傷つけない海

詠野万知子

第1章「Great Mother」

第1話 被食


 喰い殺されている。大人一人飲み込むのに一口とかからない大きな獣が喉の奥を震わせて、自分の身体を齧っている。

 その一部始終を少女ははっきりとした意識で感じていた。

 腕を回せるほど大きな牙が服を裂きそのまま胴を貫いて身体を逃がさない。体から熱湯が吹き出たような出血にそれでも意識は明瞭だ。

 のけぞった喉で呼吸をする。

 上下する腹から呼吸のたびに血が溢れる。

 血と獣の涎とで細い体はびしょ濡れだった。

 抵抗の意思のかけらもない手足が重力に従って垂れている。ばき、と鳴ってどこかの骨が砕けた。ぐちゃぐちゃと咀嚼してぼとりと何か落ちる音。下半身とさよならしてしまったようだ。彼女は目を閉じて、もう何も見ていない。抵抗したって何の意味もないことをとっくに知っている。

 獣は出来の悪いコラージュだ。

 ライオンの体とヒグマの爪とオオカミの顎とヒトの目を持っていた。

 目。

 あの男の目だ。

 黒目が下に寄って捉えた獲物を見つめている。

 肉食獣は一度獲物を地面へ吐き出した。べちゃりと地面に転がって、思いがけず下半身と出会う。再び一つになれる見込みはなさそうだ。獣の唾液と自分の血液で出来た水溜まりに顔の半分を沈めて不本意にも舌が不快な味を舐めた。

 もう口を閉じることもできない、体の全ての自由がきかない。獣がぴちゃぴちゃと体を舐め血を味わっている。ネコ科の動物特有のざらついた舌がやがて少女をからめとって牙で挟んだ。ごりごりと固い何かがすりつぶされる音。化け物に丁寧に噛み砕かれて死んでいく。獣の大きな胃が収縮する音。

 大層空腹だったようだ。

(でも果たしてぼく一人だけで満腹になるだろうか?)

 自分の状況を棚に上げて心配をして、少女はすこし笑った。

 痛みには慣れた。痛いからといって騒がなければいいだけの話だった。あっさりと嚥下され、そこでようやく意識が途切れようとしていた。

 ごくん。



 目を覚ますと見慣れた天井が見えた。

 四角い電灯、コンクリートの壁。

 硬いベッドの上で寝相も崩さず横になっている。

 喚いたりだとか、飛び起きたりだとか、そういうことはいつからか無くなった。

 人間何にでも慣れるものだと感心するでもなく思う。

 やがて目覚まし時計代わりのラジオが音を吹き出し始める。

 七時のニュースです。女性の声が言う。

 昨日はどこかで大昔の裁判が終わった。政治家はまた喧嘩をしている。どこかの会社が悪いことをしていた。産まれたばかりの子供の死体が遺棄されていた。学生同士が殺傷事件を起こした。今日の天気は雨なので外出の際は傘を忘れないように。音楽が流れる。

 全部ノイズがかかってスピーカーからこぼれている。

 まるで砂みたいな音だ。

 横になったままじっと、瞬きをしないで静かに呼吸している。

 首の後ろが汗で湿っていた。

体中に汗をかいていて夢の獣を思い出す。でも、今日のは中々新鮮でいいな、と思った。御伽噺みたいで素敵だった。鉄の棒で何の工夫もなく殴られ続けるよりはよっぽどマシだ。

