75:COME TO AN END・2
普段は乗らない電車に乗り次いで花乃がやってきたのは、間口の狭い家が立ち並ぶ住宅地だった。各屋色とりどりの瓦葺の屋根をかぶった古き良き日本の住宅の面影を残す、懐かしい下町の風景。ひしめくようにして建っているそれらの中の一つに、「福原」の表札があった。
花乃は手にした封筒のしわを何度も伸ばし、ひとつ深呼吸をしたあと、スピーカーも何もないシンプルな呼び鈴をぎゅっと押した。これまた懐かしいようなブーという独特の音がして、間もなく中から、はあいと陽気に答える声があった。声域からして、どう聞いても忍の声ではなかった。
目の前の引き戸がガタガタと音をたてる。花乃が一歩あとずさるのと、「ふん!」という掛け声とともに扉が勢いよく開くのは同時だった。
「もーやだーこの戸、たてつけが悪いったら……えと? どちらさま?」
きょとんと丸い目を花乃に向けて曖昧に微笑んだのは、花乃と同い年くらいに見える――いや花乃の外見が相当子供じみているところからして、おそらく3,4歳は下かと思われる少女だった。一瞬忍の母親だろうかという考えがよぎったが、さすがに常識では受け入れ難い若さにしか見えないし、決定的な確信を与えたものはその服だった。紺地に白いラインのセーラー服。
「あ、ええと……福原く……忍くんに」
「あああーっ!」
花乃が用件を言い終わるより先に、少女はその目と口をめいっぱい広げて花乃を指差した。
「お兄ちゃんの彼女だ! カノちゃんでしょ! だよね!」
突然言い当てられた戸惑いでまばたきを繰り返しながら、花乃は小さく頷こうとした。けれど少女の背後から響き渡ったとんでもない足音に気を取られ、首はそれ以上動かなかった。
「マジでえ!? どれどれどれうおっホントに女だ!」
「兄ちゃんの彼女って!? え、兄ちゃんと同じクラスの?」
「しいちゃんとおんなじくらいに見えるねえ。でもかわいいねえ」
「見えないよどいてよーっ」
「コラ押すな竜!」
予想外の展開に、花乃はふらふらと続けてニ、三歩あとずさった。お世辞にも広いとは言えないこの家の中にいったいどれだけの人数が入るのだろうと目を疑ったほど、わんさと鈴なりになった子供達がこぞって花乃の方を注視していた。気をつけて数えると、男の子が3人、女の子が2人。全員忍の弟妹なのだろうか。
花乃が凝固してしまったのを見て、出迎えた少女が甲高い声を張り上げた。
「コラッ、カノちゃん怖がっちゃったじゃん。ほら散った散った」
身を乗り出す弟達をぎゅうぎゅうと廊下の奥まで押しやってから、少女はくるりと振り返る。
「ちょっとだけそこで待っててねー、今お兄ちゃん呼んできてあげる!」
少女のスキップに連打された木の階段がぎしぎしと鳴く音がして、残された少年少女は今度は階段の下に鈴なりになって2階の様子を覗き込んでいる。半ば放心した状態でそれを眺めていた花乃は、ほどなくものすごい勢いで階段を駆け下りてくる音に気付いて背筋を正した。
団子になった子供達を掻き分けて飛び出してきたのは、他でもない忍だった。
「花乃ちゃん」
「いきなりごめんね、福原くん。あの」
花乃が上目遣いに見上げた忍は寝巻き姿ではないにしろ、それに近いようなスウェットの上下を着ていた。髪もどこかしら煩雑に飛び跳ねて見える。もしかして具合が悪くて寝込んでいたのだろうかと心配になった花乃は、それまでの気概もどこへやら、ひどく弱々しい声で尋ねた。
「いま、だいじょうぶかなあ……?」
忍はかすかに戸惑った様子を見せたが、すぐに頷いた。「ああうん、平気だよ」
玄関までやってきた忍は、ぞろぞろとついてくる興味津々の子供達を尻目に、ぴしゃりと後ろ手に扉を閉めて遮断した。表は寒いのではないかと思ったが、忍は案外気持ちが良さそうに伸びをしている。「やっぱり一日中篭ってるよりは、外の空気吸った方がマシだね。で、なに?」
「これ、進路課からだって。預かってきたの」
封筒を手渡すと、忍は中身を確認してああと笑った。「頼んでた願書だ。ありがとう」
そういえばと思い当たる。忍はセンター試験を受けたわけではなさそうだったが、推薦でどこかに受かったと明確に聞いたわけでもなかった。しかし1月も後半になった今から願書を準備するというのは、一般的には少し遅い対応の部類に入るのではないだろうか。
もの問いたげな花乃の視線に気付いたのか、忍は困ったように眉をひそめて微笑んだ。
「……ちょっとだけ、歩こうか?」
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