かませ犬に花束を

あき

第1話

 ボクシングは不思議だ。

 拳だけで行われる、殴り合いのスポーツ。

 痛いのに、止めれない。

 つらいのに、楽しい。

 なぜだろうか。

 わからない。

 でも。

 スポットライトはいつもまぶしい。

 ホールの観客はガラガラで。

 居ても無精ひげの生やしたおっちゃんばかりだ。

 綺麗なお姉さんなんて見たことない。

 四方をロープで囲まれたリングの上では一人っきり。

 他のスポーツみたく仲間なんて誰もいない。

 なんのために戦っているんだろう。

 自分のためだろうか。

 わからない。

 ただ……。


「立てッ! 弘樹、立てぇッ!」

「ファーイブッ」


 リングの中央で、松田弘樹まつだひろきは片膝を付いていた。打撃の打ち終わりにガードが下がってしまったところを狙われて対戦相手の一撃を喰らい、ダウンしてしまったのだ。手にはグローブ。足にはシューズ。腰には試合用のトランクス。彼は今、ボクシングの試合をしている。

 彼の行っている試合は4ラウンドあり、1ラウンドは3分間の計12分。その中で、同じラウンドに2度のダウンで負けとなる。彼のダウンは一度目。現在は3ラウンド目で、残り時間1分。あと1分の間、もう一度ダウンしてしまうとKO負けになる。だが、膝を付いてダウンを取られてしまっている今、10カウント内に起き上がれなければその時点でKO負けが決定してしまう。

 4回戦。

 プロ5戦目。

 2勝(1KO)2敗。

 彼の戦績だ。


「弘樹ぃぃ!」

「シィックスッ」


 音がする。弘樹は、はっきりしていない意識の中、音の元を探った。そこには彼の所属するジムの会長がいた。無名のジムのために、二人三脚で見えない道を歩んでいるパートナーだ。しかし、どうにもおかしい。必死な形相でこちらに向かって叫んでいる。

 ははッ。会長がリングを叩いてら。まるでゴリラだ。

 しかし周囲に意識が向いてくると、レフェリーが指でカウントを数えているのが見えた。

 やべぇ!

 ダウンしていることを認識し、立ち上がった。足元がふらついた。


「大丈夫か?」

「大丈夫です」


 レフェリーの問いに、弘樹は頷いた。

 ファイティングポーズをとり、ステップを踏んだ。

 彼は右利きのオーソドックススタイルだ。右拳を顎の付近に、左拳を前にだし、軽やかに動く。得意なパンチは右ストレート。距離を取り、持ち前のスピードを生かしたボクサータイプだ。対する相手はクラウチングスタイル。構えは同じだが、弘樹よりも腰を落とし、前方に重心を傾けている。攻撃的なスタイルで、ここまで3戦3勝3KO、しかも今まで全てが1ラウンド目に一撃必殺のボディブローでKOという接近戦好きのパワーファイターだ。逆転一発KO勝利ばかりの、どこかのマンガの主人公みたいな戦績だ。

 そいつが、こちらの様子を伺っている。構えはそのままに、しとめる気満々の気配が伝わってくる。

 やられてたまるかよ。

 レフェリーが試合再開の合図をした。


「ボックス!」


 まずは距離を作って、息を整えるべきだ。冷静に、冷静に。後ろに大きく下がった。

 しかし、敵は突っ込んでくる。

 想定内ッ!

 防御の上から速い左パンチで連打する。けれども芯をずらされ、突進は止まらない。

 くそッ。左ジャブじゃ止まらねぇッ!

 渾身の右ストレート。衝撃に、ハードパンチャーの動きが止まった。

 よし。一旦距離を作って。

 バックステップ。しかし、直後に背中からロープの感触が伝わってきた。その答えは、逃げ場がないということ。

 ちくしょうッ。追い詰められたッ!

 無慈悲な戦車がゆらりと動いた。敵の左ジャブ。目の前が赤いグローブで染まる。比較的攻撃力の低いはずのパンチを全身のバネを使って威力を吸収しようとガードするも、ゴツン、と奇妙な音を立てて崩された。吸収しきれずにダメージを食らう。

 なんて威力だ。桁違いだ!

 けれども攻撃は終わらない。左ジャブが戻されると、すでに、レバーブロウ、肝臓打ちの体勢へと移っていた。放たれる一撃。からくも防御するも、あのおかしな効果音は続いている。ゴツン、ゴツンと、ガードの上からお構いなしにボディブローが追加された。一発、一発に恐怖が上乗せされる。

 この破壊力はっ!

 クリティカルヒットはこちらの方がはるかに多い。手数も断然上だ。序盤にダウンだって奪った。けれども弘樹に蓄積されているダメージは尋常ではなかった。

 だが……ッ。

 弘樹のガードがボディブローから守るために下がってきた。放たれ続けるボディーブロー。しかし堅牢な門を築き上げたことで、敵からのしつこい連打をシャットダウンできた。が、ついに、ハードパンチャーが頭を狙ってきた。ボディへの攻撃の連続はガードを下げるためで、本命はテンプルだったのだ。それも強烈な左フック。下半身のバネを使い、身体を入れ、コンパクトに横から殴る威力の高い攻撃だ。頭にダメージを与えられれば、意識を刈り取られてしまうかもしれない。

 だがな。

 そんなセオリー通りの攻撃。

 読んでるんだよッ!

 カウンター。相手の攻撃に合わせて、自身のパンチを食らわせる必殺技だ。相手は完全に攻撃モーションに移っていることから、威力を足のバネで吸収できずに、当たれば威力が倍増する一発。けれども失敗すれば、逆に大ダメージを食らってしまう。それを、同じ左フックで行った。よりコンパクトに。小さくたたんで。相手が放つと同時に。目の前の男よりも早く当てる自信があった。

 敵の左フックが迫ってくる。殺人級のパンチだ。それが、ドンドン大きくなる。しかしそれは、脳が加速しているのか、ゆっくりと、スローモーションとして映像が流れていく。呼吸も筋肉の小さな動きも鮮明に見え、こちらの攻撃もゆっくりとしてしまう不思議な時間。弘樹の左フックも敵の意識を刈り取ろうと、緩慢に牙を剥いていた。

 一閃。

 風圧が交差した。

 時間は元に戻る。鈍い衝撃とともに、敵は崩れ落ちた。


「ダウーンッ!」


 レフェリーのカウントが始まった。

 大きく息を吐いた。

 敵が、膝を付いている。

 対する弘樹は立っていた。

 どうだ、前評判をひっくり返してやったんだ。かませ犬? 天才の踏み台? 俺たちは無名。試合のマッチメイクなんて大手によりかかりだ。いつも強い相手ばかりだ。でもな、とことん噛み付いてやるよ。

 会長に向かってガッツポーズをとろうと、手を上げようと努力する。が、腕が上がらない。それどころか、コーナーに歩くことさえできない。フラり、フラりと、足が安定しない。

 次のラウンドで終わらせてやる。最終ラウンドだ。この試合、勝てる。

 でもなぜだろうか。視界すらぼやけてきた。

 おかしいな。会長が焦ってら。勝てる、勝てるのに。

 足がもつれた。

 あ、これ、倒れる……。

 そこで、弘樹の意識が途切れた。


 3ラウンド、2分58秒、KO負け。

 弘樹の戦績に、黒星が追加された。

 

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