僕は人間に就職します

美黒

第1話 就職先

「心がなければ、人間にはなれぬ」

でっぷりと太ったお腹をさすり、長くカールした髭を得意げに揺らした教授はそんなことを言った。

温度を感じないこの世界において、汗を染み込ませ、ぱっつんぱっつんにシャツを張り、スーツをこれでもかというほどに着膨れさせた彼は、コブタ先生とあだ名で呼ばれ、僕も本名は知らない。

そんなコブタ先生は、この世界においてかなり偉い地位に居るらしい。博識で面白い考えをしていると、ずいぶん前にこの教習所の職員に採用された。

どうやら生前も教授をしていたらしく、教え方はどの職員よりも上手い。

僕もこの教習所ではコブタ先生の授業が一番好きだ。面白いし、考える時間をくれるし、何より親身になってくれる。まるで自分の事のように語る話が大好きだ。

そして僕はというと、コブタ先生が好きだから、という理由だけではなくまた別の理由から今の授業を真剣に聴き入っていた。

「就職先の中で一番人気があるだろう?そして一番枠が大きく、一番難しいことも皆知っているだろう。それは心の資格を取るのが難しいにほかならない」

ふむふむ、世間一般で聞くことと一緒だ。やはり人間に就職するには心の試験に合格しなければならないらしい。絶対条件、というやつだろう。

そしてそれはきっと、僕の想像力では及ばないほどの努力が必要で、最難関と言えるんじゃないだろうか。

以前行われた就職希望調査にいきいきと“人間”と書いた僕からしたら聞き逃せない内容。心を手に入れることが、頭を抱えてしまうほどの難しいものだと承知済みだったけど、いざ聞くと不安がやって来る。果たしてこんなちっぽけな僕にその試験は受けられるのだろうか。

むう、と唸りつつも、コブタ先生の話は聞き逃さない。これを聞き逃したらきっと僕の将来に何か亀裂が入ってしまいそうな気がするのだ。

「そもそも、地上において生きとし生けるものは皆少なからず心を持っている。それは当然だ。お前たち魂の状態でも、最低限の心はあるだろう」

だからこうして考えて、行動して、就職希望調査を提出することが出来る。

つまり先生はそういうことが言いたいのだろう。

生を受けたものの初期設定。

それは、魂と最低限の心。

これは他の先生に教わった。僕たちのような、ニュータイプの魂はそれがある、と。

だからこうして、僕は人間に就職することを目指して、こんなに授業を必死に聞いていられる。

「だけどね、人間の心はどうしてか他の生物と比べて、遥かに大きく、変化し、萎み、成長する。まるでもう一つの魂のようにね。だから、人間に就職するという魂はこころしてかかりなさい。とてつもなく難しく、訳が分からないものなのだ」

なるほど、訳が分からない。

いやいや、待ってください。それじゃ、人間に必要な心を手に入れられないじゃないですか。

僕がそう言おうとしたとき、コブタ先生は先に口を開いていた。

ふよふよと漂う僕たちのなかで、彼だけは存在がくっきりとしていて妙に目立つ。それはきっと、彼のその見た目だけが原因ではないだろう。

「心とは、私にも分からないものなのだよ。気づいたら持っていて、気づいたらなくなっている。人間が様々なものを解明していくこの世の中だけどね、心だけは完全な解明はできないだろうと思っているのだ」

なんということだ。本当に訳が分からない。そして難しい。

まさか経験値キャパオーバーとまで言われているコブタ先生にも心が分からないなんて。

それじゃ、僕はそのどうしたらいいか分からないものを目指さなきゃいけないのか。

ううむ、これは先行きが怪しくなってきたぞ。

「ところで、目の前の君は希望調査でなんと書いたね」

コブタ先生の目の前で退屈そうにふよふよしていた彼はしばし驚いた様子で黙り込み、やがて小さな声で言う。

「ミジンコ」

「ほう、ミジンコかね」

コブタ先生はニッコリと笑い、そして嬉しそうにぽよん、と腹を揺らした。ミジンコって、そんなにいいものなんだろうか。僕はコブタ先生がどうして嬉しそうなのか、どうしてミジンコになりたい彼が誇らし気なのか分からなかった。

