昭和編

育子と清四郎


 その少女が現れたのは、青空の眩しい新緑の季節だった。


「貴方が、蓮見はすみ清四郎せいしろうさん?」


 こんな天気のいい日には草っ原に寝転がって猫のように眠るのが常で、突然翳った日の光に目を開けたときだった。

 まだ十五歳ほどの少女が、覗き込むようにこちらを見下ろしていた。

「……確かに、僕が蓮見清四郎ですが」

 まあるい瞳に、気の強そうな眉。髪は左右におさげにしてぶらぶらと揺れていた。

「お願いがあるんです」

「はぁ、僕に」

 こんな得体の知れない暇人に。

 少女は僕の隣に正座すると、ちゃらり、と音をたてて何かを取り出した。金属の音。

「これを、直してもらえないかしら」

 少女のてのひらには似つかわしくない立派な懐中時計が、ちゃらりと鎖を鳴らしていた。



 時は昭和、この国は幾度かの戦争を繰り広げ、今もまた戦火の真っ只中である。新聞やラジオは毎日のように戦争のことを伝えていた。


 少女は育子いくこ、と名乗った。このあたりでは名の知れた庄屋の娘だった。

「こういったものには、貴方が詳しいと聞いたもので」

「趣味の域ですよ。本職ではない」

「分かっています。本職の方々はこのご時世、こんなものを修理している暇はないと、私のような子どもからの依頼など聞く耳持ちません」

 むす、と頬を餅のように膨らませるその仕草は、なるほど幼い子どもそのものだ。

 うつくしい懐中時計だった。

 しかしカチコチと聞こえてくるはずの音はさっぱりなく、鎖がちゃらちゃらといたずらに音をたてるだけである。

「……直せませんか」

「直せる、とは断言できかねますねぇ」

 なんといっても本職ではないし、今は道具もないのでどう壊れているのかもわからない。育子さんは目を伏せて、ぎゅっと拳を作った。

「その時計は、祖母のものなんですけど、とても……大事にしていて」

 育子さんは目を落とし、僕の手のひらの上の時計を見つめた。壊れても手放すこともなく、こうして大事にしているのだから特別な品だということは容易に想像できた。少女とも言える年齢の彼女がこんな高価なものを持っていたのは、なるほどそういうことか。

