嵐の告白・2

「どういうこと」

 髪も服も水浸しで、濡れそぼったスカートの裾からはぽとぽととひっきりなしに滴が零れ落ちてフロアを叩く。開け放したドアからは渦巻く風と雨が吹きこんできて、けたたましいほどの音でベルをかき鳴らした。

 オルゴールの音色など、もう聞こえなかった。

「ヨシノ……」

 エマが呟いた声で、拓也はようやく我に返って口を開いた。

「関口さん、どうして」

「うるさい! アンタに何一つ訊かれることなんてないわ!」

 佳乃は自分でもどうしようもないほど逆上しているのが解っていた。それまで拓也に詰問しようと思っていた事が全部吹っ飛んで、たった一つ心に残ったものが佳乃を勝手に突き動かしていた。

「今のは本当なの――あんたがアメリカへ行く原因は……エマさんなの?」

 佳乃はエマの方へ向き直り、もう一度それを尋ねた。「あなたが連れていくの?」

 エマは答えずに、悲しげな顔で佳乃を見返していた。その胸の前で組まれた細い指の隙間から見えたものに、佳乃ははっとした。

 日本のアミュレット。あれは、もしかして――!

 佳乃はエマに駆けより、いきなりその手からそれを奪い取った。

「関口さん!」

 制止しようとする拓也の手を振り払って目の前にかざしたそれに、佳乃は見覚えがあった。

 自分がこの手に掴んで恋の成就を願い、その僅か数日後に破綻してしまった腹いせに、所有権を放棄して目の前にいた邪魔者に投げつけたもの。

 その記憶は、直後の事件と相俟って忘れようもなかった。

 すべての原因になった、ほんの小さな薄紅色の縁結びのお守りを。


(肌身離さず、持っていれば、願いはかなう――)


