香港の銀糸湯麺
それは香港返還直前の一九九六年の十一月。
中国に返還されて香港がグッチャグチャになってしまう前に一度訪れておこうということになった。
一緒に行ったのは大学の時の友達三人。キャンプ仲間でもあったので気心は知れている。
羽田を出発して香港に向かう。
当時はまだ香港の空港は啓徳空港だったから、着陸はめちゃくちゃスリリングだった。ジェット機でビルの谷間を縫うようにして飛ぶ。窓からは隣のビルで働いている人の表情まで見える。恐ろしい空港だ。
香港の空港は空気感が独特だった。
降り立った瞬間に中華料理の匂いがする。それもかすかにではなく、濃厚にだ。
着いたのは夜の九時すぎだったので夕食の時間は過ぎているはずなのだが、五香粉やニンニクの香りがそこらじゅうに漂っている。
気温も湿度も高いので、なおさら濃厚に感じるのかもしれない。
そんな中華料理屋のようなところで入国の行列をしていたらお腹が空かないわけがない。機内でも何かを食べた(忘れてしまった)はずなのだが、お腹が鳴る。
「腹が減ったな」
僕は行列の中でSに話しかけた。
「ああ、この香りは胃にくるな」
「出たら何か食えるかな?」
「どうだろう?」
Sは首を傾げた。
「様子が判らないからなあ。店が開いているかどうかすらわからん」
「そう、だな」
「今日のところは大人しくしておこう。夜にうろついていきなり強盗にでもあったらシャレにならん」
「まあ、近場に何かあったらつまんでみようや。屋台が出てるかも知れん」
「あればね」
長い行列を経てようやく入国した時には十時をとっくに回っていた。
土地勘がないのでその日は何かを食べるのを諦め、まっすぐにホテルに向かう。
タクシーで向かった先は
ホテルのフロントで部屋割りをしてそれぞれの部屋に引き上げる。
僕は早速窓を開け放つと眼下に広がる街を眺めてみた。
さすがに遅い時間だから歩いている人は少ない。
一軒屋台が出ていたが、どうやら売っているものは香港風のおでんのようだった。
ぼんやり眺めていると、おでん屋は注文された品物をザバッと無造作にピンク色のビニール袋(あれだ、コンビニとかのお弁当袋と同じ感じの袋だ)にお玉で入れている。
さすがにあれを食べる勇気はない。
そうかと思えば、派手な柄のパジャマ姿で歩いている勇気ある若い女性の姿も見える。
よく見れば、彼女はぶら下げたビニール袋から取り出した鳥の腿を歩きながらもしゃもしゃ食べていた。
すげーところだ。香港。
これ以上窓を開けていると何かを買いに出かけてしまいそうだったので、僕は諦めて窓とカーテンを閉めた。
翌朝はホテルの隣のレストランで朝の点心を食べ、月並みに
蟹の味はまあ、普通。本当は酔っ払い蟹が食べたかったのだが、それはなかったので仕方なく蒸した蟹にした。点心はもう少し地元感があったけど、やっぱり普通だった。ひょっとしたら観光客向けの店に入ってしまったのかも知れない。
安心感はあるものの、これでは日本で中華料理を食べているのと変わらない。
「なんかこう、香港感が足りないんだよな」
夕方、夕涼みを兼ねてビクトリアハーバーで明滅するネオンサインを見ながら僕はSに話しかけた。
「そうだな。これじゃあ東京と変わらん」
「じゃあ二人でもっとディープなところに行ってくればいいじゃん。わたしたちはセントラルでお買い物しているから」
女子のAさんとUさんが声を揃える。
どうやら二人は汚いところには興味がないらしい。
そういうところにこそ、味があるのに。
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
そういう訳で、翌日は二手に分かれて行動した。
僕たちは
それまでは英国の影響か英語表記の標識が多かったのだが、これが急激に減ってきたのだ。
何やら中国度が上がっている気がする。
俄然、こちらのテンションも上がる。
