3 辻褄師
たとえ実際にはそう書かれていなくても、俺は必ず最後にこう言わなければならない。それは俺の助手としての仕事終了の宣言でもある。
「了」
これを合図に辻島が目を開く。そして、奴にしかできない仕事を開始する。
今回の原稿には、「了」はちゃんと書かれていた。が、肝心なものがことごとく抜け落ちていた。
誤字脱字誤変換誤用のたぐいはまだ許せる。最大の問題は、ミステリ小説らしいのに事件も謎解きもすべてなかったことだ。
高野さんがここに持ちこんでくる原稿は、自費出版希望で出版社に送付されてきたもののごく一部だそうである。辻島の仕事はその原稿を一般人にも見せられるレベルに引き上げることなのだが、それらが本当に自費出版されたかどうかはわからない。もしかしたら自費出版はされずに、そのまま作者に返送されているかもしれない。いくらかの〝手数料〟と引き替えに。
ただ一つ確実に言えるのは、こんな原稿を自費出版しようと考える人間がいるおかげで、辻島と俺は飯が食えているということである。小説家志望の俺にとっては複雑だが――自費出版の前にもっと他にすべきことがあるだろう――実にありがたいことである。
俺が見たところ、この小説は鍵つきの机の引き出しの中に一生しまいこんでおいたほうがよさそうな代物である。
あらすじ自体は単純と言えば単純だ。語り手役の男子大学生A――基本、彼の一人称なのだが、途中で三人称になったり、他の人物の一人称になったりするから頭が痛い――とその亡父の教え子だった男Bの二人が主人公で、探偵事務所所長兼所員であるBは、事件調査にかこつけ、しばしばAを旅行へと誘う。そして、その旅行先で陰惨な殺人事件に巻きこまれるらしいのだが、その事件の詳細は皆「いつか書こうと思う」の一言で片づけられてしまっている。もちろん、最後まで読んでも書かれていなかったのは言うまでもない。
――何だ、これは。下書きか。
音読しながら、俺は心の中で何度もそう呟いていた。
たぶん、ここで音読した原稿の中でこれが最高にひどい。これまでにもミステリは何本か読んだが、さすがに事件を丸々カットした猛者はいなかった。
――こんなのでも、本当にどうにかできるのか?
俺は改めて辻島の横顔を凝視する。
見る角度によって印象がまったく変わる人間は珍しくない。が、辻島はどの角度から見ても辻島だ。これで高野さんのような性格をしていたら、俺は毎日リア充爆発しろと呪っていたに違いない。
辻島は今は何も映っていないテレビ画面を見つめていた。――否。俺には見えないだけで、そこには本当に何かが映っているのかもしれない。そう思えるくらい、仕事中の辻島はそこだけを見ている。
「まず、プロローグとエピローグはカットだ」
約二日ぶりに聞いた辻島の声は、相変わらず耳触りのいい低音だった。初めてここで耳にしたときと同じように。
「語り手の一人称部分以外もすべてカット。二番目以降の事件もカット。一番目の事件だけ膨らませて終わらせる」
いくら声はよくても、作者が聞いたら卒倒しそうだ。だが、辻島の判断は俺にも妥当と思われた。特にプロローグとエピローグのカット。作者の自己陶酔がひどすぎて、読むだけでも恥ずかしかった。仕事でなかったら罰ゲームである。
「しかし、膨らませるにしても、あまりにも材料が少なすぎるな。……よし。次章で語り手は旅行先の病院のベッドの中。旅行先に着いてからの記憶はいっさいない。探偵は貧血で倒れて頭を打ったからだと言う。だが、実際はそうじゃない。旅行先で殺人鬼に殺されかけたとき、語り手のもう一つの人格――殺人嗜好のある人格が表に出て、逆にその殺人鬼を殺した。その人格を人為的に作り出したのが語り手の父親で、語り手は他殺に見せかけて彼を殺している。たまたまその場に居合わせた探偵はその人格と契約して、殺人を犯しても不審に思われない場所に定期的に語り手を連れ出している。……と、もう一つの人格が語り手に手紙で教えたことにするか。目的は語り手を動揺させて自分が主人格になるため。混乱しているところに、また探偵が旅行の誘いに来る。語り手は思わず口走る。『今度は何人殺せる?』」
