郁人と聖花(2)
大学を卒業して、あたしは中堅企業の事務の仕事に就いた。それも何年もすればすっかり一人前だし、アラサーともなれば後輩もできる。
「――あんた、また別れたんだって?」
久しぶりに会う真奈美は相変わらず容赦ない。ずずず、とアイスティーを音をたてて飲みながらあたしは友人を睨んだ。
「別れたっていっても、もう半年以上前の話だよ」
「どうせまた、俺おまえとはもうやっていけない、とでも言われたんじゃないの?」
「……なんで真奈美センセイは何もかもお見通しなのかな」
ものの見事に図星だった。千里眼でも持っているのかな真奈美センセイは。
「馬鹿でも分かるわ。はーあんたらってほんとめんどくさい」
あんたらってなんだよ、と思いながらきっと交友関係の広い彼女のことだ、あたしと同じようなめんどくさい友人が一人や二人いてもおかしくはない。
「あたしもアラサーだもんなぁ……結婚とかどうしよ……婚活とかするべき?」
「おまえが婚活してうまくいくと思えないんだけど。ていうか、聖花って結婚願望あったんだ?」
意外そうな顔をする真奈美に、んー、と言葉を濁した。
「よく分かんない。でも、おばあちゃんになっても一人ってのはやだなぁって」
不純な動機だろうか。恋をしたいわけでも、誰かを愛したいわけでもなくて、ただ長い人生で隣に誰もいない、というのはさみしい。
誰かが隣にいる心地よさを知ってしまっているから、なおのこと。
「ふーん? じゃあセッティングしてあげようか。合コン」
「……合コンかぁ……」
合コン嫌いは未だ健在である。
「飲み会の延長だと思いなさいよ。私の相方に集めてもらうからさ」
そう、こんな真奈美でも彼氏持ちなのである。相手はドMかとつい魔が差して聞いたときの真奈美センセイの顔は忘れられない。二度と聞くまい。
「んー……じゃあ、行こうかな。真奈美もいるんでしょ」
「めんどうだけど幹事やってあげるわよ。私も友達が将来孤独死とか嫌だし」
やめてくれそのリアルな想像は。
真奈美の行動は早かった。
それから一週間ほどでメンバーを集めて花の金曜日に開催である。やはりできる女は違う。
あたしの他に犠牲となった女友達も、合コンで率先して狩るようなタイプではなく比較的大人しくて、でも空気が読めるタイプの子たち。真奈美は将来世話焼きおばさんになるんじゃないだろうか。
「よし、逃げなかったわね」
待ち合わせの五分前にやってきたあたしを見て、真奈美はにやりと笑う。怖いですセンセイ。
「言われたとおりいつもと変わらないカッコできたけど、よかったの?」
真奈美とお茶するときと変わらない、パンツスタイルに自分でも不安になる。だってほら、一応合コンなんでしょ? 少しは可愛らしいカッコしたほうがよかったんじゃないの?
「取り繕って会った人間とその後うまくいくかっての。いいのよそれで。似合ってるし」
学生時代に長かった髪は、社会人になると邪魔でショートにした。
「ほら、じゃあ行くよ」
向こうも集まったみたいだからさ、と言う声とともに移動をはじめた。
――騙された。
と、思ったのは向こうの男性諸君と顔を合わせた瞬間だった。幹事を抜いて三人のうちの一人に、あたしはかつての相棒を見つけたのだ。
きっ、と真奈美を睨むと、彼女はにやりと笑う。確信犯だ。そういえば真奈美の彼氏も同じ大学だった。まさかまさか郁人と繋がっていたということか。
一瞬だけ郁人と目があった。しかし自己紹介でも彼はあたしと相棒であったこと、幼馴染であることを告げなかったので、あたしも同じようにそこには触れなかった。
数年ぶりに会う、完全な他人の彼の前で大切な宝物であるようなそれを口にすれば、すべて幻になってしまうような、気がした。
「小園さん、次ビールでいい?」
「え、あ、はい」
本当はビール嫌いなんだけどな、と思いつつ、へらりと頷いた。完全に上の空だ。集中しろというほうが無理がある。
やってきたビールを受け取ろうと手を伸ばすと、向かいの席からそれを先に取られる。
「間違って甘いの頼んじゃったから、交換して」
そういって代わりのカシスオレンジを渡したのは、郁人だった。ぽかん、と受け取ってから、わかってしまう。
なんで分かるの。あたしとあんたで飲みに行くことなんてなかった。お酒を飲めるようになってから話したことなんてなかった。
それなのに、どうしてビールが嫌いだって、苦いお酒は飲めないんだって、わかっちゃうの。
それからろくに食べずに飲み続けた。真奈美が呆れたようにこちらを見ていることさえ気づかないフリをして。
「聖花、飲み過ぎ」
低い声が、たしなめるようにあたしの名前を呼ぶ。
なんだよ、いいじゃん。飲みたいんだもん。飲んでなきゃやってらんないんだもん。
心の中でそう愚痴って、あたしはぐわんと歪んだ視界の中で誰かの服の裾を掴んだ。
いつの間にか向かいに座っていたはずの郁人が隣に移動したことにも気づかず、あたしの意識はそこでぷつんと切れた。
生まれて初めての彼氏には、俺は相棒にはなれないよ、と苦笑され別れを告げられた。その次の彼氏には恋人らしくないよな、俺たちと聞かれたので素直に頷いたら別れようと悲しそうに微笑まれた。その後も、そのまた後も、いつだって恋人から別れを告げられる。
分かっていた。
あたしはいつも、恋人に郁人の代わりを求めていたのだ。無条件でそばにいて、一緒に笑って一緒にはしゃいでほしくて。でもそれは、一般的な恋人と少し違う。そこには恋しいという感情が欠落しているから。
それでもあたしは、最高の相棒がほしかった。遠いあの日、二人で一緒にいることが当然だった、あの居心地のよさを、忘れることができなくて。
きっと人は、一人では生きられなくて。
だからきっと、親友とか、恋人とか、伴侶とか、求めるんだろう。
ぱち、と目が覚めたときには慣れ親しんだワンルームの我が家だ。
「いったぁ……」
がんがんと頭を叩くような痛みに顔を顰める。記憶がない。どうやって帰ってきたんだ?
