コーシャーとイスラエル人

 前回、イスラエル人は食に関して極めて保守的だと書いたが、これは半分正しくて半分間違っている。

 イスラエルは一九四八年に建国された、ユダヤ人の国だ。

 当時ここにはパレスティナの人たちがたくさん住んでいたのだが、建国するために世界中からユダヤ人が大挙して押し寄せた。そのために色々といざこざが起きて今に至るのが中東世界の状況なのだが(実際、パレスティナの人達からしてみれば、いまさら二千年前の事を言われても困るだろう)、それについては特に触れない。

 イスラエルは文化的には極めてコスモポリタンな国だ。すでに他の国に生活基盤のある人たちが移民として集まったため、各国の文化が入り乱れている。リアッドによればイスラエルに住んでいる人たちが移民前に住んでいた国の数は三十カ国を超えるという。

 ただし共通点が一つ。ユダヤ人の定義が『ユダヤ教を信仰しているか、母親がユダヤ人であること』であるため、イスラエルに住む人の多くはユダヤ教徒なのだ。

 従って、ユダヤ教の戒律の影響は無視できない。特に食べ物絡みの戒律(コーシャー)は複雑なので、宗教的に雑食性の日本人からすると当惑することが多い。

 ついでに言うとイスラエルの週のお休みは金曜日と土曜日だ。日曜日は普通に出勤する。さらに一年は九月から始まる。近代社会においてグレゴリオ暦にここまで従わない国も珍しい。

 リアッドが日本に出張してきた際、僕たちは彼女にコーシャーについて聞いてみた。

 彼女は超大型の偏食女王だ。

 基本的な夕食はマクドナルド⇒ピザハット⇒ケンタッキーフライドチキンのローテーションだ。マクドナルドはバーガーキングに置き換え可能ではあるのだが、ともあれこれを延々と繰り返す。

 加熱されていない物はそれがたとえ罪のない野菜だとしても決して食べない。サラダはもちろん、刺身なんてもってのほかだ。かろうじて他に食べられるものは炭化する直前まで焼いた焼肉とベリーウェルダンのステーキ、それに乾いたスナック菓子くらい。

 もっとも、これはリアッドに限らない。イスラエル人にはどうも偏食の人が多い。エランというエンジニアの傾向は概ねリアッドと同じ、アミールというアーキテクトは鳩のような豆ばっかりの食事を好む。なんでも食べる敬虔さにかける人もいるがそうした人は少数派だ。

