6 小学校(夜)

 夜が来た。

 俊太郎は小学校の昇降口前の階段に腰かけ、じっと夜空を見つめていた。

 友部は近所を見回りに行っている。もしどちらかが妖魔と遭遇した場合、トランシーバーで知らせることになっているが、実際、そうする前に相手が勝手に駆けつけてくるので、今まで一度も使ったことはなかった。

 妖魔がまったく怖くないと言えば嘘になる。しかし、俊太郎は必要以上に妖魔を恐れたことはない。今の俊太郎には、身を守る術も妖魔を倒す技もあるのだ。

 それよりも、今も俊太郎の心を食むのは、あの記憶だ。驚愕と恐怖と自責に満ちた、苦い苦い思い出。それは、その前にあったはずの甘い記憶を、粉々に打ち砕いた。

 ――甘い……いかんいかんいかん。

 つい思い出しかけてしまい、俊太郎は赤くなって口を押さえ、必死で首を横に振った。

 仮にも今は仕事中である。こんなことを意識にのぼらせている暇などないはずだ。昼間の逆襲を狙って、今夜、再び現れるはずのあの妖魔にそなえ、神経を最大限に研ぎすませていなければならないのに。


「俊太?」


 だしぬけだった。

 とっさに俊太郎は鉄串を両手の指に挟み、その声の主に身がまえた。


「何驚いてるんだよ」


 わずかな光の下で、友部が目を見張っていた。


「あ……いや……考えごとしてて、つい……」


 あわてて鉄串をしまい、そう言いつくろってはみたものの、やはり今はまともに友部の顔は見られなかった。


「それにしたって、こんなに近づくまで俺に気づかないなんて……おまえ、どっか調子悪いんじゃないのか?」


 だが、友部はいよいよ身を屈めて、俊太郎の顔を覗きこんでくる。


「そ、そんなことな……友部?」


 無理に顔を上げた俊太郎は、そこで初めて、友部の後ろに誰か細い人影が立っていることに気がついた。


「こ……こんばんは」


 その人影は聞き覚えのある声で、友部の後ろに隠れるようにして、俊太郎に小さく挨拶した。


「途中で会ったんだ」


 呆れたように、友部は肩をすくませた。


「危ないから帰れって一応言ったんだけど。俺らがあの妖魔をしとめるのを、どうしても見届けたいんだってさ」

「馬鹿野郎!」


 一喝ともに俊太郎は立ち上がった。


「なんで送ってやらないんだよ! ――君もだ! 狩りになったら、君を守ってやれる自信はないよ?」

「す、すみません!」


 今は白いパーカーと茶色いキュロット姿の京子は、びくっとして体をちぢこませた。


「でも……あの妖魔は若い人は襲わないって聞いてたから……私、どうしても父を殺したっていう妖魔が見たくて……だから……」

「悪いことは言わない。帰って」


 真摯に俊太郎は言った。


「やっぱり危ないし、第一、妖魔なんて見て気持ちのいいもんじゃない。明日の朝にはみんな終わってるよ。だから……ね?」


 一生見ずに済むものならば――

 俊太郎の脳裏に、またあの血塗られた記憶が去来した。


「別に、いいんじゃないの?」


 しかし、友部はあっけなくそう言った。


「本人がそんなに見たいって言うんならさ。万が一、命を落とすことがあっても、それはこの子の自己責任。――了解?」


 京子は思いつめた顔をして、深くうなずいた。


「そういうわけにいくか! 俺は絶対この子を帰らせるぞ!」

「……だってよ」


 友部は醒めた調子で、自分の後ろの京子を見やる。京子は黙ったまま、友部の腰に手を添えて、Tシャツを軽く引っ張った。

 それだけで、俊太郎はどうしようもないほど逆上し――例によって、その理由はあえて考察しない――友部を突き飛ばすようにして、グラウンドに向かってずんずん歩き出した。


「お、おい、俊太! どこ行くんだ?」


 これにはあわてたように、友部が俊太郎を振り返った。


「交替だろ。今度は俺が外に行く」


 半ば怒鳴るようにして、だが、友部のほうは見ずに俊太郎は答えた。


「その子はおまえが責任もって守ってやれよ! 俺はいっさい関知しないからな!」

「わかったよ」


 投げやりなその返事に、さらに俊太郎はかっとなって、足早に校門を出た。


   *


「すみません……ほんとに私のわがままで……」


 憤然として俊太郎が去っていった後、京子は恐縮して友部に頭を下げた。


「ほんとにわがままで」


 冷ややかに友部は言い、京子から離れて、俊太郎が座っていた階段に腰を下ろした。


「座ったら?」


 まだもじもじしている京子を、友部は無表情に見上げた。


「は、はい……」


 京子は友部から少し離れたところに、ためらいがちに座った。


「あ、あの……ほんとにすみません」


 なおも京子は言った。


「迷惑だろうとは思ったんです。でも、友部さんたちなら許してくれるような気がして……でも、北山さんがあんなに怒るなんて、ちょっと意外でした。北山さんのほうが許してくれると思ったのに……」

「見学を許す妖魔ハンターなんて、日本どころか、世界中のどこにもいやしないよ、お嬢さん」


 いかにも呆れ果てたと言わんばかりに、友部はわざとらしく溜め息をついてみせた。


「それから、あいつがあんなにしつこくあんたに帰れって言ったのは、ほんとは自分の腕に自信がないからじゃない。あんたに自分と同じ思いはさせたくないからだよ」

「……どういうことですか?」

「あいつ、自分の目の前で、妖魔に親父を殺されてるんだ」


 壮絶すぎて、京子は言葉を失った。

 では、俊太郎は自分の父を殺した妖魔を見たくはなかったのか。


「おふくろも一緒だ。あいつが妖魔ハンターなんて柄にもない商売やってるのは、親を殺して逃げた妖魔に復讐するためだ。稼いだ金の大半は、あいつ、孤児院に寄付してるんだぜ」

「……何だか、友部さんって……」


 京子は上目使いで友部を見つめた。


「北山さんのこと、話してるとき、機嫌がいいですね」

「あいつも君ぐらい勘がよかったらいいのにねー」


 友部はさらに機嫌がよくなった。本気で言っているのか、冗談で言っているのかはわからない。だが、そこはあえて突っこまないことにして、京子は話を変えた。


「じゃあ、どうして友部さんは妖魔ハンターになったんですか?」

「俺? もちろん金のためだよ」


 友部はきっぱり言いきった。


「でも……わざわざそんな危険なことしなくても……友部さんなら、他にいろいろ、楽にいっぱいお金が稼げる仕事があると思うんですけど……」

「ふーん、たとえば?」

「たとえばって……そう、モデルさんなんかいいんじゃないですか?」

「モデルーっ? 俺がーっ?」


 大仰に友部は声を張り上げた。


「はい。きっとぴったりだと思います」

「でも、モデルったって、ピンからキリまであるからな。妖魔ハンターより絶対儲かるって保証なきゃ、俺は転職する気ないな」


 どうやら、友部は真面目にそう考えているらしかった。

 セリフは耳に入れないで、京子は友部の顔だけを見た。

 美しかった。

 確かに、自分はこちらの、美しいがお調子者の妖魔ハンターのほうに惹かれていると思う。できたら、もう一度会ってみたいと思っていたのも事実だ。

 しかし、小学校へ行く道をこわごわ歩いているのを友部に見つけられたとき、京子が最初に覚えた感情は、安堵でもなければ歓喜でもなかった。

 ――恐怖。

 友部は街灯の光を浴びて、いつのまにか京子の前にたたずんでいた。その表情はこの上もなく冷然としていて、これが友部だったかと我が目を疑ったほどだった。着ている服がありふれたTシャツやジーンズなどではなく、一分いちぶの隙もないタキシードや黒いマントだったら、伝説や物語に出てくる妖魔のイメージそのままだった。

 だが、すぐに友部は態度を改め、昼間と同じ軽い調子で、夜にも学校行ってるのと言ってきた。それで京子はやっとほっとすることができたが、ここへ来て俊太郎の顔を見るまで、不安は完全には消え去らなかった。

 俊太郎にはそんなところはない。ちょっと頼りない気もするが、誠実で優しいいい人だと思う。妖魔に両親を殺されているというのも深く同情を誘った。

 それに比べ、友部は得体が知れない。俊太郎と一緒にいるときにはちっともそんなことは感じなかったのだが、いざ単独で会ってみると、何か毒のようなものを感じた。悪意というほど意識的なものではなく、知らず知らずのうちに滲み出てきてしまうらしいそれは、俊太郎とともにいるときだけ治まるようだった。

 俊太郎はいなくなってしまったが、まだその効果は続いているようで、今の友部はそれほど怖くない。だから、友部のTシャツを引っ張るなどということもできたのだが、俊太郎にしてみれば、なぜわざわざ自分の前でといい迷惑である。


「そんなわけで、俺は妖魔ハンター続けるけど、君は? 将来、何になりたいの?」

「先生です!」


 瞳を輝かせて、京子は答えた。


「小さい頃から、ずっと決めてたんです。将来、絶対先生になろうって。勉強のことだけじゃなくて、とにかく困ってる子の力になれたらいいなって」

「……そう。それって、やっぱりお父さんの影響?」


 友部は苦笑に似た、それでも温かい笑みを浮かべていた。呆れていたのかもしれない。しかし、友部のそんな表情は、他の誰よりも美しく見えた。


「たぶん……そうだと思います。毎日忙しそうだったけど、父はとっても幸せそうでした。もう、お葬式も済んでるんですけど、小学校の子の他に、教え子の人たちもたくさん来てくれて、父のために泣いてくれました。そういうの見てたら、先生って大変だけど、やりがいのある仕事だなあって思って……改めて、絶対なろうって思ったんです」


 言いながら、本当は京子は泣きたかった。思い出の中の父は、厳しいところもあったが、それ以上に優しくもあったのだ。

 だが、京子は泣かなかった。葬式のときでも、必死でこみ上げてくる涙をこらえた。まだ、父は死んだとはっきり決まったわけではない。


「そうか」


 膝を抱えてうつむいて、どうにかして涙を流すまいとしていた京子に、友部はかわいそうにとか頑張ってとか、今まで京子が言われてきたような、ありきたりなことは言わなかった。


「優秀な先生にはなれないかもしれないけど……君はきっと、いい先生になるよ」


 友部のその言葉にはお世辞のようなものはまったく感じられなかった。ありがとうと言おうとして顔を上げてみると、友部は京子のほうは見ておらず、グラウンドのほうを見つめていた。

 俊太郎のことを気にかけているのだ。その横顔を見上げながら京子は思った。自分の相棒だから、後輩だからそれほど心配しているのかは判然としなかった。でも、それだけではないような気は薄々していた。


「友部さん」

「ん?」

「その指輪って、結婚指輪ですか?」

「へ? これ?」


 友部は驚いて京子を見、自分の左手の薬指にはまっている金の指輪を指した。


「ちゃうちゃう。こいつは親父の形見だよ。こっちの指にはめとくほうが邪魔にならないからはめてるだけ」

「形見って……友部さんも?」


 それより、友部にも親がいたことのほうに驚いた。本人には決して言えないが。


「いーや。俺の親は、俊太の親みたいな悲惨な死に方はしてないよ。案外、幸せだったんじゃないかな」


 わずかな光を反射して輝いているその指輪を、友部はひどく穏やかな表情で見下ろした。


「最後は二人一緒に死ねたんだから」


 思わず京子は返す言葉をなくした。それを見計らったように、急に友部は立ち上がり、数歩歩いて、京子を振り返った。


「悪いけど、ちょっとここに立っててくれる?」

「は、はい?」


 言われるまま、京子は立ち上がって、友部が指示した場所へ行った。

 友部はジーンズのポケットから白い紐を取り出して輪を作り、それを京子の頭からかぶせて地上に落とした。輪は人一人が楽に立てるくらいの大きさがあった。


「あの……?」


 怪訝に思って友部を見上げると、友部はにっと笑った。


「べーんーじょーにーつっこったーっ」

「友部さんッ!」

「うそうそ。冗談冗談。でも、命が惜しかったら、この輪から決して出ないように。俊太じゃないけど、出たらあんたを守ってやれる自信はないよ」


 笑っていたが、その目は真剣だった。再びあの恐怖を感じて、京子は黙ってうなずいた。


「やっぱり、俺のほうに来たか」


 舌なめずりでもするような、わくわくした様子で友部は屋上を見上げた。つられて京子も屋上を見る。

 今夜は限りなく満月に近い。屋上のそれは、黒い陰となって確認できた。

 時計台の針は、ちょうど十二時を指していた。

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