Ai - 少年Aの孵化 -

紅波 珠花

※朝の風景(少年Aの朝/ここだけ止まった世界)

 生徒たちが登校してくる、あり触れた朝の風景。

 そこに似つかわしくない外国産の高級車が、校門の脇に音もなく停車した。

 見慣れない光景ができあがったことで、あちらこちらで交わされていた生徒たちの談笑による騒めきが、静寂へと変わる。

 ここは坊ちゃん、お嬢様が通うような学校ではなく、ごく一般的な公立校。車で送り迎えがあったとしても、こんな外車でという前例はない。

 この違和感に対して、生徒たちの視線は否応なしに向けられる。しかしスモーク硝子により車内の様子を窺うこともできなければ、また興味の対象である生徒が出てくることもない。

 一向に訪れない変化に生徒たちの興味も次第に削がれていき、またいつも通りの空気が取り戻され始める。

 そんな変化のないと思われている車内で同じ年頃の少年が、親と云っても通用しそうな男の股に顔を埋めているなんて。外を歩く年頃の生徒たちには想像できないことだろう。


 「いいよ、アイ……」


 男は恍惚とした表情で少年、あいの柔らかな髪の毛を指先に絡めて撫でる。その声に少年は顔を上げてうっすらと微笑んだ。

 その微笑みは、色素が薄い茶色の髪。そして太陽を知らない肌の色と相まって、薄氷のような儚さを感じさせる。

 だが、内心では朝っぱらから何発情してやがんだよ、鬱陶しいと。繊細な容姿からは想像出来ない毒を、その胸の裡で煮詰めていた。

 しかしそんなことを微塵も感じさせずに顔を伏せて、藍は健気に男の性器を口に含む。

 今だけ。この瞬間だけ耐えればもう二度と会うこともないだろうと自らを奮い立たせて。

 車内には生徒たちの話し声は届かない。聞こえるのは口淫による濡れた音と、男の荒い呼吸だけが支配する。

 ここだけ世界と隔離されたような錯覚を起こしそうだが、現実的にあり得ない。と云うよりそんなことがあったら藍は迷わずこの世との別れを選択するだろう。

 ちらりと。一抹の不安に駆られて無駄に豪奢な飾りを施された腕時計を盗み見た。間違えなく時間が進んでいることを確認する。それは同時に始業の時刻が近づいていることも教えた。


 「っ、アイ」


 男が切羽詰まった声を上げる。今までが遊びだったのかと思えてしまうほど大胆に手や口を動かして、藍が追い詰め始めたからだ。

 不意を突いた藍の行動に男は骨抜きにされざるを得ないようで、吐息は熱を帯びる。

 しかし、甘い気持ちから男を喜ばせている訳ではない。無理矢理、しかも目立つ車で送られた上、口淫を強いられて遅刻するなど馬鹿馬鹿しかったから。

 藍が時計を見てから数分の内に、男は果てた。股から顔を上げた少年はまたあの薄氷の笑みを浮かべて、男の隣に座って唇を合わせる。

 期待をさせるように、甘い瞳で見つめて。含んだままだった精液を男の咥内に流し込んで、唇を離す。目的を果たした瞬間、汚物を見るような冷たい瞳で男を一瞥して、藍は鞄を手にした。

 男は顔を顰めて口の中に入れられたものをティッシュに吐き出す。そして藍の動きを見ると「ま、待ってアイ、連絡先を……」と慌てて呼び止めた。

 情けなく震える男の声に藍は緩やかに振り返って、傲慢な笑みを浮かべたまま初めて言葉を発するために口を開く。


 「あんたなんか金輪際ごめんだわ、ハゲ」


 容姿に似合わない藍の言葉は男の特徴をよく捉えていた。そのためか男は何の反論もせず、少年もまた知らん顔で車を降りて、勢いよく扉を閉めた。今までの苛立ちを叩きつけるかのように。

 それを追うように藍の遅刻を決定づける鐘が鳴り響き「あー……またか」と舌を鳴らす。

 辺りを見回せば生徒たちの姿はすでにない。だが、藍にとってこの状況は日常茶飯事。特に気にした様子もなく、施錠された校門を乗り越えて悠々と昇降口に向かって歩き出した。

 室内履きの踵を踏んでずるずると校内を歩き、三年二組と書かれた札が下がる教室の前で立ち止まる。

 室内からよく知る人間の声が聞こえて、一呼吸した。面倒なことになるかも知れない。そんな憂鬱を振り払うように勢いをつけて、藍は扉を開いた。


 「すいませーん、遅れましたー」


 横断歩道を渡る子供のように高々と手を挙げて、能天気な宣言をする。そこに先ほどまでの憂いは微塵も残されていない。

 藍の登場で水を打ったように静かだった教室内が、僅かに沸いた。命知らずな少年の行動に級友たちの視線は、教壇に立つ男に向けられる。


 「……真名、今学期に入って何度目の遅刻だ」


 静けさの大本である担任は、藍に氷のような目線を向けて、温度のない声音で注意した。

 しかし、へらへらと力の抜けた藍の笑顔は崩れない。手だけは下げたが。


 「はーい、もう覚えてないくらいでーす」


 厳しいと有名なこの教師を相手に、悪怯れもなくこんな態度で接することができるのは藍だけだ。

 級友たちは青ざめた顔で動向を見守っている。担任が何かを探るように藍の頭から爪先まで見渡した。少年は何も云わずにねっとりと絡みつくような視線を甘受する。

 一通り眺めた担任は答えを得ることができたのか、眼鏡の位置を正した。そして興味を無くしたと云うように視線を級友たちに戻す。


 「真名は放課後”指導室”に来い。ホームルームを続ける」


 「わっかりましたー」


 担任の言葉に含まれる意図を悟って、藍は尚更明るい声を上げて自分の席に向かった。

 この教室にいると、毎朝寿命が縮まる気がするのは、きっと気のせいではない。

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