 僕たちは彼女たちの激しい偏食をもっぱらコーシャーの影響だと思っていた。

「コーシャーって、何を食べてはいけないの?」

 オーダーしたランチを待ちながら、僕は彼女に訊ねた。

「んー」

 リアッドは考え込んだ。

「基本的には、かわいそうなものはダメなの」

 かわいそう? よく判らん。

 その日のランチは日本の事務所の連中と一緒にリアッドと食べることになっていた。

 海外からのビジターは厚遇されなければならない。

 それが会社のポリシーだ。

 従って、ビジターと一緒に食べたランチは会社の経費につけることができる。これはチャンスだ。

 だがリアッドの場合、高いランチを食べる口実としてはかなり不適切だった。

 丸の内のランチはバラエティ豊かだが、リアッドにとっては宝の持ち腐れだ。

 僕たちはもう少し素敵なランチを食べたかったのだが、おそらく手の込んだ食事は彼女の口に合わない。というか食べられない。

 マクドナルドは最後の砦だ。来日二日目で切るカードではない。まだあと十日もある。

「どういう事?」

 リアッドと仲の良いテストマネージャーが彼女に尋ねる。

「例えば、親子でお料理になっちゃだめなの。鶏と卵を一緒に調理するとか、牛肉とクリームを合わせるとか」

「じゃあ親子丼なんてもってのほかじゃん。宗教犯罪だ」

「クリームも駄目なのか。ビーフと乳製品のコンビネーションって全滅なの?」

「そう。かわいそうだから」

 リアッドが重々しく頷く。

「じゃあちらし寿司もダメだね。イクラとサーモンが入ってたら一発でアウトだ」

 みんなで目を丸くする。

「でも牛乳って牛の子供じゃないじゃん」

 隣に座っていたプリセールスエンジニアが反駁する。

「あれは、仔牛を育てるための牛の母乳だ」

「でも、仔牛の食べ物を人間が食べちゃったらかわいそうでしょ?」

 リアッドはしれっと言った。

「チーズバーガーも駄目?」

「駄目。チーズは牛乳からできてるから」

「バターも?」

「牛と一緒に使うのは駄目。鶏なら大丈夫」

「他には?」

「鱗がない魚もだめ」

「じゃあ、鰻もダメか。蒲焼美味しいのに。俺のひつまぶしが……」

 プリセールスエンジニアが呻いた。こいつ、リアッドにかこつけて会社の金で鰻を食べようとしていたのか。

「海老や貝もだめ。鱗がないから」

「要するに変わったものは全部駄目なのね」

「虫もダメ」

「あ、それは俺もだめ。バッタは無理」

 アホで名を売るFAEが余計なことを言う。

「まあ、虫はいいとして、それじゃあ何も食べられないね」

 僕はリアッドに言った。

「そうでもないわよ。ピザは大好き。チーズ抜きのマルゲリータとか」

「それってトマトソースだけじゃん」

「パスタも食べるわよ。ペペロンチーノとか」

「そうか、じゃあ明日は有楽町のスパゲッティ屋さんにしよう」

 僕たちはリアッドの偏食にほとほと困り果てていた。今日のお店を決める際も三十分以上かかっている。何も食べられないからお店を選ぶのが大変なのだ。

 明日の予定が決まるのは大変に喜ばしい。

 やがてランチが運ばれてきた。

 熱く熱せられたステーキ皿の上でプレーンなハンバーグが音をじゅーじゅーと音を立てている。申し合わせた訳ではなかったが、全員がハンバーグかハンバーグのコンボだった。ステーキを除けば、これが店では一番高い。

「お肉はいいの?」

 リアッドの前に運ばれるハンバーグを見ながら、テストマネージャーはリアッドに訊ねた。

「お肉は特別な方法で清めないといけないの。血を食べてはいけないから、お塩で血抜きをするの。私は血抜きは気にしないけど。ちゃんと焼いてさえあれば大丈夫」

 妙にここだけユルい。

 リアッドのハンバーグはスペシャルオーダーだ。面倒くさそうにするウェイターを説得して、ソース抜きのハンバーグを塩コショウで焼いてくれと特別にお願いしていた。

 ところがリアッドはそんな苦労の結晶のハンバーグを黙って見つめたままだ。

 リアッドの目の前に置かれた楕円形の黒い鉄の皿から白い湯気が立ち上っている。みるからに美味しそうだ。ソース抜きだけど。

 やがて、リアッドは弱々しく首を振った。

「駄目、これは食べられない。汚染されてる」

「汚染されてる? コーシャー的に?」

 穏やかではない言葉に、隣に座ったテストマネージャーがリアッドに尋ねる。

「ほら、ここ」

 リアッドは気味悪そうにハンバーグの付け合せをナイフで指し示した。

 付け合せは人参のグラッセと大ぶりのフライドポテトだ。それになぜかクレソンがひと枝。

「どっちもちゃんと火が通ってるよ」

 試しに人参を食べながら、テストマネージャーがリアッドに言う。

「違うの。人参がハンバーグに触っちゃってる。これ、汚染されちゃってる」

「まさか、人参と牛肉の組み合わせもダメなのか? 馬ならともかく、牛は人参食べないぞ」

「違うの。私、人参嫌いなの」

「はあっ?」

 全員が一斉にリアッドの顔を見た。

「人参、嫌いなの」

 大切なことだったのか、重々しくリアッドはもう一度繰り返した。

「人参が触っちゃったハンバーグは穢れてるわ」

「そんなアホな」

「だって、人参が伝染っちゃうじゃない」

「伝染るって、人参は菌じゃないし、ハンバーグに何が染み込むっていうのさ」

「人参」

「訳が判らん」

 その後聞いたところでは、彼女の偏食はコーシャーによるところよりは家庭環境によるところが多いのだという事がわかった。嫌いなものを徹底的に食べないでいるうちに、偏食になってしまったのだという。

 いままで散々苦労したリアッドの偏食が、まさかこんなくだらない理由だったとは。

「でもいいの。私はポテトとご飯にする。みんなは楽しんで」

 リアッドは美人だ。イタリアを歩いていれば、街行く野郎どもの十人中五、六人は確実に声をかけるだろう。

 大人になってからもその美貌にモノを言わせて嫌いなものを食べないでいるうちに、こんなことになってしまったらしい。

「イスラエルではね、子供をとっても大切にするの。だから子供が嫌がるものは無理に食べさせないの。ママは私が食べないものは絶対に作らないの」

 フライドポテトを齧り、塩と胡椒を振った白米を食べながらリアッドは言った。

「じゃあひょっとして、エランが肉しか食べないのも、そういうこと?」

 僕は恐る恐る訊ねた。

 リアッドがそうなのだとしたら、他にもまだたくさんそんな奴がいる気がする。

「たぶん、そう」

「オフィールがトマト食べないのも、それ?」

「うーん。オフィールは判らないけど、私はトマトは食べるわよ」

「……」

 コーシャー、関係ないじゃん。

「まだ国が小さいから、子供は大切なのよ。人口増やさないといけないから。四人以上子供がいると、国から補助が受けられるのよ」

 どことなく冷たい空気を感じ取ったのか、リアッドが言葉を重ねる。

 子供を大切にするのと、甘やかすのは少々違う。

 白けた気分のまま、僕たちはその日の昼食を終わらせた。

 翌日から僕たちは、リアッドの事をまったく勘案せずに行きたい店に行くようになった。

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