「ナエ」

 ドアの外から呼ぶ声。答えずにいると勝手に入ってきた。

 ヨウだ。

 彼は控えめに嘆息する。安堵の意味合いが大きいようだった。

「よく眠れた?」

 最初から答えを知っていて尋ねていた。

 だから少女は返事をしない。

 ヨウは勝手に冷蔵庫を開けてグラスに氷と水を注いだ。

 グラスの表面が結露する頃合いでサイドテーブルに置く。

「おはよう。あいにくの雨だよ。この部屋からはわからないか」

 部屋には窓がない。

 ベッドと冷蔵庫と椅子が一脚。

 キッチンシステムは二階にあって少女の手ではほとんど使われていない。使用済みのグラスが冷蔵庫の脇にひっくり返ってツリーのように積み上げられている。

 その有様を見てヨウは呆れた顔をした。

 散乱している衣類を拾い集めながら床を歩く。

 脇に衣類の山を抱えて片手を少女の頭へ伸ばした。

 彼はまた名を呼ぶ。ナエ

 天井を見上げるナエの顔に影が落ちる。

 少女はふと目を細めた。

 短い髪が枕の上に広がっている。少年めいた体型と少女の顔を併せ持っていて一目に性別がわからない。血の気のうせた唇は小さく開かれたままだった。毛布を首まで掛けているがその下に横たわる体がひどく頼りないものだとすぐにわかる。

 男は長い指で少女の前髪をかきあげて視界から髪を退けてやった。汗の湿り気が指に触れる。

 それから手のひらで包むように頬を撫でた。

 肌は汗ばんでいて男の乾いた手のひらに吸い付く。

 人形のようにじっとしていたナエがそこでようやく体を起こして、彼が引っ込めかけた手を引き寄せて人差し指を口に含んだ。

 ちゅ、と水気混じりの音を立てて彼の指を舐める。

 指の付け根からから指先へ、抜きかけて指の腹を浅く噛む。

 最後にまたすっぽりと飲み込んで味わうと未練もなく引き抜いた。

 ヨウが作った飲み物のほうには見向きもしない。

 毛布を抜け出た姿は上下とも白いキャミソールとショートパンツで、細い肩や頼りなげな足が太股半ばから露出していた。

 ヨウの前でも躊躇せず着替える。

 上には床から拾い上げたパーカーを羽織ってファスナーを首まで閉めて襟元から髪を払う。

「出かけるの?」

「いい天気だから」

「傘を持っていきなよ」

「いらないよ。せっかくの天気だもの」

 答えて、ヨウを残し部屋を出た。

 残された彼は部屋の中でしばし立ち尽くし、やがて床の掃除を再開した。

 一通り衣類を回収するとベッドメイクを済ませ、飲み残された水を飲み干す。

 抱えた洗濯物を一つの袋にまとめて、傘を手に取り外へ出た。



 ハシュ区はどこもかしこも日当たりが悪い。

 それも今日ばかりは気にならなかった。

 雨が降れば、日当たりの悪さはここに限った話じゃなくなるからだ。

 ヨウは雨の中を歩く。

 傘にあたる雨粒は重い。ねっとりとした雫が透明な傘の表面を滑り落ちていく。

 肩から洗濯物満載の袋をかけて、反対の手で傘を持っていた。

 先に出かけた少女の姿は見当たらない。

 こんな雨の中視界は悪く、町の見栄えも極端に悪くなる。

 窮屈に立ち並ぶ建物と、ぶつかるようにしてすれ違う人々。

 傘のせいで普段ならやっとすれ違える道も今日はほぼ一方通行だ。

 こんなに歩き辛い見通しの悪い道で一度見失った誰かと再会するのは難しい。

 執着せず、彼は近場のコインランドリーに入った。

 油に汚れたように表面の光る傘を畳んで踏み入ると男と女が逢い引きしていた。

 嬌声にうんざりしながらすぐ外に出て、ため息を吐く。

 もう少し先に行こうと決めた。

 どうせ夜になればナエは部屋に戻る。

 行くあてがいくつか思いつくが、無理にでも追いかける理由なんてなかった。

 仕事の事務所か、行きつけの匂い屋か、そのあたりをぶらぶらしているのか。

 二件目のコインランドリーに入る。

 浮浪者が一人寝転がっている。その傍らで洗濯をした。

 機械の仕事を待つ間じっと椅子に座っている。

 トタン屋根に圧力をかけるような雨粒の音と、浮浪者のいびきと、洗濯機の回る音に眠気を促され、しかしここで眠れば目が覚めたときに洗濯物はなくなっているだろうからしっかと目を開けた。