「ミジンコとはなかなか目の付け所がいいね。人の目に見つかりにくいし、何よりも水田などの場所に住むから気楽な生活が出来そうだ」

そういえば、地上では人間が授業で顕微鏡なるものを使ってミジンコの観察をするという話を聞いたことがある。

ミジンコとは、僕の目指す人間が興味を示すほど、面白い動物なのだろうか。

ミジンコになりたい彼は、嬉しそうに頷くと、また押し黙る。寡黙な子だ。

先生はその後も生徒一人ひとりに希望調査の事を聞き回った。心の話はいずこへ、先生は今や僕たちの進路を聞くのに必死だった。

「蛙。なるほどね、いいところをつく」

「はい。両生類の代表ですし、その種類も数多くいます。どんな蛙でも構いません。あのつぶらな瞳があって、面白い鳴き声が出来るのなら僕は蛙に就職したいです」

「君はなかなか面白い就職理由を持つね。素晴らしい」

蛙になりたい友人が、意気揚々と蛙について語る。僕たちが一緒にこの世界に降りてから彼はそのことばかり調べて、地上鏡を見ている時もそうだった。彼が蛙になりたいのは一目瞭然、僕もちょっと魅力を感じてしまっていたくらいだ。

就職したいところについて語れることはよいこと。

以前コブタ先生はそう言っていたのを思い出し、だからこそ蛙になりたい友人を嬉しそうに見つめ、話を熱心に聞いているのだろう。

彼の熱弁に、周りも後悔の声をあげ、今からでも希望を変えようかというものまで居る。

これでは皆蛙に就職してしまう!

僕は危機感を感じて、身体をふよふよふよ、と主張した。

「先生、先生!僕は人間に就職したいです!」

僕がそう言うと、周りがざわつき始める。今さっき心を手に入れることがどれだけ難しいか説明されたばかりだ。近年心の試験難しさに人間に就職することが減ったと言われ、そしてまだまだ数は多いものの、この教室では僕しか希望しなかったのは本当らしい。

だからこそ僕は胸を張って、心の試験の難しさなんてどこ吹く風へ、語った。

「人間は他の生物に比べて楽しみが多く、僕はそれを心ゆくまで満喫したいです。知能を生かして先生のように教授を勤めたいし、身体を動かしてスポーツ選手とやらにもなってみたい。何よりも目まぐるしいほどの日常と、それに彩りを与える心を使って、人間というものを楽しみたいです」

人間は本当に他の生物と比べられないくらいに色々と凄い。

この地球という星でほとんど支配を決めているといっても過言ではないし、その地球を宇宙という外から見ることもできる。

ゲームやパソコンといった機械を作り、手に職をつけて素晴らしい伝統を練りだし、時に恋をして、時に同じ死に涙する。

生活、行動、景色、心。

その何もかもが他よりも秀でている。

僕には、それがとても凄いことに思える。

頑張ったら、僕にもあの存在になれるのだ。

なんて面白い。

なんて素晴らしい。

僕は大好きなコブタ先生に向かって、人間の素晴らしさを熱弁すると、周りが蛙派と人間派に分かれ始めた。意外とみんなはミーハーだ。

「こらこら、就職先を変えようなんて、考えてはいけないよ。これと決めたら最後まで貫き通しなさい」

一時の感情に身を任せるな、と人間だったコブタ先生は、人間らしいことを言う。

次に先生は僕の頭をひと撫でして頑張りなさい、と勇気づけてくれる。

その見た目からは想像もつかないほどに包容力と安心感を与えてくれる感触に、僕はどうしようもなく震える。

きっと、僕にある最低限の心が反応した証。

「はい、頑張ります」

僕は頷いて、心の試験だとか、訳も分からない心の手に入れ方だとか、そんな難しいことは放置して、ただただ人間に就職することを再び決意したのだった。

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