「その祖母が、病で。どんどん弱っていて。時計が元のように動いたら、少しは元気になってくれるんじゃないかって」

 思って、と語尾はどんどん自信なさげに小さくなっていく。

 ふぅ、と息を吐き出して、僕は育子さんの頭を撫でた。

「……直せる、とは断言できかねますが、直せない、とも言ってませんよ」

「っそれじゃあ!」

 ぱっと顔を上げた途端に、花咲くような笑顔が飛び込んでくる。くるくると表情の変わるお嬢さんだ。

「ちょっと見てみましょうか。部品によっては時間がかかるかもしれませんけど」

「ありがとうございます!」


 その少女が現れたのは、青空の眩しい新緑の季節だった。

目を焼くような眩さとは違う、木漏れ日のような輝きを持つ子だというのが、第一印象だった。





「晴れた日には必ず清四郎さんはここにいるんですね」

 ひょっこりと顔を出したのは、もうこのところ見慣れてしまった少女である。初夏のこの時期に雨は遠い。晴れた日には日を浴びておかなければ人間も腐っていくというものだ。

「そんなに何度もきても、まだ直りませんよ」

 あの日、預かったうつくしい懐中時計は慎重に故障を確認した。その上でいくつかの部品を交換しなければならない旨も、この少女には伝えてある。

「時計のことがなければ会いに来てはダメなんですか?」

「貴女のような少女が出歩いていていいご時世でもないでしょう、こんな男と話していても退屈でしょうし」

「退屈かどうかは私が決めることですよ、清四郎さん。それに私が来なければそれこそ清四郎さんが退屈で死んでしまいそうな顔をしているもの」

 そう。世は戦争の真っ只中にあるというのに、僕という人間は退屈極まりない日々を過ごしている。退屈で死んでしまいそうな。なるほど的を射ている。

「先日、下の兄も戦地へ行ってしまいました」

 睫毛を伏せた黒い瞳は、彼女には似つかわしくない憂いがあった。

「……清四郎さんは」

 躊躇いの末に紡がれた己の名に、ああ、と笑う。まさに戦地で御国のために身を賭すべきか年齢ともいれる男が、こんなところで昼寝しているのが不思議なのだろう。

「肺の病で、戦えぬ身なので」

「そう、なんですか」

「……そういうことになってます」

「そういう、こと」

 理解が追いつかない表情で、育子さんは首を傾げた。

「清四郎という名のとおり、気楽な四男なんですがね。上の兄が既に戦死しておりまして。ああ三番目の兄は幼い頃に亡くなっているんですけど」

 年老いた父はまさかの事態に慌てた。このままでは家を継ぐ息子がいなくなる、と。

「妾の、今まで忘れていたような息子でも仕方ない、家を継いでもらわねばということで。金に物を言わせて医者に病だと言わせて徴兵を免れているんですよ」

 皮肉にも身体は健康そのものだ。兄たちのようなたくましい身体ではないけれども。

「どんな事情があれ、私は清四郎さんと出会えたことを幸運に思ってますよ」

 育子さんは青空を見上げると、眩しそうに目を細めた。彼女にもあの空は眩しいのか、と心の片隅で思う。晴れの日は好きだ。けれど、この時期の青空はとんでもなく眩く、目が眩む。

「戦争など、早く終わればいいですね」

 それは、誰もが思いながらも誰も素直に口に出来ない言葉だった。



 壊れた時計は未だに時を刻まない。

 伝手を使って、時にはもう使わなくなった己の時計を分解して、うつくしいそれに息を吹き込む。

 こうしている間は時も忘れて没頭できる。外に出ても陰鬱な気分にしかなりえない曇りの日は、たいてい部屋に篭ってこのうつくしい懐中時計と向き合っていた。

 ふと思う。育子さんはこんな日にも僕を探しに来ているのだろうか、と。

 外の様子を確認してみれば、どんよりとして濃い灰色の雲が今にも雨粒を落とそうとしている。

 ずっと細かな作業をしていたせいで、身体はすっかり硬くなっていた。ちょうどいい、気分転換に散歩にでも行くか。曇りは嫌いだが、雨はそうでもない。降り注いだ水滴は地上を洗い流していくからだ。

