り下ろされることはない。

 恐る恐る顔を上げると手のひらは最後に見たままの位置にあった。よく見るとその手首は誰かに掴まれていて、あり得ない方向に捻られると神谷は呻く。


 「はーい、そこまでにしましょうねー」


 神谷にも、勿論藍にとっても急に現れた人間の間延びした声が響く。すると、神谷は痛みで前屈みになり、後ろにいた人間の姿が明らかになった。

 どこかで見たことがある学生服を身に纏った青年。その顔には虫も殺さない好青年の笑顔が浮かべられている。

 それにも関わらず、神谷に対する力加減がされていない制裁を見るとその差に寒気が走った。

 神谷の表情が段々と苦痛に歪んでいく。線が細く見える青年のどこに、そんな力があるのだろう。


 「何をするんだ!」


 「それはこの子の台詞でしょう、可哀想にこんなに怯えて……」


 被害者を置き去りにして二人の会話が始まった。

 神谷の表情が可哀想になったのか、青年が手首を解放すると、懲りずに神谷の手は藍に伸びる。


 「あー、また触ろうとして」


 間延びした青年の言葉が云い終わる前に、何とも形容し難い音が響いた。発生源は神谷の顔と青年の握られた拳。

 殴ったのだと、どう青年に都合がいいように解釈しようとも行き着いてしまう。しかも音からしてものすごい力で。


 「ぐぅ……」


 口から血を流して神谷は倒れた。驚きに開いた口が塞がらない藍。加害者であるのにやれやれと呆れた様子の青年。


 「さ、今のうちに逃げよう」


 「え……」


 確かに神谷に対して非常に苛々していた藍は、青年が殴ってくれたことで多少はすっきりした。

 礼を云いたいくらいの爽快感だが、さすがにこれはやり過ぎではないかと戸惑いを隠さず青年を見上げる。


 「大丈夫。状況が状況だから恥ずかしくて被害届なんて出せないよ」


 青年に加害者という自覚はあったのか。否、そういうことを藍は心配した訳ではない。

 先ほどの嫌な記憶が蘇った影響で混乱している藍の手を青年は取った。そして暗く湿った隙間から太陽に照らされた日常に藍を連れ戻す。

 通りに出て、嫌な記憶の影が太陽で照らされると漸く一つ、深く息を吐くことができた。

 肺の中に溜まった淀んだ空気を吐き出して、落ち着いてきたのを見計らった青年が「立ち話も何だし、ここ入ろうか」と声を掛ける。

 ここ、と指差した先には全国展開されているファーストフード店があり、藍は助けてもらった手前、断るのは失礼かとぎこちなく頷いた。

 藍の同意を得て青年が歩き始めると、不思議なことに自分も一緒に歩き出す。

 なぜだろうと、藍は真っ先に動き出した腕を見た。その先の手のひらは青年と繋がれていて、ただ驚く。

 人を殴ったのに、その手はとても温かかったから。

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