「おい、あれ、凄くないか?」
とS。
見れば歩道が血で染まっている。
血を流しているのは牛だ。
牛を解体している。しかも街のど真ん中、歩道でだ。
ホースで水をジャバジャバ流しながら牛の頭を割っている。壮絶だ。
よく見れば、隣は路上で経営していると思しき床屋だった。
床屋の椅子だけがドンと歩道に置かれている。
解体される牛を見ながら髪を切られる気分ってのはどんなもんだろう。
流れてくる牛の血で何かネトネトする歩道を避けながら、僕らはさらに深部を目指した。
やがて、ついに英語は全くなくなってしまった。
全部漢字。広東語だ。これでは何が何やらわからない。
当時はグーグルマップはおろかインターネットもろくすっぽ普及していなかったし、スマホもなかったので紙の地図だけが頼りだ。
標識の漢字と地図の漢字を照らし合わせながら必死で現在地を特定する。
「たぶん、ここだな」
二人で地図を指で辿って確認する。
「待て、あそこで角曲がらなかったか?」
「だとすると、こっち?」
「わからん」
もういいや。
現在地を特定することは諦め、僕らは思うがままに歩くことにした。
最悪、帰りはタクシーがある。YMCAホテルくらいは通じるだろう。
二人とも英語は堪能だったが、広東語はさっぱりだ。タクシーで英語が通じなかったら……それはもう諦めるしかない。
だが、先のことを気にしなくなったら気は楽になった。
そろそろお昼だ。
「何か食べよう」
「何を食べる?」
Sと二人で周囲を見回す。食べ物屋が軒を連ねているが、何が名物なのか、何を出しているのかはさっぱり判らない。
えいやっで決めた、何だか赤っぽい半分屋台みたいなお店に僕たちは飛び込んだ。
「Xo(`ω´ )oX」
ウェイトレスのおばさんが何かを言っているが、何を言われているのかはさっぱり判らない。それになんで怒った風なんだろう?
僕らは周囲を見回した。
日本の中華料理屋と同じように、黄色い紙に書かれたメニューが壁にたくさん貼られている。
だが、読めない。かろうじて最後の方に「麺」か「飯」がついたものは麺類と丼なんだろうなあくらいはわかるものの、その正体は全く判らない。
と、ようやく僕は見知った漢字を見つけた。
「銀糸」。これはモヤシのことだ。
じゃあ「銀糸湯麺」はたぶんモヤシのあんかけそば、「銀糸炒麺」はモヤシあんかけ焼きそばだ。
二人で身振り手振りで「銀糸湯麺」と「銀糸炒麺」を注文する。
おばさんは頷くと奥へと引っ込んでいった。
中華料理は調理がとにかく早い。
二人の麺類はすぐに出てきた。
出てきたものは少し右斜め上を行って豚肉の細切りやタケノコの薄切りも入っていたが、概ね予想通り。
二人でズルズルと麺をすする。僕は湯麺、Sは焼きそば。
「こりゃ、うまいなあ」
思わずため息が漏れた。
何の出汁なんだろう。とても深みのある味だ。でも味は薄めで身体に優しい。
少しかかった白胡椒がまたうまい。
トロミのついたスープは身体に染み入るようだ。
盛りが多かったので他のものは食べられなかったが、僕たちはディープな香港料理に十分満足した。
「これは旨かったな。また来よう」
二人で話しながら店を出る。
「でもさ、また来ようはいいけど、場所わかるかな?」
とS。
そうだった。
僕たちは道に迷っているのだった。
結局その日は最後まで自分たちがどこにいるか判らず、とりあえず捕まえたタクシーでホテルまで帰った。
そしてもちろん、あの美味しかったお店には二度と行けなかった。
今でも香港という文字をみるとあの銀糸湯麺を思い出す。
今では東京でも銀糸湯麺が食べられる店があるので思い出すと食べるのだが、やっぱり何かが違う。
きっと、香港の当時の空気感と一緒じゃないと美味しくないのだろう。
今香港に行っても同じ味には出会えなそうだ。
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