社会人にあるまじき失態だ。自分のキャパを見誤って飲みすぎるなんて。成人したばかりの子どもか。
かちゃり、と鍵の開く音がした。まてまて真奈美か? そんなわけない。あいつだって彼氏と帰っただろう。
「へ?」
当たり前のように部屋に入ってきたのは、郁人である。
「なんだ、起きたん?」
「……今」
じゃあ水飲めよ、と今しがた買ってきたらしいミネラルウォーターを渡された。
「おまえさ、もう少し用心しろよ。女だろ一応」
俺じゃなかったら食われてるよ、という郁人のセリフに、ああ大人になったんだなぁなんて実感した。
そもそも誰のせいで自分のキャパを忘れるまで飲んだと思っている。
酔いつぶれたおまえがしがみついて離れなかったから早川から住所聞いて、タクシーで送り届けて、そして今に至るらしい。早川とは真奈美である。真奈美もなんで郁人に預けたんだよ、とここにいない友人に文句を言いたい。
「だいたいさ、なんでいたの」
「俺が出会いを求めて何が悪い」
「だったらあたしに構っている場合じゃなかったんじゃないの」
窓から見える外はもう明るくなってきている。飲み会という名の合コンはとっくに終わっただろう。
「いーんだよ、おまえと話したかったんだから」
「なんで?」
今さらだ。
今さらすぎる。
郁人とまともに話さなくなって、もう何年経つと思う? 十年じゃ全然足りない。
「……なんかさ。違うんだ」
困ったように郁人は笑った。違うんだよ、と再び小さく呟いて。
「誰が隣にいても、なんか違う。何か足りない。これじゃないって違和感ばっかりで彼女にはいつも振られるし。それもあんまり悲しいって感覚ないし」
まるであたしのことを言っているんじゃないかって錯覚しそうになった。郁人の声で零されるその内容は、あたしとおんなじだった。
誰かと付き合ってもなにか違う。そして相手はあたしがそう思っていることに気づいてしまう。あたしは馬鹿正直なくらい、顔に出てしまうから。
「もう何年も声聞いてなかったのに、変だよな、おまえと話してるのがいちばんぴったりするんだ」
低くなった郁人の声。
高くなった郁人の背。
同じ大きさだったはずの手は、あたしの手をすっぽりと包めそうなくらいに大きくて。
あたしの知る郁人じゃない。
それなのに、どうしてこんなに、久々に深く呼吸できている気がするんだろう。
薄い膜に覆われたような息苦しさはなくなって、ただ胸に、肺に、朝の空気がじんわりと染みていく。
「おまえは?」
「え?」
「おまえは、平気だった?」
せいか、とあの頃のように郁人が呼んだ。
「平気じゃない」
考えるよりも早く、口からこぼれた言葉は、止められなかった。
「平気じゃ、なかったよ」
男と女が一緒にあるだけで愛だの恋だの騒ぐ連中に嫌気がさした。どうしてただ一緒にいることがこんなに難しいんだろう。付随してくる感情も関係もどうだっていいのに。
ただ本能で、あたしは、郁人は、相棒を見つけただけなのに。
「ならさ、もっかい最初からはじめよ」
郁人がほっとしたように笑って、あたしの手を握った。ごつごつしたその手のひらは、記憶にあるものとはまったく違う。
「俺とおまえが一緒なら、いつだって最強だろ」
そう言って笑う郁人は、幼い頃とおんなじ顔をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。