39:センセイの巣

 千歌や夕子と食堂で昼食を済ませたとき、ちょうど後ろの席に着席した別のクラスの女生徒たちの声が、花乃の耳に飛び込んできた。

「あっケイコ来たよ! ねえ、いたー?」

「ううん、職員室とかLLRとか見てきたけどいなかった~。よそのクラスの女子も探してたけど、結局みんな見つけられなかったみたい。中庭にもいないんだって」

「ええー? せっかくチャンスなのに、いつもどこ行っちゃうんだろヒデせんせー」

 ぶいぶいとかしましく喚く女子たちに一瞥をくれて、千歌は肩を竦めた。

「磐城先生も大変ね、これだけ追い掛け回されちゃ逃げたくなる気持ちもわかるわ」

「格好と愛想はいいけど、私生活の想像がまったくできないよねあの先生」

 ぼそぼそと小声でつつきあう千歌と夕子を見ていた花乃は、しばらく足の先をむずむずとさせていたかと思うと、トレーを手にいきなり立ち上がった。

「えっとわたし、ちょっと用事思い出したから先に行ってるね。ごちそうさまー」

 トレーを返却口に戻して食堂から出た花乃は、横殴りに吹き付ける冷たい風に顔をしかめながら渡り廊下を小走りで渡りきり、図書室棟へ向かった。たん、たん、と軽く階段を上ると、吐き出す息がうっすら白く舞いあがる。同じテンポで高揚してくる不思議なきもちを感じる。

 わたしなら、きっと見つけられると思った。


『教材資料室』――その閉め切られた扉の前に立って、花乃は息を吸いこんだ。擦り切れた取っ手に手をかけ、少し力をこめると、案の定それはかすれた音をたて花乃を迎え入れた。

 鼻先をくゆる覚えのあるにおいに確信する。いつもなら煙たいと思うはずのそれすらも、掴んだ尻尾のように思えて、懐かしくて嬉しい。

 教材のみが煩雑と散らばる室内に向かって、花乃は遠慮がちに、けれども見つけたと言わんばかりの声音で話しかけた。

「……セーンセイ?」

 しんと静まり返ったまま返事がないことにもめげず、花乃は扉を閉めてくんくんと鼻を動かした。

「ここ、禁煙なんですよ。本がいっぱいあるし、燃えると危ないじゃないですか?」

「……火事なんか起こすか、お前じゃあるまいし」

 本棚の奥から呆れた顔をして出て来たのは、しかめ面を極めたような美丈夫だった。いつものことながら無駄な笑顔の一片も見せようとはしないプライベートの英秋に、何故だか安心する。久しぶりに見た二重人格ぶりに、予想以上に驚いていたのかもしれない。

「やっぱりここでした。みんな探してましたよ」

「絶対誰にも言うなよ、もうこれ以上やかましいのにつきまとわれるのはうんざりだ」

 大仰なため息と一緒に煙を吐き出して、英秋は本棚にもたれかかった。「久しぶりの授業は疲れるったらないな。おまけに朝から夕方までガキがぎゃあぎゃあ騒いで、気の安まる時がない」

 相変わらずの毒舌ぶりに花乃が苦笑をもらすと、英秋は不意に花乃を睨んだ。

「お前もだ関口。何の用だ」

「え、用」

 ぽかんとする花乃を見て、不良教師は頭を抱える。「お前なぁ……。連絡は緊急時だけだって言っただろう、何なんだよあのメールも」

 予想はしないでもなかったが、やはり怒られた。反省して素直に謝ったものの、悪びれず笑いを収めない花乃に、英秋はほとんど諦めにも同情にも似た口調でぼやいた。

「よほど暇かしらないが、あんなのは福原に宛てるだけで充分だろ、勘弁してくれ」

「うーん、でも、わたしがメールするのってセンセイだけですし」

 ごく自然に、普通のことを答えたつもりだった。

 けれど英秋は明らかに顔色を変えた。いつも変わらずにあった余裕が消えて、眉間に刻まれたしわが凍りついたように深くなった。くわえていた煙草を離した口が、乾いた声を搾り出す。

「俺だけ? ――お前は福原とつきあっているんだろう」

「え? ……ハイ、そうだとおもいますけど」

 きょとんとして頷く花乃を見た英秋の視線が急激に冷えた。少なくとも花乃はそう感じた。

「お前は自分がやっていることを解ってない。この際だから言っておいてやる、もう俺にかかわるのはやめろ。取り引きも終了しただろう、俺がお前につきあう理由もない。はっきり言って――」

 そこで少しだけ間を置いて、けれど花乃が口を挟むよりも早く、英秋は言いはなった。

「お前にこれ以上つきまとわれるのは、迷惑だ」


 面と向かってこんな風に自分を拒絶されたことは初めてだった。花乃は何度かパクパクと口を動かしたあと、ようやく大きく息をはいて、それから間の抜けた声でゴメンナサイと呟いた。

「わたし、あの、もしかして……迷惑かけちゃったんですか、ほのかさんとか」

「あいつは関係ない。でも俺なんかにつきまとうのは、お前にとっても良くない」

 さりげないフォローに聞こえなくもなかったけれど、この時花乃の言語処理能力はほとんど使いものにならない状態だった。先ほどのたった一言の衝撃で、壊れそうになっている。

 迷惑だと言われた。迷惑をかけた。

 その事実の重さに。

「ごめんなさい、わたし、気付か、なくて――」

 呆然と繰り返す花乃を見て、英秋は一瞬眉根を寄せひどく辛そうな顔をしたが、吐き出す言葉に感情はこもらなかった。煙草をアルミの携帯灰皿に放りこんだあと、体を起こして背を向ける。

「そういうことだから、余計なメールももうやめろ。こんな風に俺を探したりもするな。でも迷惑をかけたのはお互い様だ……本当に用事がある時は、一度くらいなら呼び出しても構わない」

 彼なりの最後の優しさだったのか、それだけは花乃の耳にもしっかりと届いた。英秋が出て行って間もなく、遠く予鈴の鳴り響くのが聞こえたが、足が固まって動かなかった。

(わたし、なにかいけないことをいった?)

 話の途中で突然英秋の態度が変わったのは確かだった。何かがいけなかったのだ――けれどたった数秒前のことなのに、何を言ったのか思い出せない。本当に嫌われてしまったかもしれないということだけがぐるぐると頭と心を往復している。

(最後って言った……最後の、たったひとつの)


 のこる願いごとは一つ。そう宣告されたのだと、花乃は気付いた。

 警鐘が鳴りひびく。この魔法のリミットを知らせる。

 たった一つ待つ小さなピリオドに向かう、長くて短く、安易なようで難解な、最後のセンテンス。

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