きっと作者は憤死するだろう。それではもうミステリではなくホラーだ。しかもベッタベタな。
しかし、辻島の仕事はたとえどんなに不出来な小説でも小説として読める程度に仕立て直すことなのだ。ジャンルが変わろうがテンプレ展開になろうが辻島の知ったことではない。――辻褄さえ合っていればいい。
しばらく辻島は黙っていた。やり直しもできるのだが、辻島はほとんど一回で終わらせる。今はたぶん、最後の見直しをしているのだろう。俺の「了」のように、辻島はいつもこの言葉で作業を締める。
「以上」
何度見てもこれには慣れない。だが、いつも俺の目は釘付けにされてしまう。
俺の手の中にあるワープロ原稿が勝手に書き替えられていく。
さっき辻島が言った箇所が削除され、ホラーな加筆がされていく。
まるでパソコンのワープロ画面だけを見ているかのようだ。俺の目には見えない手が、やはり俺の目には見えないキーボードを凄まじい速度で叩いている――
「まあ、一言で言うなら言霊ってやつかねえ」
高野さんに連れられて初めてこの部屋に来たあの日、彼は論より証拠とばかりに、たまたま持っていたやはり不出来な原稿――しかし、今回のこれよりは確実にましだった――を俺に音読させ、辻島のこの異常な能力を苦笑いしながら説明した。
「言葉を口に出すと、そのとおりに物事が勝手に改変されちゃうんだよ。だからうかつに冗談も言えない。ただし、自分以外の人間に原稿を音読させて、その内容を頭に叩きこんでから話せば、その効果は原稿だけに限定される。今の『以上』は辻島くんが試行錯誤して決めた原稿改変開始の〝呪文〟」
高野さんがそう言い終えたときには、その改変は完了していた。驚いたことには、誤字脱字誤変換誤用の修正まで。その意味では確かに辻島は校正者ではある。だが、話の内容まで変えてしまったら、それはもう校正者とは言えないのではないだろうか。
その辻島は両腕を組んだまま目を閉じていた。今と同じように。「以上」と言った後はたいてい瞑目している。訊ねたことはないが、体力もかなり消耗するのかもしれない。
「これまでは僕が今の音読してたんだけど、小さい会社だからそれなりに出世しちゃってね。ここで音読する時間もとれなくなっちゃったんだ。でも、うちでは辻島くんは絶対不可欠の存在だから、この際、助手と家政夫両方やってくれる人を探そうと思ったわけ」
独り言も呟けないらしい辻島の代わりに、高野さんはよどみなく言葉を紡いだ。
「辻島くんのほうは君をとても気に入ったみたいだよ。……え、わからない? まあ、わかりにくいけど、わかるようになるよ。とにかく、明日から一ヶ月間、ここに住みこんでもらえないかな? 今住んでるアパートを引き払うか引き払わないかはそのとき決めよう。もし引き払うことになったら、引越費用は全額負担するよ。もちろん辻島くんが」
今思えば、高野さんにうまく乗せられてしまった気がしないでもない。筆談なら大丈夫だと言われ、高野さんに差し出されたメモ用紙に「本当に俺でいいんでしょうか?」と書き、おそるおそる辻島の肩をつついてみたところ、すぐに彼は目を開いて俺を見、次に俺が持っているメモを見てかすかに笑った――ような気がした。
辻島が俺の手からメモを引き抜いた、といつのまにか彼の背後に回っていた高野さんが絶妙のタイミングでボールペンを差し出す。当然のようにそれを受け取った辻島は、ローテーブルの上でそのメモに何か書き足してから俺に返してきた。
俺の決してきれいとは言えない字の下には、ボールペン習字でもしていたのかと思うくらい整ったそれが並んでいた。
――あんたがいい。俺が怖いか?
俺は思わずまじまじと辻島を見た。辻島は少し気まずそうに目線をそらせた。
怖い。……確かに怖い。この男はあの特殊能力を小説原稿限定でしか使っていないようだが、もしそれ以外に対して行使したら、いったいどうなってしまうのだろう?