 外へ出て数分後にはぽたりぽたりと雨が降り始める。傘を打つ雨音を聞きながらゆっくりと歩いた。

 いつものように昼寝はできない。

「……育子さん?」

 いつも待ち合わせているわけではない。ただ草っ原で怠惰に午睡に浸る僕のもとへ、彼女がやってくるだけである。

 こんな風に、立ち竦む彼女は初めて見る。

「傘もささずに、どうしたっていうんです。風邪をひきますよ」

 慌てて駆け寄り、傘の下に育子さんを入れる。黒い髪からは雨粒が雫となって落ちた。

「……清四郎さん」

 まあるい瞳が僕を見上げた。

「……祖母が、亡くなったんです」

 震える声が紡いだ言葉に、僕は言葉を呑んだ。それはつまり、間に合わなかったのだ。無責任に引き受けて、結局待ち望む人に時を取り戻した時計を見せることが出来なかった。

「……申し訳ない」

「いえ、違うんです、清四郎さんに非はありません、祖母はもう、長くなかったのですから」

 ふるふると育子さんは首を横に振った。そのたびに黒い髪から水滴が散る。

「本当はもうご迷惑をおかけするわけにはいかないとは思うんです、でも、でも……!」

 ぎゅ、と育子さんが僕の着物を握りしめた。小さな手が縋りついてきているようだ、なんて錯覚する。

「あの時計が動いているのを、見たいんです……! お願いです、どうか」

 祖母の形見となったものを、いつまでも他人の男が持っているのはどうなのか、という理性が働く。

 けれど、そう、あの時計がカチコチと息を吹き返したら、それはそれはうつくしいだろう。

 見たいと思う。そのうつくしさを。まるでこの少女のように、うつくしいのだろう。

「家まで送りますよ、育子さん」

「清四郎さん……っ」

 肝心な返事をしないままの僕に育子さんは乞うように見つめてくる。

「もう梅雨ですね、雨が続くだろうな」

 雨足は強くなるばかりだ。季節柄、これから雨の日は増えるだろう。

「そんな話ではなく」

「家に篭ってばかりだと暇なんです、あと少しで、直せると思いますよ」

 それは嘘ではなかった。壊れてしまった部品の大半の代替品は手に入れたし、あの時計が動き出すのも間近だろう。

「じゃ、じゃあ」

 ほっと安堵したような顔の育子さんに微笑みかける。

 祖母が大事にしていて。そんなことを言っていたけれど、育子さんにとってもあの時計は大切なものだったのだろう。

「晴れた日にまた会いましょう、くれぐれもこんな天気の日に傘もささず出かけないでくださいよ」

「はい」

 ちょうど育子さんの家の前で、彼女は今日会ったときとは打って変わって晴れ晴れとした表情で家の中へ戻っていく。





 カチコチ、カチコチ。


 それは、確かに時を刻む音だ。


「……動いて、る」

 手のひらの上に懐中時計をのせて、未だに信じられないといった顔でそれを見つめていた。

 梅雨は明けて、じりじりと太陽が地上を焼いていた。さすがにここまで暑いと草っ原で寝転がる気分にもなれない。

「どうにか直せました」

 本当にどうにか、だったので気恥ずかしく笑って誤魔化した。

「ありがとうございます!」

「いえ、こんな素晴らしい時計の修理なんて光栄ですよ」

 育子さんがカチ、と蓋を開けると、秒針がカチコチカチコチと一秒ずつ時間を刻んでいた。

「……そうだ、この蓋の裏に清四郎さんの名前掘りましょうよ。直してくださったんだもの!」

「え? いやいや、僕のものでもないですし、そんな大それたことじゃないですから」

「いいじゃないですか! ね!」

「それを言ったら育子さんのものなんだから、育子さんの名前のほうが正しいでしょう」

 反駁したが育子さんもまったく譲る気配がない。これは困った。

「それじゃ、こうしましょう。お互いの名前をもじって掘るんです。それならいいでしょう?」

「お互いの? ……そうですね」

 育子と清四郎と二つの名前を並べるほどの大きさはない。頭文字をもじるのが妥当だろう。

「それなら、イクとセイ、ですね」

「そうですね」

 もし何かあればと持ってきた道具で、イクトセイ、と掘る。二人の名前のはずが、そこに刻まれるとまるでひとつの何かに思える。

「イクトセイ」

 掘り終わったそれを見て唇でなぞり、育子さんは嬉しそうに笑う。

「ありがとうございます、清四郎さん」

 大事そうに胸にしっかりと抱きしめて、育子さんは僕を見上げた。

「……実は、田舎に疎開することに、なりまして」

 戦争はどんどんと厳しくなるばかりだ。そうですか、と自分でも驚くほど平坦な声が出た。

「……それなら、今度こそ間に合ってよかったです」

「間に合わなくても、清四郎さんが持っていてくださるならそれでよかったんですけどね」

「それはいけません。この時計は、育子さんのものなんですから」

 いつ返せるかわからなくなるほど、僕の手元に置いておくわけにはいかない。

「じゃあ、お元気で」

「……清四郎さんも」

 懐中時計は元のようにカチコチと時を刻んでいる。もう僕と育子さんがこうして会う理由はない。

「いつか、また……!」

 ここで、と叫ぶ育子さんの声が聞こえた。聞こえたけれど、聞こえなかったふりをした。





 八月、長すぎた戦争は終わりを告げました。

 清四郎さんと出会った町に戻ってきたけれど、町はところどころ空襲によって様変わりしている。これでも被害は少なかったほうだと教えられた。

 またいつか、という私の願いは届いたのか、届かなかったのかわからない。清四郎さんとは会えないままである。



松浦まつうらさん」

 すっかり変わってしまった町だけど、清四郎さんがよく寝転がっていた場所はそのままだった。しかし彼はいない。

「松浦さんったら!」

「あっ……すみません、まだ慣れなくて」

 戦争も終わり、何年か経って、私は親の定めた人のもとへ嫁ぎました。

「よくこのあたりにいらっしゃいますけど、何か?」

「いえ、その、お世話になった方はどうしていらっしゃるのかな、と。蓮見さんとおっしゃるのですけど」

「蓮見さんって、あの? あそこも不運ですよねぇ。息子さん方は全員戦死されたんでしょう?」

「……え?」

「末の息子さんも、終戦の半年前には戦地に駆り出されて」

 カチコチカチコチ。

 袂で、懐中時計が鳴る。

「……あら、もしかしてその息子さんが……?」

「はい、その……少し、お世話に」

「まぁ……」

 それはそれは、と言葉を濁らせてではまた、と去っていく。


 いつか、また。

 いつかまた、ここで、会えたら。


 私は懐中時計を取り出すとカチリと蓋を開ける。イクトセイ。刻まれたふたつは、わかたれることはないけれど、私と清四郎さんはもう見えることは、ないのだ。

 懐中時計を抱きしめて、私はその場に蹲った。うあああ、と獣のような声が漏れる。

 眩しすぎる日の光に目を細め、まあるい眼鏡の向こうでやわらかく微笑む彼が、私は。私は。


 カチコチカチコチ。

 彼が吹き込んだ時は、私の中でしっかりといきていた。



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