「関口さん、いい加減にしてください! なんのつもりですか!」

 これほど声を荒げる拓也は初めてで、佳乃は思わず肩を竦めた。

 彼は儚く佇むエマのそばに寄り添って、佳乃を激しい眼差しで睨みつけていた。

「なんのつもりって? 決まってるじゃないの、よくも今まで人のことを散々に言ってくれたわね。その上、アメリカ? あたしに何も言わずに一人で逃げるつもりなの!?」

 負けじと叫んでいると、からだが熱くなってくるのがわかった。

 怒りと悔しさと悲しみの入り混じった感情のエネルギーは、負の傾向にも関わらずまるで炎のようだと思った。

「あなたには、何も関係ない。詰問される覚えもありません」

 一転して氷温の口調で、拓也は佳乃の怒りを切り捨てた。取り付く島もなかった。

 関係ない、関係ない、関係ない――何度言えば気が済むんだ。

「だったらあんたには訊かない。あなたなら答えてくれるはずよ、エマさん。あたしは守ったんだから。どうしてそんなにまでして、神崎を連れていこうとするの!」

 何を、と言わなくともエマは察したらしかった。詰め寄る佳乃を見つめて、エマは口を開こうとした。「ヨシノ……それは」

「言わなくていい。関口さんに話すことは何もないんです」

 佳乃とエマの間に立ち塞がった拓也は、佳乃を見下ろして言い放った。

「エマには関わらないでください、迷惑なのが解らないんですか。いい加減にして下さい」


 もう痛みすら感じない―――


 荒れ狂う風の音が、微かな旋律をかき消す。気付いたとき、佳乃は笑っていた。

「やっぱりそうだったの」

 なにもかも。出会ってからの何もかもが。

「あたしを、騙して、からかって、さぞ楽しかったでしょうね」

 憎くて憎くて、仕方がなかった。

 おかしなほどに。

「そんなにあたしが嫌いなの」


 何一つ、見えない真実。

 何一つ、信じることのできない闇。


「うそつき」


 瞳から溢れ出て、頬を滑り落ちる感情。迸るそれを、もう止めることなどできなかった。

 拓也は初めて表情を変え、心底驚いた顔をして呆然と佳乃を見つめた。

「うそつき――うそつきうそつき! 一体どれだけ、あたしをバカにすれば気がすむの! もう誰も、もう、誰も、信じたりなんかしない! 全部あんたのせいよ!」

 手にしていたお守りを握りつぶして、佳乃は泣き叫んだ。

「これはあたしが捨ててきてあげるわよ、あんたになんかもう二度と触ってほしくない!」

「――関口さ」

 逡巡の末に伸ばされた拓也の手を力いっぱい叩き落として、佳乃は後ずさった。


「もう二度と、恋なんかするもんか……」


 風と雨の叩きつける嵐のなかへ逃げ出すように、佳乃は駆け出した。

 体中を打ちつける刃みたいな雨粒も、今は痛いと思わなかった。

 ただひどく冷たかった。

 息も出来ないような風と暗闇。それだけが佳乃を迎えて、包んでくれるもの。

 手の中で潰れて濡れているお守りが、あまりに哀しかった。

 出会わなければ良かったと、思った。





 うそつき。

 彼女にうそをついたことはたったの一度もないと、それだけは断言できるのに。

 最後に彼女から受け取った言葉は、非常に不名誉なものだった。


 オルゴールの旋律が、耳の奥を漂っているのはわかる。

 けれど、引切り無しにがらがらと音を立てる入り口のベルや、街路を容赦なく叩きつける雨の音が、それを絡めて包んでごくひそやかなものにしてしまう。

 煩いのか閑かなのか解らない感覚の中、拓也はいましがた彼女が出て行ったドアの向こうを放心したように眺めていた。

 見るはずのなかったもの――予想外のものを目にしてしまってから、弾みでフラッシュバックする思い出を抑制するので精一杯で、彼女の言葉がよく聞き取れなかった。

 涙――彼女は泣いていた。

(……なぜ)

 嫌われるのが本望だった。けれど、傷つけるとは思っていなかった。いつものように激昂した彼女から大嫌いだとか最低だとかの暴言を引き出してそれで別れてしまえれば良かった。

(なぜ泣くんですか)

 自分の言葉で彼女を泣かせるなんて、思ってもみないことだった。

 何が起こったのか、理解できない。

「……タクヤ」

 エマは震える手を伸ばし、拓也のシャツを掴んだ。

「叶えたいもの、ヨシノなの……?」

 振り返った拓也の目に、張り詰めたエマの表情が映る。少女の澄んだ瞳は虚ろで、怯えだけが色濃く浮かんでいた。「あのアミュレットはヨシノにもらったものだったの?」

「……いいえ」

 拓也は首を振り、冷えた風の吹き込むドアに向かった。扉に手をかけると大粒の雨が手や顔に当たってはじけ散る。つめたいというより、いたいと思った。こんなものの降る中を、彼女はたった一人でやって来て、そして他でもない自分の言葉で、彼女は傷ついて。

「タクヤはこれでいいの。ワタシ……タクヤに一緒に行ってほしい、一人にしないでほしい。さみしい……。でも、タクヤを哀しい思いにはさせたくないの」

 扉を閉めようと力をこめた手が、うまく言う事を聞かない。

 拓也が振り返ったとき、エマはほんのかすかに微笑んでいるように見えた。

「ヨシノ、もう恋なんかしないって言った。……ヨシノは、たった今まで恋をしてたのね」


 恋を。

 この嵐の中を、やってくるほどの恋を。


(もう、恋なんか、しない…?)

 忍との恋であれほど傷付いた――傷付けた彼女への想いなど、叶うはずはないと解っている。

 けれど、もし。もしそんな風に思わせたのが自分だとすれば、それは許されない事だった。彼女の心に傷を残して、彼女がやがて未来で迎える恋愛の邪魔をしたいなどとは思わない。

「エマ」

 拓也はエマに駆け寄り、ずれ落ちた彼女のショールをもう一度肩にかけてやると、大きく息を吐いて一息に言った。

「あなたはこの店を閉めて部屋にいてください。僕はすぐに戻るから」

「タクヤ」

 必死の想いを込めて見上げてくるエマの目を直視することができず、拓也はそのまま駆け出した。エマの伸ばした細い指は届かなかった。拓也は開け放された扉から、激しい嵐の世界へ飛び出して行ってしまった。

 そして、たったひとりで残される世界。

 がたがたと揺れる窓、轟々と低く唸る風。その中に、何かの余韻のように響くオルゴール。陽のない薄闇に佇むことの儚さ。

 急に足元が覚束なくなる。こんな暗い世界にたった一人残される。

「こわい……タクヤ、おねがいひとりにしないで」

 ひとりはいや。その言葉は硝子のふれあうようなオルゴールの音色よりも儚く、消えた。

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