 ぐるぐると回って今にもバターになりそうな洗濯物を眺めながら、今日彼女はどんな夢を見たのだろうと思いをはせる。

 ナエは、以前は毎日のように夢の話をしていた。

 それなのに最近は全く口にしなくなった。

 日常の取るに足らない出来事と化したのだろう。

 慣れたということだ。

 ついに眠気に耐えかねヨウは外の自販機でコーヒーを買う。外は相変わらず土砂降りで呼吸をするのも苦しいほどだ。

 やっぱり後で迎えに行こう、と彼は思った。


 

 ハシュ区二丁目の表通り。

 その店は、いくつかの商店の並びの一番端にさりげなく建っている。ナエは匂い屋の木造の店内を滴る雫でぬらして店主に怒られていた。

「床が腐るだろ! ばか!」

「もう腐ってるよ」

「そういうこっちゃねえよ。あっバカびしょぬれの手でベタベタ触んじゃねえ質が落ちるだろってあっあっ触んな、あー! お前っ。それっ。買い取りだぞ買い取り!」

「なあに、この程度で質が落ちちゃうのこの店の匂いは」

「紙袋入りのは水が染みんだろ。雨が染みたら匂いはパーだ。ここんとこの雨はねっとりしてやがんだからよ。ほれ、弁償」

 キセルを奥歯で噛んで支えながら喋るから店主の喋りはいつも妙だ。

 だぼだぼの服を着てその中に小銭や商品を仕込んで出し入れしている。

 店の奥にどっかり座ったまま、だから少女が店中濡れた足跡をつけても声でしか制止できず、それは成功しない。

「わかった。買うよ。それから、なんか良いのない?」

「どんな?」

「気持ちよくなるやつ。あと、すこし懐かしいやつ。なるべく古いのがいい」

「相変わらず曖昧な注文だなぁ。ちょっと待て」

 恰幅の良い店主がよたよたと腕を動かして布の中を探る。

 ぎゅうぎゅうに中身の詰められたソーセージみたいな指が小さな紙袋をひだの間からつまみ出した。

「ああ、こんなのはどうだ?」

「何?」

「えーと、何。〈Wanna Be Mother〉――将来の夢はママになることだと。懐かしいじゃねえか」

「うわあ微妙、だけど古いからそれにする」

「毎度。で、お前、傘は?」

「いらない」

「香が駄目になるぞ。そのへんの持ってけ」

「いらないよ。大丈夫。あ、ほら……」

 三歩歩いたら行き止まりになる店の奥で入り口を振り返る。

 来客が引き戸をがらりと開けると途端に外の蒸した空気と雨の音が入ってくる。

 ついでに客の顔が覗いた。ナエを迎えに来たヨウだった。

「居た。ナエ」

「ね?」

 少女は店主に顔を向けた。

 皮がだぶついてブルドッグみたいな顔をした店主が「にっ」と頬をゆるめて「かなわねえな」とこぼす。お代はきっちり徴収して、防水袋に包んで香を差し出した。

「何買ったの?」

「小さな女の子たちの夢」

「はあ」

 彼は質問したもののよく分からなくて曖昧に返事をする。

 もうすでに全身ずぶ濡れの少女を傘の前に入れ、ヨウは背中を雨にさらして二人は家路を戻っていった。



 ハシュ区四丁目五番十八号アパート・ビリジアン。

 建物と建物の隙間を埋めるようにして立つ二階建ての細長いアパート。

 そこがナエの住居だった。現在は一○一号室のほかに住人はいない。

 何もかもが少しずつ小さくされた部屋から外に出るのは開放的だが、ナエはこの小さい色んなものの詰まった箱の中が気に入っていた。

 ナエがシャワーを浴びている間ヨウは洗い立ての服をクローゼットに並べていた。

 開けっ放しのクローゼットはほぼ空っぽだ。

 家主は物を仕舞うのが下手のようで戸棚は空っぽなくせ食器はそこらじゅうにひっくり返っているし、せっかく狭いスペースを工夫して作られた収納には何も仕舞われていない。床には物が散乱していて、足の踏み場もないくらいだ。割れた食器がそのときのまま放置されているのは流石に危なっかしく、彼は慎重に拾い集めた。