しかし、例の『どこに行っても通用しない』に代表されるように、それまで自分の存在を全否定されつづけてきた俺にとって、辻島の『あんたがいい』にはその恐怖を軽く凌駕するほどの甘い響きがあった。ここで採用を辞退したら、俺はこの先もう二度と誰にも必要とされないかもしれない。このときの俺にはそちらのほうがずっと怖かった。
「とりあえず、一ヶ月間だけ働かせてください」
辻島に直接言うのは気恥ずかしかったので、俺はまだ彼の後ろに立っていた高野さんに対してそう言った。
高野さんは思惑どおりと言わんばかりににたりと笑うと、デモンストレーション用の小説原稿が入っていた黒いビジネスバッグから、今度は労働契約書をいそいそと取り出してローテーブルの上に並べたのだった。
辻島のマンションは3LDKで、辻島本人はそのうちの一部屋しかまともに使っておらず、あとの二部屋は物置と高野さんの避難場所(と高野さんが言った)と化していた。
ベッドもデスクセットも置いてあるからという理由で、俺は高野さんの避難場所のほうを当面の自室として使用することになったのだが、辻島は高野さんに都合よく利用されていたのではないかと少しだけ辻島に同情した。
辻島のあの能力のことは別にして、致命的なまでに人付き合いが苦手な俺が、普段はまったくしゃべらない赤の他人と同居などできるのだろうかと不安で仕方なかったが、実際始めてみると驚くほど楽だった。
辻島は耳が聞こえないわけではないので、話しかければ何かしら反応はする。が、こみいった話をするときにはやはり筆談だ。
ただし、筆談用のノートに書きこむのは辻島だけである。俺はそれを読んで口頭で返す。面倒だが、辻島の書く文章は端的かつ正確で非常にわかりやすい。ある日、あんたは小説を書かないのかと訊ねてみたところ、彼は例のきれいな字でこう答えた。
――ゼロから考えるのは苦手だ。
実際、辻島のしていることは校正ではなく添削だ。それも作者の気持ちなどいっさい考えない、話の辻褄合わせ優先の容赦ない添削。
「僕はひそかに〝辻褄師〟って呼んでるけどね」
たまたま辻島が買い出しに出かけていたとき、依頼原稿を持ってきた高野さんがにやにやしながらそう言ったことがある。仕事がないときの辻島は、ほとんど居間でダラダラとテレビを見ているが、食料等を含む買い出しは進んでしていた。
「つじつまし?」
「辻褄合わせの〝辻褄〟に美容師の〝師〟。正確には〝辻褄合わせ師〟だけど、それじゃ長いから略して〝辻褄師〟」
「なるほど。確かにそうですね」
さすが自費出版専門でも編集者だ。素直に感心して同意すると、高野さんは俺が入れたインスタントコーヒーを飲んでまた笑った。
「で、雨宮くん。君は〝設定屋〟だ」
「……はい」
俺はうつむいて神妙に答えた。
実は辻島の目を盗んで、高野さんに自分の原稿を読んでもらったことがある。俺としてはいちばん出来のいいものを見せたつもりだったが、彼は最初の一枚を読んだだけで「君、〝設定屋〟だね」と断じた。
――まあ、これは僕の勝手な命名だけど。要は、設定はいろいろ思いつくけど、それを話の中にうまく組みこめないタイプ。こういうタイプは分業できるゲーム関係とかのほうが向いてると思うんだけど、君がなりたいのはあくまで小説家なんだよね?
自分でも薄々思っていたことだけに、この指摘は本当に痛かった。辻島の助手をしていなかったら、ショックで何日か寝こんでいただろう。
俺はどうしても最初に設定をズラズラと書き並べてしまう。自分はそのほうが読みやすい(そして書きやすい)からついそうしてしまうのだが、プロにとってはそうではないらしい。
もっとも、学生時代に自作を読んでもらった友人たち――卒業後は音信不通となった――の中には、小説じゃなくて論文みたいだった、読むのがつらくて途中でやめたと率直な感想を述べてくれた者もいた。俺はその友人には二度と自作は読ませなかったが、俺の数少ない友人たちの中では、彼がいちばん誠実でいい読み手だったのかもしれない。今となってはもう詮ないことだが。
――これ、公募に出したらどの程度まで行けるのかな。
辻島が改変した原稿を見るたび、いつもそう思う。
ミステリからホラーに変えられてはしまったが、話の辻褄だけは合っているはずだ。それも確認しようと今度は黙って読みはじめたが、出だしの数行で右肩を叩かれた。
驚いて振り返れば、辻島が俺の後ろにいて、眉間に少しだけ縦皺を寄せていた。相変わらず表情は少ないが、高野さんが言ったとおり、多少は読み取れるようになった。
「ああ、昼飯か」
そういえば、手抜きチャーハンを作っている真っ最中に、高野さんがこの原稿を持ちこんできたのだった。
「わかったよ。今行くからダイニングで待ってろよ」
原稿の右肩を再びダブルクリップで綴じながらそう言うと、辻島は了解したというようにうなずき、ダイニングに向かって歩いていった。
辻島に対してタメ口で話すようになるまで案外時間はかからなかった。給料をもらっている立場でこんなことを言うのも何だが、俺にとって辻島は人の形をした大型犬のような存在である。言葉で会話しないほうが安らげることもある。少なくとも俺は。
――フライパンで炒め直すより、レンジでチンしたほうがましかな。
少しでもうまい〝エサ〟を食べさせるため、俺もソファから立ち上がり、一時中断していた家政夫業を再開した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます