91:エンカウンター・2

 資料室の扉は廊下の窓から吹き込んでくる風に震えていた。

 寒いじゃないのと毒づいてその窓を閉めたあと、佳乃はくだんのドアの取っ手に手をかけた。力を込めずとも、軽く触れただけでそれは佳乃を迎え入れるように開放された。

 途端、部屋中に集められた古びた紙の独特の匂いもかき消すような異臭に佳乃は顔をしかめた。「うわ、たばこくさ!」

 ほとんど反射的に漏れた不服の声に慌てて自分の口を塞いだが、返る言葉や人の気配はなかった。そろそろと室内へ踏み込む。

 はずれの可能性も考えたが、どうやらニアミスなのは間違いがないと佳乃は確信した。

 雑多な資料が散らばる机の一角に、コーヒーの缶と灰皿、そしてそこからまだ微かに立ち上る一本の白い煙。

 ――ここにいたのは、間違いない。

「資料室を何だとおもってんのかしら、アイツ」

 ぶつぶつと文句を垂れ流しながら佳乃は机に近づいた。たばこの臭いが濃くなる。無意識に片手の甲を口許にあてがいながら、佳乃は机の上に残された紙類に目を凝らした。

(英語のプリントの採点してたのか……ん、あれ、この字)

 重ねられたプリントの一番上にあったそれをつまみ上げる。小さく丸く、上下にふわふわと漂うような安定感のない筆跡は、間違いなく双子の姉のものだった。

 急に心臓が跳ね上る。これは偶然なのか、それとも意図的な位置なのか――この字と向き合って、彼は一体何を思ったのか。

 佳乃は思わず花乃のプリントを、もとあったプリント束の下の方へ突っ込んだ。その勢いでばらけた紙類を慌ててかき集めた時、一番下に何か別種類の紙があったことに気付いた。

 藁半紙ではない、白く薄いその紙に印刷された見出しは『婚姻届』。しかも記入済。

(え?)

 佳乃は目を疑った。その拍子に、握りしめた紙束の隙間からぽとりと何かが落ちた。えらく動揺していた佳乃は、慌てて拾い上げたあとにもう一度婚姻届の真実を確かめようと思っていたが、今度は床の上に落ちたものに視線が釘付けになってしまった。

(――えええ?)


「何をしてる。カンニングと見なすぞ」

 佳乃はひっと息を詰めて振り返った。案の定、そこに探していた教師がいた。

 彼は眉をひそめ、切れ長の目を眇めて佳乃の方をじっと睨んでいた。教室に射し込む夕陽が逆光になって、生徒の顔を特定できないようだった。

 佳乃は激しく暴れる心臓を押さえ、何とか声を絞り出した。

「い、磐城先生」

「……関、口」

 発した彼の声はかすれていた。佳乃が初めて聞く声だった。だが佳乃が怪訝に思うのと、英秋が大きな溜息をつくのは同時だった。

「ああ、妹か。なんだ、君でもカンニングの必要があるのか」

「な、ないわよっ! 失礼な、あたしを誰だと思ってんのよ!」

 いきり立つ佳乃に、英秋は不適な笑みを浮かべながら近づいてきた。

「学年一やかましい小姑の関口妹だろう? 秀才ってのはもっと思慮深く奥ゆかしいタチの奴らを言うんだと思ってたね」

「キイィ! このペテン教師、本性を見せたわね!」

 佳乃は喚いて、手にしていたプリント類を英秋に向かって突き出した。「これはどういうことよ!」

 英秋の顔色が変わった。あっという間にそれを佳乃の手から奪い取った彼は、足元に落ちていたものも素早く拾い上げて机の上に伏せた。

「……盗み見るとは、いい度胸だな」

 佳乃は凄みにも動じず、むしろ開き直って、英秋の前に立ちはだかった。

「花乃はね、あんたに幸せになって欲しいから、もういいんだって言ったのよ」

 姉はきっと結婚の事実を知っていたのだろう。英秋が選ぶ道を幸せと考えて身を引いた。

「あんたが――先生でいてくれることが一番だって、そう言ったのよ――」

 佳乃の声は震えだした。英秋が、伏せた手に力をこめるのが見て取れた。その手の下、彼の用意しているものを花乃が知ったとき、あの子はどれほど傷つくだろうと思うと、いたたまれない。

「あたし、あんたに本心を聞くつもりだった。本当は花乃のことが好きなんだろうって……でももう、あんたが花乃を好きでも嫌いでもどうでもいいわ。どうせ結婚するんだからね。報われなかった花乃は、あたしが心を込めて慰めるからいいのよ。でもね――だからって」

 佳乃は震える喉で息を吸った。英秋は何も言わずに目を閉じた。

「花乃の最後の真心まで粉々にうち砕くつもりなら、あたしは、あんたを一生許さない!」


(あのあと、アイツは何にも答えなかった。……わけわかんないわよ、もう)

 肯定も否定もせず、ただ「さあ、どうだかな」と答えて英秋は資料室を出ていったのだ。もちろん、証拠となる紙の束はすべてその手に抱えて。プリントと、婚姻届と、そしてもう一枚の。

(――あのこと、この人は知ってるの?)

 佳乃は黙ってほのかを見返した。どうやら、自分は花乃と間違われているらしいことだけは解る。ならば、それでできるだけの情報を引き出してやろうと密かに決心した。

 佳乃の顔つきの変化を察した忍が嫌な予感をそのまま顔に浮かべたが、ほのかは気付かないようだった。

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