 気付けば水音が止んでいる。

 背後でドアの開く音と、途端に湯気が逃げてきて室温が増した。

 まだ水浸しの少女が部屋を裸足で歩く。

 肩からバスタオル一枚かけただけの姿だ。

 ここにはナエ一人しか居ないような気楽さでクローゼットに向かった。

 ろくに水気を拭かない手で衣類をぬらすのも構わず服を漁る。

 適当な一枚を探り当てて頭から被った。髪はまだ濡れそぼっている。

 男の存在など意にも留めずに少女は部屋を出た。

 その際〈Wanna Be Mother〉を持っていくのを忘れずに。

 部屋を出て廊下の端に階段がある。螺旋状の階段を上っていくと一階とは比べ物にならないほど整頓された空間が現れる。

 打ちっぱなしのコンクリートに対して白い壁紙が張られ、窓にはカーテンがかかり外の風景を白いレースが遠ざけていた。ダイニングとして用意された部屋はシステムキッチンと食卓のスペースだけで一杯だ。

 階段の正面に扉があって、少女の目的はその向こうにあった。

 ナエはそっと扉を押し開けて寝室に入る。

 胸いっぱいに広がる期待と喜びと、少しの寂しさと、その全てに先立って表れるのは不安や心配だった。

 寝室にはベッドの代わりに大きな白い繭が存在した。

 曲線の見事な丸い器だ。

 柔らかさすら感じられる外観をもつそれは寝台だった。外気から隔絶され、本当の繭のように眠る者を守り続ける装置。

 そっと寝台の繭に近づいて、霞のような色をした表面に静かに触れた。そこを始点にして半径十センチほどの円形に霧が晴れたように窓が作られた。こうして中の様子が分かる。

 窓の向こうには胎児のように体を丸めて少女が眠っていた。

 裸身に長い髪の毛を纏っている。

 金の髪がクッションに手を伸ばすように広がっていた。

 繭の表面はほのかに暖かい。

 もう片方の手をついて二つ目の窓を作る。

 眠る少女の横顔から、白い腹までが見えた。

 臍の穴から数本の管が伸びて外の生命維持装置につながれている。

 酸素や栄養や老廃物の調節、生命を維持する全ての要素を管理する緻密な装置が大人しい駆動音で常に空気を震わせている。

 ナエは大人一人分を包み込むほど大きな繭の前に跪いた。

 眠り続ける少女を眺めた。

 傷一つない新雪のような肌。直接触れる代わりにナエは繭の表面を丁寧に撫でる。

 頬の上を、手の上を、ほんの僅かな距離に阻まれながら愛撫した。

 ナエの指の行く先々で新しい窓が開き、やがて閉じていく。

 血の気の無い顔、注意して眺めているとやっと分かる上下する胸、閉ざされた瞼、薄い唇。表情には苦悶も安らかさも何も無い。

 まだ十代半ばのような未完成な女性の体。

 少女は繭の表面に頭を横たえ、縋るように手を添えた。

 大きく開いた窓の下で何にも煩わされずに眠っている、比べても二、三の歳の差しかないような風貌の少女へ囁いた。

「ママ……」

 しばらく体を繭に重ねてじっとしていた。

 耳を当てていると心音が聞こえた気がして、でも多分それはナエ自身の心音だ。

 外のことなどそ知らぬような顔をして母は眠っていた。

 少女のような母。

 眠り続ける母。

 もう何年も目覚めずに生きている。

 繭から体を離して立ち上がる。

 繭と生命維持装置のほかに唯一調度品らしいものは化粧台だけで、ナエはその上に香を用意した。円錐型のピンク色をした香の先端にマッチで火をつける。

 やや待って広がる香りは甘いミルクの匂いに似ていた。

 それは多分母親になることを夢見た女の子の匂いだった。

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